人生120歳!120歳!
健康哲学
長生き健康三無い主義とは
食べ過ぎない!欲かき過ぎない!ものぐさしない
現役で世界を股に駆け飛び回っているすごい方が!それが昇地三郎さんです。2009年10月現在、103歳です。日野原重明先生よりも7歳年上で、健康な身体を維持続けている方、これは大変な努力で、並大抵の事では出来ないが、しかし、努力で120歳まで活きる事が可能!と元気付けさせる「希望の星」です。目指そう、元気で120歳!です。
昇地三郎先生のメディア記事&近況
103歳 2009年11月16日東京新聞
104歳 2011年1月の近景
113歳、男性長寿日本一の木村次郎右衛門さん
2010年4月20日朝刊
巾着田の美しさ
2010年6月5日以前の健康日記-P1へ
長い付き合いの友で、幼き頃の環境は同列な生活感であり戦後戦中を挟んでの出生。時代の貧乏人の子沢山という環境下で育ったのです。友は長男ではあるがそれに続く兄弟姉妹がズラリと続き、どうしても食い扶持を稼げねばならず、それは中学校だけの学歴であった。しかし、それに続いた弟、妹は長男が苦労し、その次男から下は大学まで行かせている家族が意外に多いのが、彼の家族もこのような時代の傾向家族であった。その裏には長男、または長女が犠牲になり、家庭を支えたと言っても過言ではない。年齢は異なるが同世代である。
その世代が今は60歳代の半ばまたは70歳代に入ろうとして、地位も金も名誉も構築し、昔、泥まみれで働き、悪夢のような生活感はすっかり健忘し、後で支え棒で支えないと倒れてしまうのではないかと危惧するほど、踏ん反り返っている。私には滑稽に見えるが・・・
 苦労して、苦労して、今は金も出来、そして妹、弟を有名大学に出し、それ相当の一流企業に就職、その妹、弟からの恩義一杯の生活である。行く度に自分が果たせぬ夢をその弟、妹に託しまるで分身の如く、行く度に今の弟、妹を褒め称えるのである。私にとって耳にタコである。
その度に私のオヤジが口癖のように言って居た事を思い出す「身の内を褒めるほども馬鹿は無し」と、それは身内が身内を褒める事ほど、愚かな事は無い、褒められる人物は身内が褒めなくても、世間様が自然に褒めてくれると言う事である。身内が褒めれば褒めるほど馬鹿の裏返しと、そしてそれは己を褒めるに等しい!とこれほどアホな話はないと言う事を常に思い出されるのである。なるほどと思いつつ、苦労して屈折な人生、ろくな学業を積めずある面で「劣等感」をその妹、弟に晴らしていると、何度も聞かされる度に「お気の毒さま」と哀れみを覚えるである。
 そんな劣等感の塊が、苦労し事業も成功し今日の地位を築いたが、しかしその劣等感を解消できるのは、次は何としても手に入れたいのは「名誉」である。その名誉も町会議員と言う「先生様」の肩書き、その肩書き、数年前にこれも手に入れて、もう飛ぶ取り落とす勢いである。
そんな議員様の家に訪れていた時、その支援者が数名やって来た。私の横にその支援者は位置しその時の私の紹介、これには参りました。私を見下した紹介、長い付き合いの「友」に対して余りにも無礼極まりない紹介に唖然と、それは何でもお互いに打ち明けた竹馬の友、全てをお互いが知り尽くしている間柄で
その紹介の仕方がここにも劣等感の表れ、一番、社会の底辺に居た当時の事柄を引き出しての紹介、これには「ムッ」としたが、所詮、哀れみを常々、感じながらのお付き合いであった為に、ムッとはしたがこんな程度の人格者だったと思ってその場はさりげなくの受け答えたで交わした。更に驚いたことがもう一つ。私の前では今まで1度も「素顔」を見せなかった素性、その支援者の前では饒舌で詐欺師ぜんとした滑らかな口調、いつからこんな口の巧さを身に付けたのだろうか?私の前と支援者の前での口調、別人28号!であった。それはマインドコントロールの如く、怪しい教団の教祖さま、その教祖さまの催眠術、支援者はその教祖さまのおことばに酔いしれ、ただうっとりと!ビックリ仰天とはこれ如何に、であった。そういえば過去の中では何度も兆候は見えていた。
私との会話の中で、都合の良いことは真剣に耳を傾け、興味の無い事には視線が離れて上の空、元来、頭の良い奴で話す内容も全てが読み物と人から聞いての耳から得た情報だけ、これはすごく見識が狭い。常に狭議論であるが為に時々「矛盾」でチグハクであるが、熱狂的な信者はありがたきお言葉で、いかにも己が体験、経験で得た我の如く、話術巧みさで信じ込ませてしまうのである。怪しい教団の教祖さま如く、町会議員の先生さま、あなたは何時からそんな巧みさを手に入れたのだろうと・・・教祖さま?になる前は何でも真摯に受け止め、私の自慢の友人の一人であり尊敬できる一人でもあったが、現在は人を見下したり、身の内の馬鹿げた褒め現象、絶対に他人様を褒めるのが嫌い現象、劣等感の塊がモロに別の次元で噴出人物に変貌してしまった教祖さまとは、当分、近寄らないで傍観しようと決めたのでした。
コレは怪しい教団を造り、その教祖さなに治まった感覚を受ける議員先生の「劣等感の塊もろ噴出」の友の話であった。

以前に一流企業の社長さんになった「友」の話を綴った事がありましたが

これは同じ友でも、人格までも変わってしまった、両極の「友」の話。
人生66年もやるとユニークな事例にも遭遇し、これが人生とそして人間の面白い所とつくづくと感じるところです。
毎日の日課、日の出前の競歩的ウォーキング中、あれ、今日は気温も汗の出方も尋常で無いと思いつつ、約1時間のその日課は消化され、家の中でのこれも何時ものストレッチ体操である。
やはり異常に汗が出て止まらない、何と朝からこうも今日は暑いのだろうと、そうは思いつつそれほど特段に気を留めるほどでもなかった。
その後、いつもの人参とリンゴジュース、豆乳と少しのビスケットで朝食を済ませ掃除やなんやかんや、家事ごとを完了である。
これから約8坪の庭に昨年より始めた「家庭菜園」のトマトの雨よけシート設置である。昨日、近くのホームセンターで購入し、トマトに実が付き始め、昨年は雨よけを設置しなかったことが原因で、殆どがトマトに割れが生じ失敗した経験で、今年はしっかりと雨よけ!である。
炎天下、日よけの麦藁帽子をかぶりながらの作業、その雨よけシートもほんの僅かの時間で終わるのであるが異常に暑い。これは熱中症の危険、と思いつつ暑いが我慢してその作業も終了。そんな時、突然、突風が・・・

その突風がエアコンの夏の吹き出しの前にいるように「熱い」と言う表現が正確なのかも知れない、熱いのである。
また火事の際、対流で生じる「熱風」のように熱く、湿度も異常に高い、気分が悪くなるくらいな感覚を受け、すぐ家の中に避難である。
今日はやはり何時もと異なる「暑さ」である。しかし、そうは思いつつまだやる事があると思い、来週の土、日に遊びと温泉の石和温泉で行われる「笛吹市クラシックカーフェスティバル参加」の準備の為、シムカの手入れを行おうと、日陰の車庫の中、それはもう蒸し風呂状態、すぐシャッターを開けて外気を入れようとしたが、その外気、熱い空気が入り込み、何だ、これは外気も蒸し風呂、ガレージの中と大差無し、と、日陰であっても今日の作業は危険!と何もしない事に決めた瞬間でした。

熱中症では過去に苦い経験があり、炎天下、バイクで朝早くから、食事もせず、夢中になりその内に意識がなくなり救急車で病院に運ばれた事があり、それ以来、熱中症は要注意である。
当時は熱中症と言う言葉でなく「日射病」と言うことであったが、随分、遠い昔のことである。
そんな過去を思い出して今日の暑さは回避、余りにも暑いので家の中での仕事に変えたのである。

昼食をとり午後1時に出勤のかみさんを送り出して間もなく、ラジオのスイッチオンするとNHKで39.2度のわが町の気温の報道、20年ぶりの6月の最高気温を報じる第一報を耳にするのだある。
わが町、39.2度、それは午後1時のニュースであった。これで今朝からの異常な暑さは納得!である。しかし、その日本一の最高気温も1時間もすると隣町、熊谷が39.8度、秩父市が39.6度、鳩山市が39.4度と次々に周辺の市町村が39度超え、そのるつぼの中心の存在するわが町、もう勘弁して〜とこの暑さ、叫んだのである。

しかし、今朝は昨日の6月殺人的気温と大様変わり、何と22度、昨日はタンクトップ、短パンであったが「長袖」に「ジーンズ」である。
窓から入るヒンヤリした空気、それは気持ちがいい!

過去に病院に運ばれたその熱中症ですが、

気がついたら病院!
無意識のうちに病院へと、熱中症で倒れ、どなたかが気が付いて命拾い、と言うのが怖いです。

誰も気が付かなかったら「ハィ、それまで〜よ」です
ジジイの僻みは・・・何でも有益にしてしまおう2011年06月22日
学校時代はともかく、人間60歳を過ぎ、これまで自分が積み上げてきたもの、あるいはこなかった事の成果が、あるいはツケが表面化してくる時期です。まじめにコツコツのアリさんと、楽しく派手ななキリギリスさんでは、だいぶ開きがでてくる頃。
人間、僻みもうらやみも出てきがちなこの人生、そしてその年代・・・・
知り合いからこの様な沙汰を頂き、「おっしゃる通り」と私も同感と思うこの頃です。
60歳過ぎの人生その先が見渡せ、更にやる気が出て何事も積極的に行動を取ろうとする方、もう人生諦めの境地で何もせず、何もしない事が省エネでエコと妙な屁理屈を吐く方、労働力として一番パワーのある時に企業戦士として多くのエネルギーを使い果たし、会社を退いた後、もぬけの殻となり果ては病に伏して居る方、と様々ですが、しかし、60歳過ぎとなると多くは素直になれないのが哀れな心、どんなに自分にとって有益な事であっても、何だかんだと言い、難癖をつけてはポジティブな思想に結ぶ付けようとは、素直に受け入れてそのケースを自分のモノとして取り入れようしないのがこの年代である。
全ての方がその通りとは決して言えないが傾向としては概ね、正しいと思うのである。、
私も還暦6年生、似たようなものではあるが、しかし、大きく違う所は61歳で熟年離婚し、63歳で再婚したがそんなゆうちょな事は言ってられないのである。全てを投げ打って新しい生活に突入し、今までの生活観としての思想、概念を捨て、一つ一つの行動が「別次元」として捉えている思考に変換し「別人間」として生まれ変わったのである。
それは具体的には「専業主夫」として歩む決意をし、その専業主夫業を如何に120歳まで生きるための方策に活用するかに、生活習慣の大変換である。
これを聞いた多くの知り合い、友人、仲間は「とうとうヒモになったか」とか「髪結いの亭主」とか、どこか愉快そうに揶揄するのであるがそれは的外れで、私の目標を達成するが為の手段に過ぎないのである。
確かにかみさんとは年齢差があり、近くのスィーツの会社で小遣い稼ぎに午後1時からご出勤!生活の足しには、何の役にも立たず、である。
私が儲けは少ないが細々とした事業で、欲かかず必要以上に手に入れようとしない収入で生活している現実だが、しかし、時間があり、そんなに夢中で働こうとは思わないが為に、専業主夫も兼ねて楽しんでいる。
専業主夫、これは私の未知の世界でいちど経験すると嵌り癖になる。
規則正しい生活、決められた時間に洗濯機を回す、御光が顔を覗かせる前後の洗濯物干し、それが終わると家の中でのハタキ掛け、掃除機での清掃、そして軽い雑巾がけ、と次から次へと大忙しです。
掃除も家が美しく保てる、この効用、毎日毎日がその効用の達成感で嬉しい限り、我が家にはチリ一つ無し。
買い物も新聞折込の広告は大変な情報源、そのチラシを見ては価格情報の点検である。いくら安い!からと言っても車でガソリン代を消費し、家から離れたスーパーは論外で、家の周辺のスーパーに限定してのチエックです。
モノを粗末にせず大切に!が口癖のように言われて育った「もったいない世代」。新しい生活に変換する前はそんなチラシ見向きもしなかったが、この変貌振り。そのもったいない精神の先祖帰りとはこの事。
しかし、家の整理整頓の際はその「もったいない精神」大いに邪魔になり、基本的に3年も使用しないモノは破棄、が原則で、特に身につける衣類などはドンドンと捨て常に整理整頓があって爽快感が味わえる家となると思っている。
思いっきりの良さは生まれつきで、不要と思ったらすぐ破棄である。
かみさんと大きく異なるのは、私は直ぐ破棄、ところがかみさんは何でも収集、これでいつも大喧嘩。
あれ何処に?と私、捨てたよ!と喧嘩のスタートと、最近はかみさんの部屋には一切、触れず、捨てて困るのは自分の部屋に入れて置くようにと「警告」を発し、それ以来、捨てたウンヌンで喧嘩の機会が減少したのだが、いつも不思議に思うのは、私はもったいない世代で、何でも捨てず確保しそうだが、整理整頓となると思考は別回路が働き、かみさん≪消費は美徳世代≫で、これも整理整頓時は別回路で、いつも「何で?」と笑っちゃうのである。
料理もしかり、料理は知性!とそして料理している最中は頭の中が色々と張り巡らし、頭の体操に脳の活性化にこれも有効と楽しい限りである。
60歳過ぎると妬み、恨みにと人の行動が、有益な言葉等を素直に受け入れず、時には屈折した思考になりがちだが、楽しく良いことはドンドン取り入れて、120歳まで「健康元気で活きそして生きる」には、少年の心にタイムアウトである。
同じ人生、暗〜く生きるより、時に過去の概念を遮断し、思想の≪無≫から、新しい思想スタートもそして行動も、楽しく活きる人生に有益と、人生を楽しもう。
放射線を浴びた場合と日常生活によるガンのリスク!

