原小学校を昭和30年代に卒業した同窓の友が5年毎に開催している
毎日の健康日記を書いており、その中から「抜粋」して記しています。原のこ会に対しての想いを綴った心情が含んでの日記です。読み順として「ページ1」から・・・・
 ページ.3
学び舎の友、良亮ちゃんは≪JR東日本副社長≫へ
10月16〜17日の2日間、小学校の同窓会が一晩宿泊で、ある片田舎の温泉施設を利用して開催。

20年前に第1回をスタート、それより5年毎に開催今回で4回目、会を重ねるごとに参加人数が少なくなりこれも仕方の無い事と代表幹事とし、ごく一般的なパターンで必然性と気にも留める事無く11名で当時にタイムスリップしました。

初回の30数名の参加時と異なる、と思いつつ4度目の今回の参加者は11名のみでした。これがよりアッホームな交流の場となり、参加人数が多い時の雰囲気とは異質で、少ない人数がそうさせたのでしょう、それはそれは楽しいものでした。

小規模小学校100名ほどの児童数で4学年合同の同窓会、最年長は65歳、全てが60歳を越した方々です。

この年齢域に入ると現役で社会の中枢に於ける時とは異なり、多種多様な事象が生じ、同窓会などと言う機会は避けると言うか、参加不可能と言う現実に直面するのだろうなぁ〜と、私なりの論理が生じ容易に理解することが出来るのです。

その中でも我が友、学び舎の下での同窓の友とし、特筆すべき人物が1人存在する事は誇りに、思ったであろうと集ったこの11人。

今思えば、幼き頃よりどこか風貌と言い、思考原理と言い「哲学者的」であったその人物とは。・・・・

私が6年生、彼は5年生、複式学年が一つのクラスで一緒に授業を受けると言う形態であった事により、3年間は必ずその彼とは一緒であったが、その中でも6年生時の思い出が一番鮮明に記憶されていました。

その彼は努力の人で今はJR東日本の副社長に君臨していました。高校を卒業と同時に国鉄・岩倉鉄道学校に入り、国鉄マンとし地道に努力し、その結果が副社長の椅子を射止めたのです。

彼との関係はその彼の私より一つ上のお姉さん、その関係から繋がっていました。

そのお姉さんは彼と同様、学業成績優秀で、その方が使用した教科書をお下がりとして、私が譲り受け、その教科書を私が使った後に今度は私より1歳年下の彼が使う事になっていたのです。

このような繋がりは中学校時代まで行われていました。

私は幼き頃より彼のお姉さんには「憧れと羨望の意識」が存在し、尊敬の念で彼女を見ていましたので、そのお姉さんの教科書をお下がりとして使用する事は「誇り」としていた節が幼き心にあったのです。

その弟である彼との関係も以外に深く、私が悪がきとして君臨し小学校高学年6年生の時代、いつも側近の如く彼とはつるんで、勉強もそして遊んでもいました。

特に2人は同じような環境であった事がそうさせたのかも知れません。、当時5年6年の受け持ちであった教師の存在が大きく2人に影響を与え、そして思い出も沢山、記憶に残る事になるのです。

その先生は2人の面倒を見てくれてた記憶が鮮明にあるのです。勉強で褒められたり、子供の独特の発想で思いも寄らない悪戯を行い、怒られるのもその学年時、いつも一緒でした。

その彼が今はJR東日本の副社長と言う椅子まで登りつめ、社会的影響も大きいのでいい加減な事は記せませんが、我がふるさとそして同じ学び舎で育った小学校同窓生として「誇り」に思うのです。

私たち2人には造詣の深いその教師は、若かりし頃、早期の出世で50歳で校長になり、55歳で癌と言う病に倒れ、数10年前に他界してしまいましたが、彼にも私にもその教えは現在に於いても大変な影響を受けたと思っています。

その様な教師の元で社会的に影響力のある人物が育ち、そして生まれた我が学び舎、同窓生、そしてその会は16日の夜、酔いつぶれるほどの酒を飲み交わしタイムスリップするのでした。

更には私と生徒会長選出で戦った「憎っ気ライバル君」

との感激の再会は、病に犯され医者にはアト数年の命だと宣告を受け、しかしそれを見事、払拭し乗りきり克服してその勇気には感動と尊敬でその嬉しさを一緒に涙するのでした。

