1945年東京品川、立会い川駅に付近で生まれた者が、(ここは江戸時代、土佐藩の山内陽堂屋敷があった場所)今は「国道122号線上の橋」と化してしまった「地」で18歳まで過ごし、その地の変貌振りを・・・・・・
その地「切幹」の変貌振り
比較その1〜日光方面を望む
1987年11月28日、それはそれは寒い日でした。冷たい雨が降り注ぎまるで「親父の悲しい涙」を思わせるどんよりとした寂しくそして悲しい空模様でした。
道路も現在と比べて2分の一以下の広さです。しかし下の写真をご覧下さい。2006年12月に撮影したものですが、現在は広軌の規格になり歩道も設けられ「足尾の中でも一番の様変わり」です。左側の住宅は取り壊され今は「道路」となっているのがよく判ると思います。
2006年12月
比較その2〜桐生方面を望む
1987年11月
2006年12月
空家となっていますが20年前のままの建物です。しかし右側の住宅は取り払われ広〜い道路となりました。
2006年12月
道路改修がされていない当時「足尾の入り口〜切幹」でしたが、何分“鬼門”の様相を呈していました。それは群馬県側から車で走行して来ると突然道路が狭くなり、その狭い道路を塞ぐ様に「まるでバラック建ての住宅」の如く貧弱な建物が立ち並んでいる様に見えたからです。多くの初めて足尾を車で訪れた方は、時代に取り残されてしまった地域に映った様だと私の数名の知り合いが述べていました。その建物が特別に見劣りするほどではありませんが、何分道路が狭くその覆い被さるような住宅が「狭〜い道路で暗〜い雰囲気」を演出していたようです。上の写真は今は誰も住んでいませんが、当時1987年当時のままで、特別ひどい建物ではありません。
2006年12月14日に撮影したものですが、現在は当時の2倍以上の広さになり交通量も比べものにならない位に多くなりました。
現在の足尾玄関口「切幹」 1987年当時とは比べものにならないほど道路幅は広がり、玄関口に相応しい「明るい雰囲気」になりました。当時ガキ大将として遊んだ頃の面影は道路からはでは思いつきません。
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