画像表を見てただただ思うことは、放射線量を心配するより、己の喫煙、デブ、運動不足、その外、該当する事をまず解消せよ!と・・・・

3月11日の東日本震災まもなく日記に「銜えたタバコで幼き子供の手を引き、ミネラルオウォーターを買いあさるヤンママ」を綴った事があったが、

まさにその通りのデータを国立ガン研究センターが出していた。

広島、長崎の被爆者は40年間の追跡調査での数値であり、100ミリシーベルト浴びたグループの人でも浴びなかったグループの人との発ガンリスクは1.05倍。
そして喫煙男性のグループは喫煙しない人のグループと比べて1.16倍、はるかにそのリスクは高まる。

嗜好、生活習慣についてのデータは40〜69歳の日本人グループを10〜15年間の追跡調査して出したもので、アルコール飲料での生活習慣からのデータも顕著である。

1週間にビール大瓶を13〜20本近くを飲む人と時々飲む人のグループととの比較は1.4倍の発ガンリスクである。

昨日のTBS報道特集で、東京や福島原発と関係の無い県在住の方が、遠くはるばると沖ノ島や沖縄に避難の
為に、ご主人と離れて生活したり家族揃って「移住」した方を取り上げていたが、放射能は確かに危険!ではあるが、冷静に情報を把握した上での「避難」または「移住」なのだろうか?と疑問符であった。

移住したと言うそのご主人はメタボ体型で、下のデータと対比したら肥満は標準体型のグループと比べ、1.22倍、しかし100ミリシーベルトを浴びた方であっても浴びなかった方との比較は1.05倍、そんな放射線量を心配するよりお前のメタボを解消するのが先だろう!とついテレビの前で叫んでしまった。

移住した過疎の町、勤め先など40歳の半ばではこの時世、見つかるはずが無い。
私は別の心配をした。職も無く一家4人が暮らす果てなく、末は行政に頼る生活保護かよ、と心配をしてしまった。

己の無知から誤解を生み、余分な不安で解釈拡大、風評と言う遭われも無い結果を生んでしまう事に危惧する。

しかし、長年のデータ蓄積、そしてそのデータが、いか生活習慣による、不健全生活の結果で生じるガンのリスクが高いか、今、浴びている放射線量は必要以上に神経を尖らすほどでもないと、冷静に判断できるのである。

その放射線量を考える前にメタボであったら、風呂の前で全身を鏡に写し、醜いトド状態の体を修正することが先である。

また喫煙もしかり、伏流煙でも周辺の方々にガンのリスクを与える事の方に神経を使いなさい!と言いたい。

放射線量をウンヌン言う前にあなたの「生活習慣修正」が先ではありませんか?と・・・

多くの方が理解できず誤った考えで不安になり、誤った情報が一人歩きしたりする場合、このデータは有効と思う。
その心の不安の際は、このデータは対比でき、放射線量の点でも

「40年間の追跡調査」と言う長崎、広島で被爆した方々から頂いた、

現実の生の数値は重い!と思うのである。
我が友、超一流企業の「総師に」。

数日前の印刷媒体、複数のメデァの経済紙面に、写真と簡単な経歴を載せた記事で飾った我が友、社長と言うトップに登り積め、今までの努力の賜物と本人もその報いに安堵していることと推察します。

私自身、特別に親しくお付き合いしている現実はないが、しかし、遠くで見つめながら「おめでとう」と心から祝福したい。

ネット検索で彼の名前を入力すると、そのヒットする数、計り知れず、その道においては凡人、はるかに及ばずのごとく、その数だけでも偉大な業績を積み上げ、功績の山となり、です。

数年に1度の間隔で直接逢い、お互いに酒を飲み交わす「接点」はあるが、いつも物静かで、言葉ひとつひとつに重厚さと説得力、そして哲学者的風貌が生まれながらにした資質、それも企業経営の頂点に君臨する条件の一つと、つい思ってしまうのです。

将来の夢を幼き頃より抱き、その夢を果たし現実のものとした今の彼の心境、計り知れない達成感に美酒で自分の心に言い聞かせてる事でしょう。
何一つ無いコネクション、そして親類縁者がバックアップするどこかの様な同族企業体でもなく、タダ一人で、幼き時に目標を掲げ、向い歩んだ努力の末のご褒美と思えるのです。

私のような派手な振る舞いで「線香花火、一瞬の如く」とは大違い、地味で目立たず、でしゃばらず!を信条とし、それでいて時には大胆な行動、この積み重ねが人徳と言う財産も築いて今の地位に上りつめたと想像するのです。

しかし、その片鱗は10歳にして覗かせていた!
私に幼きながら
僕は必ずOO企業に入り、そこで働く!と社長になるとは言わなかったが、その企業で一生懸命に働いて偉くなるんだ!とそう言った事が私の脳には深く刻み込まれていました。

なぜその印象が強く残るかは、私は当時、彼と「ワル餓鬼大将」を競い、そんなワル餓鬼であっても時々、その将来の夢を語っていた事が私にとって衝撃で、将来の事は何も分からず、そんな事、私には考えも、思いも及ばずでしたので、私にはその印象だけが強く残っているのです。

僅か10歳そこそこの幼き頃、今ほど情報が豊かでない1955年頃の出来事で、やはり彼は凡人ではなかった!と今、あらためて彼を語れるエピソードの一つでもあるのです。

その夢をしっかりと掴んだ彼に敬服と心から喜びのメッセージであり、更なる躍進に「シニア世代の星」として、持って生れた資質、能力に社会の奉仕人足る事を期待しエールを贈りたい。

友よ、本当におめでとう!と。
健全健康はあなたに備わる遺伝子が・・2011年06月14日
2000年に寿命を延ばせる遺伝子発見!

その遺伝子の働きを活発にさせるには、それはカロリー制限!全てがこれに限り、これが回答なのです。

常々、「食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、モノグサしない」は健全健康長生きの三ナイ主義と提唱し実践している事が、先日のNHK特集で、科学的根拠が示され裏づけられたに等しいと思っている。
その正体は、サーチュイン遺伝子、この遺伝子の働きが、糖尿病も動脈硬化も防ぎ健全健康で長生きの根源を作り出す。

アメリカで低カロリー食生活を続ける70歳男性の血管は「30歳代の血管の壁の厚さ、そして綺麗」であるとこれも検査結果である。

アメリカボストン、マサチューセッツ工科大学、レオナルド・ガレンテ博士が2000年にサーチュイン遺伝子発見。
酵母!
酵母に与える栄養を減らすといくつかの遺伝子の働きが活発化し、その中にサーチェン遺伝子が存在した。栄養分を少なくし操作する事によりその遺伝子は、30%の寿命が延びることが判明したのです。

番組ではアメリカ・ウイスコンシン大学で研究の為に猿を数十頭飼い、その猿に20年間、同じ成分の餌を30%少ない量と普通の量を食べさせ、その「猿」の大きく違った姿をを比較し、老化の違いを対比させながらの番組の始まりでした。

またこの中には脳の衰えの比較をMRIの検査結果で対比し、普通に餌を食べさせた猿の脳は細胞が死滅した「白色」部分の範囲は大きく、30%減らして20年間、餌を与えた猿は、明らかに細胞の死滅が少ない。
これは人でもアルツハイマーや痴呆症、脳細胞が死滅し発症する病も防御できる事を意味していた。

猿ばかりでなく地球上、多くの生物に当てはまり、当然、人間でも持ち合わせている遺伝子、別の言い方で
「寿命を延ばせる遺伝子」であり、誰にでも備わっているのです。
この遺伝子の働きを活発にしない限り、誰でも秘めてはいるが、その働きがスイッチONして始めて役割を果たすのです。機能しなければ、宝の持ち腐れであるが、その遺伝子を働かせば「寿命を延ばせる」「健全健康な体つくり」と言う成果が現われるのです。

それを働かせる、スイッチONは、酵母での研究成果のように、
食べる量を少なくし、カロリー制限に尽きる!と言うことです。

日本人で100歳の100メートル走、マスターズ世界選手権で世界記録を持っている宮崎秀吉さん、この方も若い頃より食べる量が少なく、低カロリーが毎日の食事、その100メートル走を始めたのは90歳からです。

この様な素晴らしき方が存在し、毎日の食事の良き習慣を身につければ、誰でも秘めた遺伝子が活発に働き、健全健康な、そして寿命もより長く!と言う結果が誰にでも得られると言うことを検証し、勇気を与えられた番組でした。

食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、モノグサしない!は健康で長生きの秘訣!
この三ナイ主義を実践し、唱えた事が「サーチュイン遺伝子」と言う細胞の働きで証明された。

今からでも決して遅くない!
100歳の宮崎秀吉さん、90歳から始めた100メートル走。
今、106歳の昇地三郎さん、現役元気で世界を飛び回る。健康により気を使い出したのは70歳からとか。

低カロリー、腹八分目の食生活習慣、すばらしい生き様の見本が存在し、健康健全、そして長生き!の見本、今まで以上に見習ってサーチュイン遺伝子の働きをより活発化させるは・・・・

答えは一つなり!です。

今まで情緒論として、長生きは少し太った人、と論じる方も存在するが、その根拠はあいまいなもので、生き物を構成する細胞と言う組織で立証され、多くの検査検証が結果を出している事に、免疫力のある食生活、食べ過ぎない、低カロリーと言う食生活改善を、また食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、モノグサしない!と唱えた者には感動と更なる勇気が得られた事を嬉しく思うのです。
早いものであれから1年経過する。北海道6000`をのんびりと16日間走り、かみさんと一緒に楽しんで来たのを・・・・