現在、京都より関東に単身赴任で現役生活を続け、病に冒されたなどとは思えない元気さを確認し「ホッ」とした気持ち一杯でした。

お互いに65歳、病にならないには、と私の持論をとくとくと説いてその夜は過ぎたのでした。

JR東日本の副社長である友は、多忙な日程の中を割いて駆けつけて頂き、ありがとうとお礼を述べ、その多忙さを象徴するようにその彼は朝6時に宿を後にしたのです。

それ以外の私たちは朝食後、ミィーティングを行い5年後の再会を誓い合い、それぞれがその宿を10時にチエックアウトしその後、それぞれの自宅に向うのでした。

ありがとう我が友、5年後の再会にはまた「元気な顔を見せてくれよ」と心の中で叫び、代表幹事を務めた安堵感で疲れが「ドッ」と来るのを覚えるのでした。
ページ.2
思い出せばそれは10歳の時、同じ学年で5年生が男子1人に女子6人と言う人数の中の教室での授業。
9歳の時の1年間はもっと少なかった。その時は4年生であったが男2人だけの授業。
これを読んだだけでは何が書かれているか「難解」ですが、過去の日記に糸解くガギが記されています。

1年生〜3年生まで生徒数100名程の小規模小学校へ通う。
4年生の時、1年間だけ親父の仕事の関係で生徒数50名程の小さな分校に通う。ここでの同学年は男子2名だけ
5年生〜6年生の時、また100名ほどの小規模小学校へ戻って来る。

戻った小学校の事です。
元々、小規模小学校は私と同学年の生徒、男子1人で女子6人、男女合わせて7人しかいない構成でした。
ところが5年生の1学期時、私以外に男子が他の都会の学校から転校して来て、私の学年に編入されたのです。
私にとって事件でした。いままで男子1人で威張っていられたのが突然、強敵なライバルが現れたのです。

平和にそしてハーレム?を築き、勉強も一番出来、頭が良い男と、そうして一番、強い奴と自慢の種が、それはそうです。男子は他に誰もいないのですから・・・。

そのライバルは私以上に女子に優しく、勉強もまぁまぁで人気度は、女子の圧倒的多数は私を超えてしまっていました。
悔しい!と地団駄踏んでもアトの祭り、今までの行状がいただけなかった。

男1人をいいことに、好き勝手放題で、意地悪もし、いじめも行なって来たことが、このライバル出現で、我が世の春も崩壊!の一途でした。

それが如実に出たのが6年生の生徒会長選出の選挙で、全校生徒数100名規模であり、毎年、1学期始めにその生徒会長を全校生徒で選挙による選出が行われ、その候補者は私と5年生の時に「突然、現れたライバル」でした。

実はこの年に他にも男子が、このライバルが出現してまもなく編入して来ていました。彼は「私とそのライバル」のような野心はなく、静でおとなしい、そんな戦いを好むタイプではありませんでした。

この時点で6年生の学年が男子3人に女子6人と言う、男女9人構成にはなっていました。
そのライバルは住まいで言うと南の方面、私は北の方面が住まいで、学校へ通うのも北方面の他の学年を引き連れて、配下の如くソロソロと毎日、学校に通ったのです。

ライバルも同様、南方面に住む生徒を引き連れての登校でした。お互いに全校生徒に対しての影響は何らかの形で与えていたのです。

その生徒会長選出、まさに北と南に分かれての戦争?天下分け目の「関が原の戦い」でした。
このライバルが出現さえしなければ我が天下国家であったが、憎っ気ライバルは女性に優しく、と力持ち、そして頭の程度も同列、ただ悔しかったのは「都会っ子」で、どこか垢抜けていたのです。

しかし、負けん気の強さと負けず嫌いが物を言い、あいつに投票したらもう遊んでやらないぞ!等と下級生に圧力をかけ、多くの男子生徒は殆どが私に投票。

ただ都会育ちのシティボーイに、男の嫉妬がそうさせたのだろう、その圧力はたいした役には立たず、今に思うとその垢抜けた部分に男子生徒が嫉妬で反発し、多くの男子は私に投票したのだろう思うのです。

我が学年でも、9人の構成ですがその内の6人が女子、5年生以下も男子と女子の割合が4対6でどうしても女子生徒の多くが、その女子が憎きライバルに投票では、結果は押して知るべしと、11歳にして「女に負けた」と完敗を認め予想通りでした。

憎っくきライバルが全体の投票割合で6対4、6割を得ての投票結果で生徒会長選出で会長職?得たのでした。
これが生まれた初めての我が最初の経験・挫折!でした。

現代の政治世界の縮図を11歳で会得したようなもの、私はその挫折を背負いながら副会長の席に留まり、その「寝首を掻く」戦略を虎視眈々とし、機会を伺っていましたが、その時は意外に早く訪れたのです。

何と、会長選出選挙から1ヶ月も満たない時にまた「親の仕事の都合」で彼は転校する事になってしまったのです。これにはラッキーと配下の悪がきと祝杯!とはいかないが、天から降って沸いた政変?にしめしめと微笑んだのです。

そのライバルとの学校生活はわずか1年を共にしましたが、私にとって忘れられない「挫折とライバル」と言う、社会に出たなら避けて通れない経験は、憎っく気相手から11歳でその感覚を得た大きな収穫でもありました。