最初はピンク君で行こうと思ったが、いざと言うとき車中泊を、と考え、ピンク君では疲れると思い、トヨタハイラックスサーフに変更しての実施であった。何しろ行き当たりバッタリの宿の予約などは一切せず、何とかなるさの計画であった。勿論、ハイラックスは後部座席は取り払い、床も平に変更し「寝袋が2人分、余裕で取れる」スペースを確保して、イザと言う時に備えての対応策であった。

6月19日青森港のフェリーからのスタートではあるが、北海道は涼しい!とそのイメージで望んだがそのイメージは大きく覆された。北海道を巡って数日目、旭山動物園を見学している日、その日は旭川市「日本で一番、気温が高い」と言うことをニュースで報じられた日であった。

夏の炎天下の動物園見学は決して過ごし易いとは誰も思わないであろうが、ましてやその日は6月なのに真夏日で「日本国内で最高気温の日」とは、これには涼しいはずの北海道、想定外の暑さにビックリ!グッタリ!の記憶が鮮明である。

またガソリン仕様3400ccのハイラックスは決して燃費が良いとは言えず、北海道でも安売りで有名な「2社のチェーン店スタンド」のプリペードカードを買い求め、そのチエーン店で、北海道をくまなく店舗があり、給油は便利な為に殆どをその2社を活用していた。
しかし、ここで給油したガソリンと私のハイラックスの「相性」が悪かったようで、もう後2日で本土に渡る、と言う2日前、室蘭から函館に向う道央自動車道を走行中、突然、車が加速しなくなりコレには驚いた。何とか騙し騙し函館近くまで来て、ガソリンが原因と思い、急遽、その2社以外のスタンドで給油したら、その吹けなくなった現象が止んだのである。

他の方は知りませんが、私の車とそのスタンドのガソリン銘柄との相性が悪かったんだと、これも帰る2日前の出来事でしたので、事なきを得ましたが、しかし、そのスタンドのお陰で帰る2日前まではリーズナブルな料金で、給油出来北海道を楽しめた事にそのGSには感謝しています。

また面白いすし屋の話であるが、函館の夜景を見にタクシーをチャーターしその夜景を見学した際に、地元の人に美味しさで評判の「すし屋さん」を運転手に紹介してもらい翌日、そのすし屋に出かけました。
そのすし屋は「函太郎」と言うお店ですが、多くの方が順番待ちで私達夫婦も並んで待ちました。やっと座れたカンターでその店の湯飲み茶碗を見ると「ガッテン寿司」のイラストが目に入り、アレ、ガッテン寿司?と店員に尋ねると、そうですの答え、コレにはかみさんと目を丸くしてビックリ仰天、それはわが町、地元に本店が存在し「ガッテン寿司」のチエーン店だったとは「笑っちゃう話」であった。

北海道は1995年に14日間、バイクの旅以来で、昨年の思い出写真を1200カット、楽しい思い出もあれから1年、時の過ぎるのは早いなぁ〜とつくづくと考えるのです。
歳を取りたくない!と何時までも若くありたい!と人間誰でも歳を重ねるごとにその思いは強くなるのが、ごく当り前の思考、そして生きているからこそ願う「若くありたい」は永遠の望みと思うこの頃です。

しかし、歳を重ねたからこそ得られる喜び、楽しさはそれは山のごとくで、体験、経験から得られる恩恵は計り知れず!経験、体験は私の師匠!とこれも口癖です。
別な視点で歳を重ねる事は「喜びであり新しい発想の源」に結びつくと言う考えなのです。

歳を重ねて得られる知恵は計り知れません。暦年齢は誰にでも人間である以上、公平に積み重ねて行きます。これ必然性、しかし、考え次第で何時までも若々しい発想、そして行動性は大きく個人差が出てしまいます。

これは一体何なんでしょうか?
勿論、見た目の年齢も大きな差があるのも現実です。
暦年齢、そして見た目の年齢、同じ66歳、80歳、90歳でもそれは人それぞれ、歳相応であったり、非常に若く見えてり、逆に実年齢よりもズッと年上に見えたりと大きく違ったりします。

しかし、それは本人がそれで言いやと思えば、他人様が何を言おうと大きなお世話でり、私の勝手です。ただ人の深層心理は「本当は若くありたい」と秘めた心は疑いの余地もありません。それは万人の願いでありゴクゴク当然なのです。

歳を重ねて嬉しい事、楽しい事は如何に健全健康の己の自分に、感謝の気持ちとその喜びが素直になれるかが、これからの先の人生を前向きに歩めるかのキーワードと、私なりの考えと思っています。
全てが考え方次第で、元気に生きる知恵の創造と、これは若かりし頃には考えられない思想であり、それに伴った行動と、それは私流、創作劇場とそしてそのデレクターと思えるのです。

元気で健全生活、これのアイデアを捻出するのも楽しい事で、それを行動に変え一つ一つずつクリアするのも喜びに結びつくと思えるのです。
私は人生120歳!と活きる目標を掲げてそれを少しでも現実味を持たせるにはどう生きるか、喜びをそして感動を得られながら過ごすかが「人生の創作劇場」と捉えているからです。

歳を積み重ねるは楽しく、更なる歳の積み重ねに、健全健康、思考も行動も全てがそのアイデア発想の楽しみ、喜びに結び付いてしまうことが、何とも嬉しいしのです。
この楽しみを創造することが、これからの人生は創作劇場と言う所以で、何も考えずただボーと時を過ごしていては「もったいない」し脳の細胞は死滅し、一気に老け込んでしまうからです。

脳の活性化にも、その人生の創作劇場は大きく貢献と・・・・
66歳に思う2011年06月08日
それは1999年6月9日、慢性硬膜下血腫で突然、口が異常を来たし、そして右手が他人の手の感覚と言う実に奇妙な現象で急遽、循環器センターに車で自分で運転し、検査をし、その結果、そのまま即手術と言う慌ただしさを体験してから11年。

還暦6年生となりました。その後は健康に今まで以上に気を使い、適度な軽めの運動、ストレッチ、そして免疫力を得られる食生活習慣、これに徹した生活習慣を続けています。

健康のバロメーターである体重や体内脂肪、骨量、筋肉量他、健全健康を推察できる数値のチエックを怠りません。しかし、人は煩悩の塊、どうしても食の誘惑に勝てず、暴飲暴食は時々、やってしまいます。
ただ、私の優れた所はそんな自制が効かず、本能のまま食欲の誘惑に引き込まれても、翌日「絶食」で、弱った内臓の休息を行い、絶対、連日と言う本能にまかせる事を行わないのが、優れた部分と思っています。

免疫力の食生活は過去に記しましたが
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2326867&oid=14051..

日常的にはこの通りの習慣を続けている。その結果は押して知るべしで、人間ドッグ、脳ドッグ、そして個々のパーツ毎の検査でも不都合箇所は一切、見当たりません。

ただ、トラウマの如く、6月9日周辺になると必ず「偏頭痛」に襲われ、そのたびにMRIのお世話になりますが、これも年中行事の一つとして、楽しんでいます。その結果、一切の異常はありませんが、1999年6月時、硬膜下血腫の頭痛を脳のどこかで痛みだけを覚えており、その痛みが頭を出してくるのです。それはその時の後遺症かなと、解釈しています。

日本の総人口に対して2200万人の糖尿病そしてその関連と見られる予備軍が存在し、その領域にカウントされない事は、大変重要で、それは免疫力が得られる食生活習慣しかないと信じている者にとり、またその実践の結果、健全健康のその一人と自負しています。

異常な程のメタボ体型でその方がいくら健康を説いても、それは説得力に欠け、健康を説く前に「お前のメタボを何とかしろ」と問いたくなるのは私ばかりでしょうか?人の健康のおせっかいさんや、医者にもこんな方が存在します。

私は常々、理想の体型、高校三年生当時を振り返って見ようと、発言しています。その当時を思い出し、今の自分の体を鏡に写し、高校三年当時と比較して見よ!

明らかに違いが分り「何とかせねば」と思うこと必至。

人生66年を歩み、この倍の人生、健全で健康を維持し続けて生きようと誓った者は、当然と・・・
先を行く106歳の健全健康の「昇地三郎さん」と言う見本が存在、それを見習った生き様に少しでも近づけたい。

66歳にして再認識ですが、それは、食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、モノグサしない、の三ナイ主義、これが全てと思っています。



写真は一昨日の「男の見栄」の際のキャンドルサービス。ハッピバスディはフランス語でした。
アルバート邸「レストラン・オースティン」http://www.swanweb.co.jp/restaurant/austen/
前橋市敷島公園のバラ園で、今が一番美しいバラの花を観賞したり、バラの花を購入して2時間ほど時間を過ごした後に、車は利根川沿いの道路を北の方面、渋川市に向い走らせた。

バラ園から走らせること数分、右手に洋館建てのご立派な佇まいをした、バラ園同様、バラの花に囲まれたシャレたレンガ造りの建物に目が止まった。
多分、結婚式場だろうと思いそれほど気にも止めることなく車は先を走らせた。

しかし、その時に「レストラン」のサインポールが目に入り、アッ、食事が出来る!と一瞬、声を発し車をUターンするのです。
Uターンした「ピンク君」はその建物の正面に止め、食事には予約が必要と・・・・
建物の中に恐る恐ると入るのです。そこには一流ホテル並みの黒服に身を固めたイケメンな、私と同様な背丈または178cm以上もあろうかと思われる男性が、ニコニコといらっしゃいませ!の一言。

思わず、今日はハッピィバースディ、予約をしたいと、自然に声が・・・・
本当はイタリアンでパスタの予定であったが、男の見栄が、そしてかみさんに「いいカッコぶりが」と、メニューは勿論、フレンチでそれなりのプライス・・・・

午後6時での予約、まだそれまで時間があるので、ちょっとした伊香保方面にドライブと時を稼いで楽しんだ後にそのレストラン「アルバート邸」へと。

イタリアンからフレンチに予定を変更しての誕生会、しかし、雰囲気と言い、フレンチの味と言い、プライスと言い、それは超一流で時にはこれも良しと「満足?」でした。
次は特別仕立ての「ガラス部屋で予約を」とかみさんのご希望でしたが、さてそれは何時になるやら。


アルバート邸「レストラン・オースティン」
http://www.swanweb.co.jp/restaurant/austen/
小惑星探査機「はやぶさ」の実物が・2011年05月17日
ラッキー!「はやぶさ」の実物が見られる・・・・

「はやぶさ」(MUSES-C)は、小惑星探査を目的に開発された探査機です。「はやぶさ」が探査するのは、地球の軌道と似た軌道を持ち、日本のロケット開発の父である故糸川英夫博士にちなんで「ITOKAWA」(イトカワ)と名付けられた小惑星です。小惑星までイオンエンジンを使った飛行を行い、自律的に小惑星に近づき、その表面から、物質のサンプルを持ち帰ることを目的にしています。
これまで人類がサンプルを持ち帰った天体は月だけですが、月は変成してしまったため、太陽系初期のころの物質について知ることができません。小惑星は惑星が誕生するころの記録を比較的よくとどめている化石のような天体で、この小惑星からサンプルを持ち帰る技術(サンプル・リターン)が確立されれば、「惑星を作るもとになった材料がどんなものか」「惑星が誕生するころの太陽系星雲内の様子はどうか」についての手がかりが得られるのです。また地球上でサンプルの分析が行えるため、回収される量が少量であってもその科学的意義は極めて大きいといえます。

2003(平成15)年5月9日に打ち上げられた「はやぶさ」は、目標の「ITOKAWA」に到着し、科学観測を実施しました。その結果は、日本ではじめて科学誌「サイエンス」に特集され、重力や表面の様子など、小惑星についての数多くの新たな知見が明らかになりました。「はやぶさ」は2010年6月13日に地球へ帰還し、搭載カプセルをオーストラリアへ落下させ、その運用を終えました


この「はやぶさ」が埼玉県小鹿野町文化センターに実物が展示され、それを見にかみさんと昨日、行ってきました。地球や太陽系が誕生した46億年前の状態が残っていると考えられている「小惑星」、その惑星からサンプルを持ち帰ったはやぶさの実物。
機械が大好きな者!にとってなかなかとそんなチャンスはありまへんので、出歯亀さんに負けず劣らずの好奇心により、参上つかまりつり候。

地球から約3億km離れた位置で小惑星イトカワとランデブー、そしてイトカワに着陸。イトカワの大きさ、約500メートル、小さい小さい小惑星。その惑星も動いており、そこに到着させる天文学的計算の基での技術、実物を目の前にして感嘆せざるは得ませんでした。

その帰りに小鹿野町で大正3年創業(1914年)の和菓子屋さん寄り、その前でのショットですが、我がピンク君、1993年生まれもネオクラシックの領域のお仲間入り、老舗の店舗でも雰囲気がよく合う身となりました。

関連情報URL : http://www.ne.jp/asahi/azu/sin/azuma/porushe.htm
10回目の能登半島、先日、行ったばかりなのに・・・・2011年05月14日
バイクで先日の7日8日にかけて訪れたばかりだが、また行くことになってしまった。本当は以前、何度か訪れた場所「松島」へ、少しでも復興にお役に立てばと言う事で松島を予定していたが、何時も行くその施設は海水をかぶり、営業再開が7月過ぎとなりそれでは又の機会にと・・・・

能登半島へ行く事になったのは、かみさんが御仁所太鼓を観たい!と、2008年6月にF328で能登半島一周し、その際、宿泊した輪島の高州園ホテルで見た御仁所太鼓、この印象が強く、私もどこか強く脳裏に刻まれ、もう一度観たい!と言う衝動で「まぁいいか」と言うことになったのです。

しかし、御仁所太鼓が観られるのは輪島の「高州園ホテル」と和倉温泉、昔の名前「サン加賀屋」で加賀屋の姉妹ホテル、今のホテル名「あえの風」のみで、高州園ホテルは2008年に宿泊したので、あえの風に決定と、ただ宿泊代が意外に高いのが難点で一寸、躊躇したが「まぁいいか」とあいなり候でした。

2008年の時は能登半島に3日、金沢に1泊と合計4泊もしたが今回は1泊だけ、前回はイベントが余分で、その余分なイベントには大変な落ちがあるのです。

イベントの主催者側が用意した宿泊施設は「倒産寸前の宿」で、掃除もしておらず、畳は破れ、洗面台は汚くて使いものならず、最悪の宿で、その実態をしっかり写真に収め主催者側に抗議したが、どうもイベント事態、そんな施設の救済策であったようで、もう二度と参加しなければいいか、とその名称を記せば「なるほど」と納得される方も存在するかと思います。

嫌な思い出ばかりではありませんので、これも体験と割り切って「楽しみ」に考え方を変えました。ただ先日、その宿の前をバイクで走りましたが、今は営業はしていないようでした。今、思えば、私達が最後の客だったのかなと、その時、考えながらバイクを先に進ませました。

5月末日に泊まる宿「あえの風」、一泊だけですが車は何で行こうかと、先日のツーリングでは長野道を妙高周辺から上越ジャンクションを経て北陸道糸魚川周辺を走行中、濃紺の覆面を追い抜き、その追い抜きざまに運転席をバイクから覗くと「ブルーの制服」ヤバイ!と思い、先頭を走行の私はすぐ覆面の前に追い越し車線からポジション移動、無線機で「私の後の紺色クラウンは覆面」」で追い抜かないようと指示、法定速度で走行しているとその覆面は間もなく私を追い抜き、去って行きました。

しかし、その覆面、上越ジャンクションを過ぎるとしっかりと仕事をしていました。私達のバイク集団が左側道で赤色灯を回している紺色のクラウン見つけそれはトヨタハイブリット車が停車させられ、スピード違反検挙と、お気の毒と言い様ありませんでした。

帰りは「親知らず」周辺のトンネルの中、サングラスと少し早いスピードであった為に白バイに気づかず、その白バイを追い抜き、追い抜いた白バイが突然、赤色灯をともしだし、私はあわててその白バイの「行きのクラウン覆面」の時と同様、前方に入り、難を逃れました。

今思うに、警告の意味で「白バイを追い抜くほどのスピード出すな」と同じバイク好き同士、優しく教えてくれたのだな、と感謝しています。

私をスピード違反で検挙しようと思えば、いとも容易く御用、にできたのに赤色灯で教えてくれたと思っています。

この周辺は「ヤバイ場所」と要注意箇所と思うと、今度行く時はピンクポルシェは目立つので、注意して走行しませんとすぐ「餌食」になりそう、そうするとハイラックスサーフが無難、どっちにしようか思案中です。


覆面や白バイを追い抜いたツーリングレポのサイトです
http://azusin1.fc2web.com/hdj1/2011/0507/0507.html

写真は2008年、能登半島1周の時のフェラーリ328。もう手放し他の方の所有物に!
シムカと見た目「あばら家」レストラン・・・・

どの角度から見ても、荒れた建物と、知らない人が見た場合、誰もがその様な感情は受けると思うほど見た目が「お気の毒」と言いたいような外観です。
これはテレビ番組でも取り扱った「外観が悪いが中味が濃い」と言う趣旨の放送内容だったと思います。

以前から気になっていたので、何時もの好奇心旺盛さ!が探究心をくすぐり、恐る恐るいつも「ご同行」のかみさんとご入店となりました。
入ってビックリ!女性客で満席状態、なんとまぁ女性はゲテモノ好みかとブツブツと何時もの独り言を呟きながら、通された席に着席あいなり候と・・・・・

最近の民家風レストランの多くが偽物で、使用する木材は焦がしたり、薬品に浸けて「ヤレ」を出し演出していますが、この店は違っていました。全てがホンモノで無垢材、その無垢材も年月を経た独特のツヤで光り耀き、いい感じなのです。

服飾デザイナーの山本 寛斎お気に入りの店とか、店の奥には個室にタレントであるその娘さん絵馬さんの名前がつけられた部屋がありました。
建築は昭和30年とか、当時のオーナーが大変な拘りで、関わった大工さんを何名もクビにして、そのオーナーさんの指示通りに建設されたものだと2代目オーナーさんの奥さんは申していました。

その拘りは随所に見られ、私は食べ物よりこの建物のホンモノさに興味を抱きました。
外観はあばら家ですが、建物の中に一歩足を踏み入れるとそれは驚き!でした。先代が干支が馬と言う事で「馬の関連民芸品」が随所に置かれたり、飾られたりしていますが、現代では入手が困難なものばかりでそれを一つ一つ見て歩くのも面白さがありました。

2008年にかの有名な版画家「棟方志功」の作品が、壁に隠されており、その「大きな壁画」を白日の下に曝け出し、世紀の大発見とマスメディアで大々的に取り上げられ話題になった事でも有名な、群馬県に位置するお店でした。

外観は本当に荒れていますが、ところがドッコイ、その中は「ホンモノ」で、一つの芸術作品を鑑賞してきた気分、本当に得した気分になりました。2代目奥さんも美術館の学芸員よろしく、懇切丁寧に解説を加えて頂き、ありがとうと、今回、建築物に気が回り、食べ物の味はそっちのけとなってしまい、次に行く時はしっかりと食べ物に気を入れて楽しもうっと。

場所は群馬県桐生市「芭蕉」です。検索サイト入力で沢山、ヒットします。
昨日、かみさんと圏央道を利用して東京青梅市の山中にあるパン屋さん「木の葉」にランチを!とお出かけしました。

関越道花園インターから30分で青梅インターに到着し、それから15分、その「木の葉」に到着です。
周辺に警備と交通誘導の警備保障のガードマンが数名、何か物ものしいなぁ〜と感じながら駐車場に到着すると、その駐車場にはテントが張ってあり、そのテントの中に椅子が置かれ、その椅子にはパン屋の店内入るために順番待ちの沢山の人の数。
近所からパンを購入に来ているお客さん曰く、今日はお客の数が少なく、ウィークディでもこの2〜3倍の数で1時間待ちはごく普通とか、何でこんなに人気店?と・・・

私とかみさんが待った時間は15分、すぐ店内入り店内の隅が空いておりそこに通されてランチとなった次第です。
確かに「パンは食べ放題」で5種類のお店オリジナルなベースト、そしてスープ付きで1000円。
そのベーストは「A,Bと2種」あり、私はA、かみさんはBと2人で10種類のベーストが楽しめるのでA,Bを頼んでランチを満喫しました。

飲み物は別メニューでしたがコーヒーも紅茶もお代わり自由で380円。 店内は採光を良く考えての造りで明るく無垢なウッディが気分の良さを演出し、ランチはどうしても1時間以上、楽しんでしまうだろと私達夫婦も1時間一寸、留まっていました。

11頃、店に到着し15分ほど待って店内へとそして12時半ごろ、その店を出ましたが1時間以上は必至かなと、店外に出たとき驚いたのは「野生の狸」が、私達夫婦を見て、一目散に逃げる後姿を目撃にビックリ!でした。
表の駐車場で、時間待ちをしている方々もその狸を目にした様子、逃げ去った場所に視線を向け「狸談義」でした。
勿論、帰りにはしっかりと出来立てのパンを購入し、初めて登る御岳山神社へ向いました。

東京御岳山、初めて訪れる所ですが、ケーブルカーでないと御岳神社へは行くことが出来ません。
ケーブルカーの始発「滝本駅」まで車で行き、それ以降、ケーブルカーです。 6分ほど乗ると終点、それより徒歩30分ほど歩いて目的地「御岳神社」です。

時間は2時30分、小学生の遠足の団体が200名ほど、それ以外は観光客、そして登山スタイルに身を固めた数名の方々。閑散とした数でしたが少し雨が降り出し傘を差しながらのんびりと歩いたわりには、昨日の湿度が高く蒸し暑いと言う天候であったが為に、神社本殿に到着する頃は汗で下着が濡れると言う状況。

本殿の両脇にはデ〜ンと構える、大きく背丈あるどこか異様なこま犬が、これは北村声望作、そして一段下がった場所に同じ彫刻家作品「畠山重忠像」が・・・

北村声望は熊谷駅前の馬上の銅像「熊谷道真」も同じ作品、そして北村声望は戦時中、疎開した地が秩父長瀞の寺と、何故か親しみを覚えながら本殿に参拝し帰路に着いたのでした。

東京青梅の山の中のパン屋まで家から45分ほど、高速道路のお陰で、一寸した情報を得てすぐ行ける良き時代だなぁ〜と、感じざるを得ない便利さ、好奇心旺盛なオヤジの呟きでした。
我童心、ここにあり2011年05月10日
男はいつも幼き心を失わず!