明日開催される同窓会に京都から栃木県の山間の寂れてしまった街、にやって来るのです。どんな変身を遂げているか楽しみです。
当時、私にとって真剣にそして悔しい思いが残ったドラマの展開でした。
今に思うと「笑えるドラマ」で、何と楽しい思い出かと、そしてその成果は強い私自身を、また初めての経験を与えたくれた感謝に、懐かしさで涙が出る思いです。
ぺーじ.1
同窓会
1945年生まれの小学校「同窓会」

今から21年前に小学校の閉校式が行われ、そこで同席した卒業生有志で、小学校の同窓会を行おう!と話が決まりました。そしてその翌年から5年毎に開催されているのだが、20年前に開催されたその同窓会は30数名が出席されました。

閉校した小学校はもともと生徒数が少なく、私たちが小学校の頃、生徒数は100名ほどの、アットホームな学校でした。

授業方法も「1年2年、3年4年、5年6年」と言う、複数の学年を1人の教師が受け持つと言う、小規模学校の特徴あるスタイルでした。

その同窓会も、複数学年の混同で行うが、当時は学年は関係なく、学校でも家に帰ってからでも一緒に遊んだり、学んだりした関係で、年齢は一切関係なくそして違和感もありませんでした。

その1回目が行われた同窓会も、一気に顔を合わせると同時に「タイムスリップ」状態でした。

1回目の1990年は30数が名出席し、それから5年毎の開催で、2回目は25名、3回目は13名でした。
そして今年、2010年の開催は10月中旬に第4回目が開催されるのだが、今回は11名と言う人数です。

決して少ないとは思いません。ここの年代に来ると難しい問題を抱える方も多くなり、「顔を見せて皆と談笑し楽しみたい!」と思っているがそれが出来ない、そのような方々の事情も予想しおり、4回目の人数としては「こんなもんであろう」と、ただ参加できる事は幸せと考えるのです。

4学年合同だけでは卒業の生徒数は60名、その対象者も死亡したりした方があり、58名ですが、その中で「学年毎に幹事」がその学年をまとめ、そして代表幹事をいつも私が行うのです。

4学年が合同で、今年4回目となると全てが60歳以上となり、まだ現役で社会の中枢で活躍していた頃と比べると、どうしてもそれぞれ事情が出来、出席が困難になるのだろうなと感じるのです。

60歳以上ともなると将来への先が見え、より元気になる方、どこか失望感をただ寄せる方、体に異常を訴え病との闘いに明け暮れる方とそれぞれです。

これは同窓会と言うミクロの世界の話ではなく、一般的な事象ですが、人生は自分で決めるもの、人様がどうのこうのと言っても始まるものではありません。

60歳ならその60年の生き方の積み重ねと、思うのです。しかし、気が付いた時は「手遅れ」と言う場合が多いと世間では言いますが、そんな事はありません。

人生は60歳から第二の青春のスタートと思っており、これからが人生セカンドステージが始める!といつも説いています。

人生120歳と、それは学説的に可能であると証明され、多くは生きる上で、体に良くない事を行い、1引き、2引きとその生命が消えていくのです。

その為には体に悪い事を行わない。その消去法の消される事柄を避けた生活を行う。これがキーワードと・・・

60歳過ぎたからと言って希望を失う事はありません。特に食生活習慣には気を配り、常に前向き思考「ポジティブ」そのものと同窓会でも訴えています。

人の性格は殆ど、幼き頃と変わりません。同窓会のそれぞれの方々をウオッチし、小学生の頃、あいつはどうだっただろうと記憶をたどり、現在と比較しても「そのまんま」でした。

明るかった奴、暗い卑屈な奴、努力家でよく勉強した奴と、それが今の姿にそのまま映し出されていました。

努力家はJR東日本の福社長、又一流銀行の大幹部に、一部上場企業の労働組合執行部幹部、そして大手病院の薬部幹部とか、一概に「名誉が全て」ではありませんが、社会の中枢として活躍している数少ない生徒数の中からの卓越した人材を送り出しているわが同窓生。これは誇りとし自慢の限りです。

三つ子の魂、百までも!と昔からの格言は正しい表現だなぁ〜とつくづく思うのです。



5年毎の開催を忘れる事のないようにアプローチ

代表幹事は必ず59名に年賀ハガキを、そして時々のA4サイズ機関紙発行です。5年毎に「同窓会開催」を常に訴えているが、色々な事情により出席者が少なくなるのは必然性。

11名でも満足!です。毎回一泊での開催は「酒は百害あって一利なし」であるが、この日はそんな事は何処かに置いて来て、酔いつぶれるぞ〜と・・・・

楽しみです。
原のこ会へ


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送