このワンカットはそれを如実に現しています。
5月7日8日と埼玉から能登半島まで平均64歳になろうかと言う同好の友「ハーレーなかよし倶楽部」ネット名・晴旅人尊塾のメンメン10数名、その宿泊施設にある部屋風呂の1コマです。

早朝の5時30分を関越道上里SAを出発し殆どを高速道路利用で、ただ一寸したトラブルや金沢東インターで降りる所を西インターで降りてしまった!と言う私のミスはありましたが、輪島には1時到着となってしまい、少し損した気分ではありました。

予定では11時30分頃には着き、朝市でもと、期待を大きくしていましたが、何分、トラブルとインターを間違いて降りてしまったという時間の浪費があり、1時間30分遅れで輪島となった次第です。

過去には宿泊ツーリングと言うと必ず一日は「雨の洗礼」を受け、2日間が天候に恵まれるという事が殆どといっても過言でないくらいありませんでしたが、しかし、今回は2日間共に最高の天気で、空を切りながらのバイクでの走行、これは快適の極みでした。

能登有料道路での左手に海を望みながらの、風を切って突き進む、この感動はバイクならでの味であり、4輪では決して味わうことが出来ない「2輪の特権」と我ながらニンマリと言う心境で楽しみました。

私個人として能登半島への訪れはこれで9回目、旅は同じ場所でもあっても、感動の喜び、その五感で得る味わいは、その時、その時により味わいが異なり、回数に関係なく新鮮さを教授されるのです。

その能登半島での思い出のワンカット、我ながら余りにもグットタイミングでのシャッターチャンス、笑っちゃいいました。

狭い風呂桶に入るこの4人は童心そのものの表情です。また上から下を眺めるオヤジの嬉しそうな笑顔、写真をより一層、演出しています。

遠望には能登半島を象徴する軍艦島こと見附島、宿泊施設はそのそばの「のとじ荘」で、部屋にある露天風呂でのワンカットです。

眺望の良さは部屋からのオーシャンビューも、そして大露天風呂も、その湯質も肌をツルツルとさせる心地よさでした。

我が同好会「平均64歳」のオヤジが明日の鋭気をっと、得た2日間でした。ありがとうと感謝の2日間でもありました。
ピンク&ピンク!芝桜と俺様

春は楽しい季節!だって俺様が光る季節。芝桜公園と称して俺様の芝桜色を観に多くの観光客がその公園に足を運んでいる。
芝桜を何十万本も植え、その鮮やかさを売りにした仕掛け人は北海道のとある街であったが、そのアトに続いたのが埼玉県秩父の羊の丘芝桜公園。
この公園が芝桜シーズンに100万人近くの人々が訪れた!と言うやそのアトにつづけー!とばかりに二番煎じ、三番煎じが出るわ出るわ、雨後の竹の子の如く!よ。

しかし俺様にとってはこんない嬉しい事はない。俺様の芝桜色を祝ってくれていると勝手に解釈し「感謝」している。ありがとう!ありがとう!と・・・

俺様もご主人様に仕え、早くも10年か!この派手さ、一向に陳腐化しないなぁ〜
むしろ最近はご主人様の頭と同様、磨きがかかりより、光に艶が増してきた。

そういえばこの派手さは特筆もので、何処に行っても目立ちすぐ悪戯の的になる。猫までが目立つせいで俺様の足元に「爪とぎ」をし引っかき傷まで負わせる始末。

先日などは俺様が良く見えているレストランで、ご主人様が食事をしていたら、3〜4人の若者の一人が俺様は監視されて居る筈なのに、しっかりと俺様の後のナンバープレートを折り曲げやがった。 見える場所だったがどこか死角があったに相違ない。

その帰り道、高速道路でスピードも出さず、おとなしく走行しているのに覆面が赤色灯を付け、すぐ私の前方出てその覆面の後部ウインドウに「後に付いて来なさい」と表示。身に覚えも無いのでその表示に従い、とあるSAに入り覆面、俺様と並んで駐車。

こんな時も目立つが為に多くの人々は「俺様を凝視」し、スピード出すからその結末よ、ザマア見ろ!と言わんばかりの表情。

覆面から下りて来たおまわりさん、「後のナンバープレートが曲がっていて番号が確認できない」との指摘。これには恐縮で、誰かに悪戯されたんですね!と優しい言葉をかけられ「ありがとう」と感謝であった。

俺様の目立つ効用、捕まえるときばかりでなく、こんな時もあるとやさしく指摘をしてくれたおまわりさん、コレには俺様、感動もの。
その逆のエピソードも星の数?ほど。実際、御用も沢山、そして覆面と気付いて「御用の未遂」も沢山あり。

一寸と芝桜のテーマから反れてしまったが、写真の舞台は群馬県高崎市箕郷の芝桜駐車場。ここも毎年、ピンク&ピンクとシャレこんで俺様がシーズンになると出没する場所。
なかなか芝桜色の俺様とその芝桜をツーショットで収められる場所は意外に少なく、俺様が知っている限り、ここが唯一の「ヒ・ミ・ツのスポット」である。

今年もご覧のようにしっかりと「俺様の芝桜色&箕郷の芝桜」を楽しく! ツーショット。何分、一番最後の観光客、誰も居なくなってからの撮影とご主人様は申していた。

しかし俺様のご主人の奥様曰く「なに馬鹿やってんの」!と・・・・・・
しいな!もうすぐツーリング。2011年05月03日
コスプレ倶楽部と陰口を叩かれるが、これもご愛嬌。こんなユニフォームで、1年間に宿泊ツーリングを行う事しばしば,そして26年も経過した。
所詮趣味の世界の出来事、人に迷惑を駆けない限り、大いに楽しんで鋭気を養い明日への活力へ生かす。
非日常的なこの制服、私がデザインし全てが本格的な「乗馬ズボン」の型紙から起こし、一人一人のイージーオーダーで縫製されている優れもので、色あせしないと言う条件の元で生地も決めている。
尻の部分も2重の布で縫われており、至って丈夫な作りである。

テレビの人形劇「サンダーバード」と偶然にも似てしまったが、私自身、サンダーバードそのものを知らず、仕上がってメンバーからの指摘で初めて気付いたという笑える話なのである。

ツーリング先で一緒に写真を撮って!と観光客の方に要請される事があるが、これも私にとってまんざらでもないことで、気分良くしている。
何分、派手で遠くからでもこのユニフォームを着用したメンバーをすぐ見つけ出す事が可能で、便利そのものも特性?の一つに上げられる。

ユニフォームが出来た上がった頃、メンバー60名の大所帯であったが、このキャラが嫌!と言う理由で数名が脱会した事もあった。それは当然と見越しての独断専行で進め、この独断専行、ヒットラーと言われようと独裁と言われようと何処吹く風で、その強さが現在でも晴旅人尊塾と言うチームが続いている源でもある。別名「ハーレーなかよし倶楽部」とも・・・・

設立時の1985年頃は皆、ヤングであったが現在は平均63歳、2代目の息子、親子でメンバーとなっているほどアットホームが売りで、これはNHK番組取材時のワンカットである。

5月7日から8日にかけて能登半島「のとじ荘」宿泊でツーリングするが、もしこのクセのあるユニフォームを見かけたらぜひ、一声をおかけ下さい。殆どが行きは能登空港まで高速道路使用で、7日の輪島朝市に間に合うよう関越道上里SA集合で、早朝の出発である。

趣味でレアな4輪が大好き!な者にとり今までパーツの入手は困難極まり無い事でしたが、今はグローバルスタンダード、レアな車でもパーツは世界の国からすぐ入手。
この便利さを知ったのはごく最近でした。それも全てが日本語で・・・

今、世界的にも台数がごく限られた4輪をいじって楽しんでいるのですが、その領域の車のパーツは、まず日本国内では手に入らない。手に入るが専門店などのショップで見積もりした場合、物によって、私が入手している価格よりも10倍のプライスが付く場合があります。
平均で5〜6倍が当り前であり相場なのかも知れません。

最近、スペイン、フランス、イギリス、カナダ、ベルギー、ニュージランド、アメリカ、オーストラリアと8カ国からパーツやマニュアル書などを購入しました。
この入手先は「eBay」と言うオークションのネットシステムからです。
このオークションですが、販売が多いので即決定できその場でネットを通じて支払いを済ませてしまいます。

自宅には早くて4日後、遅くて10日後に航空便で届いてしまいます。私もこれには驚くと同時にレアな物を維持するには嬉しい!と喜んでいます。
生産型の4輪であっても売れた台数が少ないと、それは部品の手配で、この固体は維持が無理と諦めた事が多かったのですが、国の垣根が無いネットと言う便利なシステムの恩恵で、いとも簡単に世界の国々からリアルタイム的に必要とする希少なパーツが入手でき、楽しく嬉しい時代だなぁ〜と心の中でニンマリとしています。

そのレアな4輪とは?
1967年フランス製、デザインはベルトーネ作で見た目はイタリア車です。この手の車は≪電子部品なし≫と言う、全てが自己メンテで維持できるのが最大の喜び、パーツさえ入手できれば安心して何処へでもお出かけ!です。

思えば2ヶ月前、詐欺師的ブローカーより騙されて手に入れた固体、しかし、1972年頃、思い入れがあった固体の為にどうしても欲しく、その欲しさが最優先で騙される羽目に・・・
しかし、騙す方も悪いが、騙される方はもっと「アホ!」これも自業自得と自分に言い聞かせ、この際、完全に仕上げようと決意したのです。

悪い所を全て洗い出し、交換が必要なパーツもチエックし、ヤフオクでどの程度、出品があるか、そして外車の専門店などを調査したのですが、数は極端に少なく、専門店からの見積もりはすぐ100万円単位、これでは細々と暮らす「金欠者」にはとても太刀打ちできません。
eBayは知っていたので、そこに検索項目を入れてみると世界の国々で売りに出しているパーツが沢山、存在する事を知りました。

ポルシェのようなメジャーなレアタイプの固体と比べたら、そのパーツの量、その比は比べ物にならないくらい極端に少ないですが、しかし、必要な物は大半、手に入れられそうと、すぐ入手に取り掛かりました。

当初、お金の支払いは済ませたが果たして大丈夫かなと疑心暗鬼でしたが、それは予想をはるかに越え、安心、我が家に到着でした。

写真は別の国々からかき集めたシムカ1200Sクーペ関連のマニュアル書やパーツリストのCDーROM、メンテには欠かせない私の指南書です。
そして取り寄せた一部品、クラッチのマスターシリンダー新品と今まで、取り付いていた劣化したパーツです。

おしゃれな固体、1967年製、シムカ1200Sクーペ
日本に於いて車検を取り公道を走らせられる固体は1台とか、ボディと足回りがしっかりとして腐り、さびが無いのが救いで、維持しようと決意した大きな理由です。

ところでeBayとはこんなサイトです。

http://www.ebay.com/
今の放射線量?それよりも先にやるべき事が・・2011年04月07日
1945年の終戦後、間もなく世界は「冷戦時代」に突入し、それからスグに核武装の為の水爆、原爆と言う兵器の「核分裂実験競争」が始まりました。
1980年前半にソ連圏の旧共産国家崩壊が起き、それまでソ連、アメリカを始め、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタンなど対戦国家を想定し、毎年、どこかで兵器核実験が行われていました。
特に激しい核実験競争は50年前頃で、当時の新聞縮刷版で調べればすぐ分りますが、日本全体を覆った放射線量の数値は、今の東京の10000倍を示していました。また新聞の多くには成層圏のジエット気流に乗って日本には「死の灰が降る」とメディアの多くが伝え、新聞も記しています。

昨日の東京の放射線量は如何でしょうか?
0.089マイクロシーベルト、福島で2.5マイクロシーベルト

この数値に10000倍掛けて見て下さい。簡単です。

この数値が日本全体を過去に覆っており、それも何十年も・・・
私は66歳、その当時、現在の10000倍の放射線量をしっかりと浴びて生きてきた一人です。しかし、至って健康健全。
そして私と同じ日本の環境下で育ち、今より10000倍の放射線量の影響を受けていたにも関わらず、その放射線量で「病を発症した」と聞いた事が全くありません。メディアで取り上げられた事を聞いた事もありません。

50年前は場所によっては水道も整備されず、山から引いた「沢水」を飲料水として使用していた家庭は沢山ありました。私の家の周辺は全て沢水を生活用水として活用していました。
今とは大きく異なる生活環境、勿論、野菜なども大気中の放射線量が多いのですから必然的に10000倍です。
ところが現在は如何でしょうか?
10000分の一以下で大騒ぎ!しかも10000倍も放射線量を浴びて生きてきた方々、団塊の世代はそれが原因でどれほど病に伏していますか?と問いたい。

それよりも日本人の全人口1億人強、その内の2400万人が糖尿病またはその予備軍であると厚生労働健康白書は数値が示しています。
飽食の時代、その抑制が効かず自ら病に陥る方々の「体の健康」を危惧したほうが、健全健康を考えた場合、よほど現実的と考えます。
また放射線量が水道水に多くを数値を示した!とミネラルウォーターを求めて駈けずり回った方々、仮にその方々が「喫煙」をしていたなら、その水道水の放射線量より、喫煙の伏流煙で回りの方々に与える影響のが、今の放射線量よりはるかに大きいと言いたいのです。

冷戦時代の10000倍の放射線量、しかしこれが原因で病を発症などと言う現象は聞いた事がありません。しかし、喫煙が原因でガンになり死亡、糖尿病が原因で感染症を発症し死亡とこの現実はしっかりと数値が表しています。
今の放射線量を心配するよりも、自制の効かない食生活習慣や喫煙習慣を見直しのがよほど精神衛生上、健全健康に有効と私は思っています。

過去の放射線量10000倍を浴びていた長〜い時代を考えた時、騒ぎすぎ!取り越し苦労!とメデァは正確な数値を伝える事は必要ですが、心配を煽り立てると、それより如何に糖尿病的身体や喫煙習慣を排除するのが先決でしょうと言いたいし、本末転倒かなと考えるのです。

幼児をソバにしくわえタバコをしながらミネラルウォーターを買い求めるヤンママ、ヤンパパを眼にするとつい笑ってしまう。
放射線量で水の影響を心配するよりも幼児の健康、周辺の人達への配慮で「たばこ止めるのが先」そしてズッと健康的ではないでしょうかと思うのです。

最も世の中には不安を煽る学者も多く、学者自信の説も分かれる所で、何処まで客観的に我々が判断できるか定かではありません。
ただ50年前の冷戦時代に日本を包んでいた放射線量、10000倍であった事は確かでその中で生きて来て誰れよりも「健全健康を維持」している66年を考えると、不安を煽る数値には?クエッションで、またそんな数値に惑わされる事なく、それより健康面で他に眼を向けたのが更なる健康の為に精神衛生上、得策と考える所です。
想定外とは、東電幹部や政府側に都合の良い言葉です2011年03月29日
私達が知る由も無い所で何が起き、そして必死で戦いに挑み何とか最小限度に放射能漏れを防御しようと命を掛けている東電下請けの作業員。その作業員を自分に当てはめたらどうであろうと考えた時、涙が出て止まりません。
私も使命感に燃えて挑むと同時に放射能と言う恐怖におびえつも、何とかせねばと必死にその恐れも忘れ作業に熱中すると思います。これは多くの方も同じ思いで挑む事でしょう。
しかし、下請けと言う弱い立場の作業員。その放射線量を6日前に把握しながら注意喚起をしなかった東電側、なんとずさんな安全管理か!
この事故は大津波、地震と不可抗力のように「想定外の出来事」と言われていますが、実際、これは人災と言わざるを得ないような、過去に警告を発して大津波が起きる危険性を指摘された地震学者、地震学研究者が存在しました。
しかし原発推進の当時の自民党政権下、産業界からはそれらの研究者達には圧力。
それは1990年代の事でその研究結果を生かし耐震指針を見直そうとしたが、まだ新設原発が続き産業界から計画が一段落するまで変えるな!と圧力がかかる。新指針に合わないと廃炉や補強、計画変更につながり運転できなくなり多額の費用がかかるからです。その為に見直しをを先延ばしする政治判断が働いたと言われています。

産業技術総合研究所活断層、地震研究センター長・岡村行信さん〜
2009年6月経済産業省で過去に大きな津波があり再び来ること指摘、その過去の津波とは866年に発生した貞観津波を差す

神戸大学名誉教授・石橋克彦さん〜
1997年に今日の事態を予見した論文を発表。地震の被害と放射能物質による汚染が広域に重なり、救援も妨げられる原発震災の警鐘を鳴らして来た。

東京大学名誉教授・島崎邦彦さん〜
1500年頃にも東北から関東を巨大津波襲った痕跡を産総研のチームが見つけ、将来、起こる地震の評価の政府「地震調査委員会」でも検討が始まっていたと話す。
過去の大津波は今回とは同じタイプかどうかは不明であるが、今回のほうが大きかった可能性もある。
大津波は想定外と言われ不可抗力のような言い方をされているが決して「想定外」ではなかった。

元原子力安全委員長代理、大阪大学名誉教授・住田健二さん〜
古い原発の耐震性を見直したり新設の原発を強化したりする為の耐震指針の見直しをしようとした1990年代、産業界から圧力がかかったと。

想定外では無かった大津波、福島の原発の危険性を1990年代から指摘されたが「甘い想定であった」が為に取り返しのつかない事態となってしまいました。
耐震指針が全面改定されたのは2006年、旧指針が出来てから28年後、それから新指針に基づいて原発の再チエックが始まり、津波より揺れに対する強さが優先され、皮肉にもその作業途中の大津波が原因の原発震災となってしまいました。

地震震災、原発震災と二重の震災、未曾有の出来事は全ての日本人、全世界の人々が固唾を呑んで見守っていますが、これから復興に向けて何らかのお手伝いをしようと考えている日夜です。

国家公務員の官僚に告ぐ!

民間人とは大きく異なる身分、責任、それを考えたら公僕としての勤め、この際、更にその使命に目覚め発揮して欲しいと願う。
各省庁毎に300人以上の応援部隊を構成し、地震の震災被災地に出向し、地方自治体職員の傘下に入り、なぜ応援できないのだ!
民間人であるNPO法人のボランティア活動、一般人のボランティア活動と、公僕が動かない、この不可思議、何と言う国家であろうか。

この公僕を動かす為に政治力で強制発動せよ!と言いたいのは私ばかりでしょうか?
 いつまで続くこの愚かさ!2011年03月21日
前回は馬鹿で愚かな日本人!と言うタイトルで綴ったがその第2弾である。
その愚かさはまだ続いている。ガソリンスタンドは相も変わらず長蛇の列、

何で一寸少なくなると車の燃料を満タンにしたくなるの?
車と言うのは燃料を常に2分の1以下にして、走るのがエコで経済的である。満タンと2分の1以下では車重が大きく異なる。車は軽くして走らせよう。

スタンド経営者にお聞きするとタンクローリーが来るのは2日に1回、以前と変わらないがすぐ底を突いて品切れとなる。原因の多くは一寸少なくなると給油しに来る

不安でいても立ってもいれない愚かな奴!と・・・・

メディも最近では冷静になって物もガソリンも不足は無いと呼びかけているが、その愚かさは静まる気配が無い。

その愚かさが物流関係者に大変な迷惑をかけ、更に物資の停滞に拍車をかけ悪循環を生んでいる。

この記した内容を読み、貴方は如何ですか?車のガソリンタンクが一寸少なくなったからと言って、給油に走ろうとしていませんか?

1週間ほど前に「買占め」を綴ったが、買占めの言い訳として、買い占めた品物を被災地に送っているんだと反論的コメントがあった。これも愚かで馬鹿の典型例。

一般的な方からの被災者への救援物資受付が始まったのも「都道府県が窓口」となり、ほんのごく最近の事。それ以前は道路が寸断し物流業者が入るどころではなかった。
そんな愚かな方、何処に送ったの?
いつの間にかカッコ悪いと見えてコメント削除と、お前は本当に馬鹿で愚かな奴よ。

今、福島原発では民間企業の決死隊が交代で870名ほど、命を掛けて懸命の作業を昼夜を惜しまず、作業を進めています。勿論、公務員である消防隊、自衛隊も同様ですが、今、私たちに出来ることは何かを考えた時、その愚かさを少しでも解消できたらと、ささやかな行動ですが冷静さの行動のみと思うのです。

車に精通する者として、車のガソリンタンクは常に2分の1以下がエコで経済的と、今は物流関係車や緊急車両が給油しやすい環境にしてあげる事が、ささやかな行動の一つと思うのです。

少しくらい車のガソリンが少なくなったからと、すぐ給油しない。ガソリン給油待ちの長蛇の列、近隣の住民にも周辺のお店にも、そしてその道路では渋滞を起し迷惑千万、愚かな経験があったなら次はその愚かさに反省!です。

買占めや給油に走りこの愚かさに加担した方々、反省猿!
 馬鹿で愚かな日本人よ!2011年03月15日
何で買いだめに走るの?

スーパーの陳列棚からは商品が消える・・・・

地震から5日経ち、GSスタンドに行き驚いた!
ガソリンがスタンドから消えている。朝の9時には「売り切れ」で店じまいとは馬鹿げている。

スーパーでは多くの商品が品薄で、陳列棚は空っぽ。まさしく日本人の頭も空っぽ同様である。

被災地では物資が不足し、地震に関係の無い「地」ではこの有様。
被災地は道路の整備が遅れ輸送経路が混乱して、物品が届かないと、良〜く理解できるが、関係の無い地でそんな物品を買いだめしてどうするの?

地震に関係の無い地で、皆が必要以上に品物を購入したら、必要に迫まれている被災地に物が更に回らなくなってしまう。
メーカーの生産体制に限界があり、在庫が必ず尽きる。

地震に関係ない地を住居としている日本人よ、物品は最小限度にし、考えて購入しよう。
こんなときに人間として、どうだろうかと、考えた行動や理性が現れてくると言うもの。

買占めに走る自分勝手で愚かで馬鹿な日本人よ!そのくらい分らないのかよ!と声を大にして叫びたい。

そんな買占めをする輩は、愚かであるが為に理解出来ないことでしょう・・・馬の耳に念仏!

情けない昨今の日本人。冷静に判断し必要以上なものは買わないと、被災地の方々の心情も考慮して心掛けたい。

18時30分
沢山のコメントありがとうございます。しかし、馬鹿の上塗りコメントが少なからずあるにはガッカリ!

海外メデアの日本人絶賛は被災地の方々が、大変な状況の中で文句も言わず、少ない生活必需品を整列をなして求める姿等にその「凛とした姿勢」を褒め称えているのです。

それと対比した「一部の馬鹿な日本人」を記したのである。こんな時にストックするなよ!と

やっぱりお前は馬鹿で愚かであった・・・・
いまこの車を仕上げるのに夢中!です2011年02月25日
わずか3台のレアな車

1970年の頃、ある車が欲しくて中古屋さんに物色していたら気になる車がありました。それはトヨタS800、ダットサンブルバード1600SSS、そしてフランス製シムカ1200Sクーペでした。



どれも個性のあるルックスでスポーツカーと呼べる固体ですが、結局、ダットサン1600SSSを購入する事となっりました。しかしこれは後にスピードの出しすぎで民家のブロック塀に叩き突き、大破してしまうのですが、この当時の走りの味が忘れられず2008年にワンオーナーであった同じアイテムを入手したのです。

またごく最近の事ですが、1970年代に購入しようかどうしょうかダットサンと選ぶに迷った「シムカ1200Sクーペ」を手に入れたのです。

殆どの方は知らない、と言うか日本には3台ほどしか所有されておらず、走っている姿を見ることは、ます不可能な希少な固体で、これが手に入れられたのです。

イタリアのデザイナー「ベルトーネ」がデザインした美しい形をし、またダットサン1600SSSは「ピニンファリーナ」のデザインで、個性的で最近の車両には無い「オーラ」を感じます。

共に工場出荷は、今から遡ること46年前の1967年でした。
妙なブローカーから入手で、汚い固体でしたがそれは磨きをかけたらビックリするほど綺麗になりました。

尚ダットサン1600SSSは型式「R411」で、510は次のモデルです。
映画、太平洋の軌跡を11日のロードショウにかみさんと50歳以上の夫婦割引を活用し、観てきました。我が家では1ヶ月に最低1回映画を鑑賞。

日本人は愛する国を守りたい、その為に彼らはどんな事があっても、あきらめないという精神性を持っている。そういう日本兵たちの名誉や忠誠心を理解したアメリカ人兵士、ハーマン・ルイス大尉と
大東亜戦争の激戦地の一つ、サイパン島。そこでアメリカ軍の圧倒的な兵力のもと、次々と玉砕、自決していく過酷な極限状態の中で、たった47人で敵に立ち向い、多くの民間人を守り抜き、最後には敵であったはずのアメリカ軍からその勇気と判断力、行動に「フォックスと呼ばれた」男、敵から賞賛を得、誇り高き日本兵、大場大尉、その2人を中心に描写した映画です。

前回の日記で綴った「忘れ去られた美しき日本人の精神遺産」を彷彿させる、まさしくその部分を投影したそのプロセス、65年の歳月を経て、より一層、私の心を震わせました。

歴史の中に埋もれていた真実の物語。
アメリカ軍を恐れることなく正面に立ち向い、生き抜こうとした誇り高き男、口数少なく、誠実さと優しさがあふれ、決断と判断力に長け、敵であるアメリカ軍からその勇姿を賞賛される。
決して戦争映画ではありません。国が争う状況の中で、大場大尉と言う個人が、その時、何をしたかと言う単純明快さを映した人間ドラマです。真実の映画化ですがドキュメンタリーではありません、人間としてのすばらしさ、日本人としての凛とした姿を描き、感動巨編で心をを打たれます。

以下は抜粋ですが、この原作が発表された1982年、刊行に寄せて・大場大尉こと「大場栄さん」が綴った文章の一部です。

『実際の我々の洞窟抗戦の生活は、もっと暗く、不衛生きわまりなく、陰惨で、こんなに勇ましくアメリカ軍を手玉に取ったようなことではなかった。
しかし、アメリカ軍基地から食料を盗んだ事も、アメリカ軍の大掛かりな日本兵掃討作戦があった時のことも、我々の野営地に神がかりになる兵隊が現われたことも全て事実である。
その意味で我々のゲリラ戦の経過がこれほど具体的に描かれたことは今までにない。
我々が書いたら自分のことはもっとひかえてしまうであろうし、他人のこともこうは書けなくなる。そういう意味でアメリカ人だからこそ、サイパンで戦った敵だったからこそ書けた小説と言うことになるだろう。
この小説がどのように読まれるかについて私には懸念がある。
しかしこの本が、かっては敵同士だった私たちの戦後の長い交流を経て、
敵の眼で書かれた我々の戦いの記録!であることは間違いない』

原作・ダッポーチョ〜敵ながら天晴れ、大場隊の戦線512日
トム・ジョーンズ著(祥伝社)文庫として2011年、復刊しています。
小学館文庫からも「太平洋の軌跡〜フォックスと呼ばれた男」刊行中

洋画が映画と偏見を持つ方、決して少なくありませんがお勧めの日本映画です。
過去にラストサムライや他のアメリカ人が日本人を描写した映画は沢山ありますが、多くが「中国的、韓国的」で、我々日本人が観ると、あきらかに違和感がありました。
この映画はその違和感も無く、安心して観られ、感動を受け「ありがとう」と感謝したい。

もっとも戦後65年経って日本人、アメリカ人の両監督が話し合い、協議しながら『戦争映画を撮ったと』言う映画歴史上でかってなかったこと、その辺を感じながら見るのもこの映画の醍醐味と私は思いました。
これも時代の流れと、アメリカ人監督と日本人監督のコラボレートで作品が仕上がった点、違和感が少しも見られなかったのも、これが大きな要因かなと思うのでした。


ウサギ目が発生で映画を観てすぐ記しましたがPCに転記は本日になり日記アップでした。
美しい日本の精神遺産2011年02月07日
暁影に精霊たちの こだまが幾重に響くゆく
時機はきたれり
蒸された風に 目覚めるいのち
凛と首立て 今 目を開く
天翔け 瘴気の大地を蹴って
雲間の光を 螺旋に昇れ
この息吹き 遥か
亜州架に 彩香なれ

作詞家、鈴木健士さんの詩とその解説

いいようのない無力感に苛まれるときは誰にでもある。(いまの日本は)
空にはあたかも暗雲が立ちこめ、自分の周りを臭気に満ちた瘴気が覆っている。起き上がることさえおっくうだ。引きこもりたくもなる。
直接、間接を問わず、悲しい事や辛い事が毎日のように起きていても、もはや感情が麻痺してしまって他人の為にも自分の為にも、涙を流す事さえ出来ない。
こんなときだからなぜ、自分が存在するのか、その意義を問われている時代なのだと考えてみた。
凛・・・なぜか心が沸き立つ言葉だ。
どんなに厚く暗い雲が空を覆っていても、太陽の光が届いていないわけわけでない。必ず雲間から一条の光が届く瞬間がやってくる。その時機をとらえたなら、
凛と立ち上がり荒ぶる龍となり、一気に天高く翔け上がる。時機はきたれり。
亜州架には亜細亜の架け橋となり、聴いてくれる人達に彩りや香り(様々な感情)を伝えていきたい。


夢彼方 記憶を辿りゆく
心音のままに導かれ
静澗ねむる 珠を求めて

静澗とは源流に近い谷間を流れる清流。
子供の頃には、誰しも水晶玉のような純粋な心を持っています。大きくなるにしたがって、純粋な心は忘れられていきますが、心の奥底には「珠」となって振動し続けている。その魂の震えを感じ、凛と立ち上がれ。

この詩に込められたメッセージ。今の日本人にどれだけ理解されるだろうか?

日本人はかって世界の人々を驚嘆させる気高い精神を持っていました。長い歴史の中で先人が営々と積み重ねてきた世界一の精神文明の国が日本でした。
私利私欲、自分の利害よりも何よりも公を最優先し、国や社会のために尽くす、これが日本人でした。
先人たちは大和心を燃えたぎらせ、過去の幾多の苦難を凛としてはね返してきました。
第一の国難
蒙古来襲では、日本中の人々が立ち上がり、外敵を追い払いました。
代二の国難
幕末のペリー来航
雄藩の志士たちと共に、藩主も公家も幕臣も私心を捨てて一致協力し、明治維新の大業を成功させました。
第三の国難
西欧の強国、帝政ロシアとの戦い、日露戦争です。日露戦争は、近世以降、白人の国とアジアの国とが初めて戦った歴史に残る戦いです。勝ち目は無いと思われた戦いで、先人たちは強靭な精神力を発揮し、勝利を収め、世界史に輝かしい足跡を残しました。
第四の国難
半世紀前には西欧列強の植民地から、日本はアジア解放のため白人の最強国となったアメリカと戦争をし、負けました。しかし、それを克服し豊かな日本を築く原動力になったのも、先人たちの精神遺産でした。
どんなに苦しくても、歯を食いしばり、国のため、将来の子孫のためにピンと背筋を伸ばして頑張りぬく。この犠牲的精神が大和魂、武士道です。
正義の為なら、毅然として立ち上がり、一歩も引かない。されど弱い人には、やさしさ、思いやりがある。私達の先輩はすばらしい心を養ってきました。
日本はまさに凛の国です。日本人は凛の国での凛の魂を育み、営々とこの国を築き、存続させてきたのです。

ところが戦後、先人の精神遺産は継承されず、日本人全体が弱肉強食の原理、合理主義といった西欧の価値観に染まり、日本人でない日本人が続々と誕生し、いま激しい精神荒廃に襲われています。凶悪な犯罪、卑劣な詐欺事件、不正に、道徳の乱れに、生きる力の喪失・・・・
きっと先輩たちは、日本人の魂がどんどん失われていく「新日本人」を見るにつけ、あの世で心配し、嘆き悲しみ、憂いて居ることでしょう。



偉大な先人たちの精神遺産を説いていた前野徹さん、最後の国士は、常に歴史の虚構を突いていました。今は亡き方ですが、中曽根康弘や石原慎太郎、そして安倍晋三さん等に強い影響を与えた一人で、知るひとぞ知る、東急エージェンシーのトップを務めた方でもありました。

歴史の虚構に、かかんに立ち向かう方はもう存在しないかと思うと一抹の寂しさを感じます。
尚、上記の詩は
林明日香さんが「凛の国」と言うCDを出し、歌っています。

この綴りをご覧になって日本人として今の世相、現在の日本人気質は如何かと・・・・・
正義よりも不正義、道理よりも不道理、不条理が横行する時代、それが当り前か!と嘆かわしい世の中です。
フェイスブックとは・・2011年02月04日
小心国家、日本人の象徴的な思考。50や100の拍手で一喜一憂するこの小ささ。世界は5億6億の話ですが、某新聞の記事

「チュニジア、エジプトと続く中東政変で、大規模デモの呼びかけなど大きな役割を果たしたのが会員制交流サイト、フェイスブック。米国の大学生の間で始まり、今や全世界で5億人以上が利用すると言う・・・」

ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)、この趣味人倶楽部もそのサービスの一環ですが、日本では最大の会員数を誇るミクシィ、そしてフェイスブックと、更には携帯電話中心のグリー、モバゲータウンとあります。
日本のSNSは匿名で参加できますが、フェイスブックは実名登録が義務付けられている点が他のSNSとは大きく異なります。
パソコン利用者を対象としたネットレイティング社の推計によりますと昨年12月現在、ミクシティの会員登録者数1021万人、フェイスブックは308万人とミクシィに対して3分の1程です。この趣味人倶楽部は40万人前後でしょうか?

フェイスブックの最大の特徴は入会の際、利用者は実名登録の義務、顔写真を公開する点、既存の日本のミクシィ等のSNSとの決定的な違いです。
最近はそのフェイスブック、会員数に伸びがあり、実名、顔写真での公開が原則であるからこそ、その交流に信頼感が高まっています。
インターネット社会での「信頼性が高く社会全体に役立つ」とされており、日本の企業でもフェイスブックを積極的に利用する動きが見られます。
ユニクロ、リクルートとフェイスブックの自社ページを開設し、企業サイトでは「利用者が300万人を超えると色々な影響は格段に大きくなり、企業戦略の中で無視出来ないルーツだ」と述べています。
また企業担当者も「実名登録であるからこそ信頼感が高い」とその実名の利点をあげています。

米国は電話番号、メールアドレスを知らなくてもフェイスブックでその人の名前を入力するとすぐヒットし連絡が取れると言われ、それだけフェイスブックが普及して、全世界での利用者は5億とも6億人と言われています。

日本以外の国々の方々は知らない人同士でも気楽に会話ができ、その大らかさの国民性が後押しした「自分の情報を積極的に開示して役立てる」と言うフェイスブックの理念に合致したその結果と思えるのです。

しかし日本ではどうでしょうか?
島国根性の閉鎖性、警戒心が強く、この趣味人倶楽部でもプロフィル見ても匿名性を盾に、何んにもわかりませ〜ん。

実名、顔写真開示など小心者の日本人にはフェイスブックは向いていないと言われています。
顔や実名が見えない事を良いことにして、卑劣な行為が、誹謗中傷行為が、日常的な低モラル次元の行為を得意とする情けない日本人。堂々と胸を張って自己開示をしてからその低次元行為を行えば良いが、高い志しが失われてしまった昨今の日本人気質、私も確かにフェイスブックは日本人には向かない!とその様に思います。

この趣味人倶楽部の、たかが日記で50や100ほどの拍手で喜ぶ日本人、その鼻クソ目クソを象徴する、小さい小さい日本人の思考、行動を見て、フェイスブックは次元の違う世界だと思わざるをえないのです。

しかし、それでも昨年12月に会員数が300万人突破!とは
欧米人並みに「自分の情報を積極的に開示して役立てる」と言う「でかい日本人が増えた」と私個人の想いとして素晴らしく、また嬉しく思いました。
ただ考え、行動は人それぞれ、それはその人の見識で行えばよい事で、これはフェイスブックに対して個人的見解。
実名や顔出しが嫌であればフェイスブックに近づかなければ良いだけの事です。

ちなみにこの趣味人倶楽部同様、ミクシィもフェイスブックも会員として登録しています。
61歳で離婚、63歳で再婚の男は全てが新しい生活にチェンジし、そして老人の定義65歳を過ぎ、66歳になろうとしています。
前妻の生活では家の事は一切何もしなかった者が、今、前妻が行っていた家事、トイレ掃除から風呂の掃除、料理など私が行うようになり5年経過しました。
しっかりと板についた専業主夫は、更に進化し仕事上の会計を始め、家計簿にも毎日、記録する幸せに歓喜しています。
それと言うのも今のカミさんに
「ぬかみそ臭くはなっては欲しくない」と言う私の切なる望みが目的と、一人になった場合の備えで、精神も肉体もいつでも準備と言う事が頭にあり、120歳まで活きようとする「私の義務」と、私の信条である、フットワーク軽く!を心得ての行動なのです。

2010年度高齢社会白書では、65歳以上を老人と定義されている「一人暮らしの高齢者」は増加が著しい。1980年には男性19万人、女性69万人でした。
これが2005年になると男性105万人、女性281万人となっています。今後も一人暮らしの高齢者は更に増え続けます。その原因は未婚率や離婚率の上昇、配偶者との死別後も子供と同居しない人の増加などが主たる要因に上げられています。
この数字が現実を物語りますが、一人暮らしは何も恐れる事無いと私は思っています。老年は孤独が当然、それがごく普通のライフワークと、そう思ったら余計な心配ご無用です。
これから迎える高齢化社会、多くの方々が孤独なのだから、それは私一人でなくそれは老年の共有性、皆が同じ土壌だよ!と思えば気持ちは軽くなり孤独感は薄まります。
所詮、人は一人で生まれ一人で死んで行きます。家族がいても、生まれた時も死んでいく時も、必ず一人で誰かとは一緒ではありません。一人で生まれ、一人で「旅」に向うのです。
誰もいない一人、恐れの必要は無いのです。生あるもの誰でもその時を迎えますが「一人楽しい」と臨めば、気持ちはその楽しい方角に向き、孤独は解決します。一人だからと言って悲観する事は何もありません。堂々と胸を張って120歳まで活きる努力を重ねましょう。
どんなに親しい友人でも他人の秘密、自分の醜態をさらす事はためらいを生じますが、配偶者であったならばそれを理解し受け止めてくれるでしょう。外部へ漏れたりしませんから、一緒に悪口を言ったりし、調子を合わせ安心しておしゃべり出来ます。
そんな心を許せる配偶者、親しい友人、兄弟姉妹が少しづつ己の周りから消えて行きます。これが晩年の寂しさです。
他人様に話し相手や旅行に行ったりと孤独感を解決しようとしても、その時だけの解消で、後には空しさ、孤独感がより一層残り、何の解決に至りません。
根本は自分で自分を救済する!これしかないのです。人は病気でも死でも別れでも、一人で耐えるだけです。この根本を理解し乗り越えたら「孤独」は何の心配もありません。
いずれは誰でもその宿命を背負い生きているのです。
ただその時の為に常々、行動と頭のトレーニングが大切で、人間の生から死までのプロセス過程で、誰もが経ていくプログラムと考えれば、気持ちが楽になり老年の孤独、その孤独と楽しく付き合えると思っています。
男は家事が苦手と苦手意識の方が多いですが、しかし、37年間、何も出来なかったものが「気持ちをシフト」して行えるようになったのですら、貴方も大丈夫、その時に備えて、いまから頭のトレーニングと家事の行動を起こそう!

私はまだその状況に差し迫っていませんが、孤独は好きではありません。しかしそう思いながら活きていることも確かでそんな現実が訪れた時に備えて、トレーニングです。

あまりメデアに露出しませんが、今年もうすぐ105歳になる昇地三郎さんです。壮絶な人生を歩み、決して恵まれた環境下で現在に至ったわけではありません。努力の結果がそう導き私の目標「昇地三郎さん」です。
日野原重明さんより5歳年上、重明さんのように医者と言う恵まれた環境下そして職業柄、長生きは必然性ですが、昇地三郎さんは日野原さんとは生き様が大きく異なり、長生きの秘訣の見本です。
75歳で全ての歯を失い、それ以来「総入れ歯」です。見習うところが沢山あり、125歳を目指し節制した生活は本当にすばらしい。

でたらめ生活、不摂生な生活習慣、免疫力低下を促す食生活習慣、それが元で病気発症など「馬鹿げた生活」をおくる暇はありません。一つしかない「命」大切にそして先人の知恵、有効に・・・・
諦めなければ必ずチャンスは来る!2011年01月31日
もう言うまでもありません。土曜日の深夜、サッカーアジアカップ、オーストラリアとの一戦です。

いつもの就寝時間、床に入らなければならないがサッカーの試合が気になり、1度は床に入ったものその床から這い出てテレビ観戦となりました。
日常生活での睡眠時間が4時間前後の者として、決まった時間に眠りに就かないと寝るタイミングを失い、その夜は「夜明かし」となってしまいます。
「明日は日曜日だし、まっいいか」と我を納得させてのサッカー試合でした。

床から出て茶の間の大型画面の前には、宵っ張りのカミさんが大きな声を張り上げての、ジャパンチームに声援をおくっていました。
体育会系のカミさん、本格的に中学、高校とテニスを更に大学に入ってもテニスを行っており、スポーツ好き、ここ近年は特にサッカーファンです。

テレビ前で「ああじゃ、こうじゃ」と時にはビックリするほどの大きな声を出し試合に熱中、テレビの松木解説者並みの情熱をを曝け出していました。私自身も圧倒されそうな勢いです。

試合の展開はハラハラドキドキと緊迫時間の連続、トイレに行くにも惜しいくらいの目が離せない内容で肩に力が入り、観戦していて疲れましたが、この緊張の3時間後、その疲れも勝利した喜びでどこかに吹っ飛んでしまいました。

観戦された多くの方々もそのリアルタイムで送られてくる、勝利の映像に酔い、その試合の緊迫感は共有できた事と思います。
何度も危ない!場面はありましたが、人は

「あきらめなければチャンスは必ずやって来る」

の言葉、その言葉を絵に書いたような試合展開、多くの人々の心に感動と勇気を与え、その勝利に涙したと推察いたします。

現在の日本の全てに於いての閉塞感、政治の世界もメディアの世界もいつもの事ながら、ごもっともらしき報道をと言いつつその裏には「既得権益権の維持」に始終し、

どこか変!

とテレビはお笑いとグルメ下らぬトーク番組に明け暮れる昨今ですが、テレビはニュースかドキュメンタリー番組しか目にしないものには、今回のアジアカップ決勝の試合観戦、一抹の清涼感を得た思いでした。

この試合を観ず床に就いてしまったら、多くの方と感涙する感動の共有は得られなかったと、定時の11時30分、いつもの時間に床に就かず、本当に良かった!と胸を撫で下ろしました。
老人の定義? 2011年01月27日
老人とは?
老人福祉法は65歳以上の者、福祉処置の対象と、そして国連の世界保健機構でも65歳を高齢者とし老人と定義しています。
私は1945年生まれ、正真正銘の前期高齢者、老人です。その通りだと思っており、老人と言われても決して立腹する事もないし自然とその言葉を受け入れています。
若かりし頃よりボディビルダーとして鍛えた体、80歳になってもその鍛えを止める事無く続けている方を知っていますが、それはシニア部門のボディコンテストで優勝するような方です。
自慢がその肉体です。しかし明らかに「皮膚年齢はその年齢」が顕著に現われて、40歳代の方と比較しても一目瞭然、筋肉モリモリですが、その筋肉の上の皮膚は明らかに弛みが生じ、微妙な要素であらゆる箇所に、クチャクチャとしたシワは隠せません。どこか不自然です。
65歳であっても同様、若かりし頃とは明らかに異変が生じている事であり、これが積み重ねた年齢、「暦年齢の実態」と自覚し、暦年齢は隠し通せるものではありません。
私は常々「人生120歳!120歳!」を掲げそして提唱していますが、勿論、この目標、目的は下ろすつもりは毛頭ありませんし、その気概と生活は着実に進行しています。
暦年齢は誰にでも公平に積み重ねられます。しかし見た目は大変な個人差が生じ、また足の軽さ「フットワークの軽快さ」も大きく異なります。
問題はここです。このフッワークの軽快さ!この部分が120歳まで生きられるかを見極める重要な要素と私流の「老いの定義」と解釈しています。
一般的な「老人の定義」65歳以上の人生を、絶対健全健康的で病気にかからず歩む知恵、手段は如何かと考え、工夫を日常の日課にしています。
@
何か物事を起こそうとする時「どっこいしょ」「どっこいしょ」とか「よいしょ」とか声を発する!
A
何事も「めんどくさい」「めんどくさい」と声を発し、めんどな事に立ち向かわず、避けてしまう!
この2件、どんなに若くても、この2件を常に言葉として発したり、避けたりする方、それは「老い」と解釈しています。
生活を営み生きていく上ではどうしても「面倒な事」は必然性、それを自ら率先し立ち向かう勇気と習慣を身に付け「ものぐさはしない」に結びつける事は、健全健康に活きる楽しみの一つです。
男子厨房に入るべからず!と言う昔気質の思想、これは典型的な「めんどくさいを象徴する考えの一つ」と、これを打破するのも楽しく、人生の折り返し以降を過ごす手段です。
料理は知性です。
手先も脳も訓練とし、フットワークを軽くし、最適です。料理レシピには食材が要求され、その食材を購入する為にスーパーマーケットに足を運ばねばなりません。絶対に奥さんに頼んだりしては、意味がありません。
自分でスーパーに訪れて頭を張り巡らせる事に意義があるのです。
面倒だ!等とは言ってられません。最初は挑戦ですがこれが生活習慣となると、生鮮食料品の鮮度に目が肥えて、また金銭感覚、どこのお店が安いとそれぞれの店の「広告のチラシに目が行く」と、あらゆる部分に知恵が働く事になるのです。
これはフットワーク軽くのほんの一部分ですが、65歳からは「老人」と定義され否定せず受け入れていますが、しかし、逆にこの年齢から「老いの革命」と捉え、180度換えた生活もアリかなと考えるこの頃です。
仕事は一生ですが、老人たる人、公職に就いてはいけないと、中小企業や商店の社長さんは別として、一定の年齢になったら、若い人の出る幕を作ってあげるべきで、その点、小泉純一郎は良いことをやったと思っています。
中曽根康弘や宮沢喜一を引退させて後進に道を譲る筋道を立てたのは大変大事なことでした。
彼らは確かに健康で考え方も若いですが、84歳や85歳の方が公の要職に納まってはいつまで経っても若い人の出る幕が閉ざされてしまいます。
その老いの才覚はサポートやアドバイサーとして有効に活用し、表に出ず裏方として全うしその「老いの経験」を発揮して頂く。
老人は、今までの経験、知識を生かしてまず人に言われる前にその見識を発揮、その場のケースを見極め読み取り、知恵を出して欲しいと願い、そうせねばならないのです。
意外に威張ったり、居座ったりと「老いの才覚」など何処ふく風、困った輩も存在するのは現実です。
老人の定義、は受け入れて
「食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしない、この三ナイ主義」は良き老いとして健康健全に120歳まで活きる方策と・・・
その一環として日本一の最高齢者、400`近いハーレー乗りを目指す事が一つと目標です。
まずは90歳のハーレー乗りに・・・・ハーレーの二輪を目指すのです。
サイドカーやトライクと言う3輪車はバイクとは異質な乗り物。転倒する事なく4輪車と同じで、足で支えず走らせる、これでは意味がありません。
2輪車は不安定であるから面白いのです。
ご無沙汰してます。アレから2ヶ月2011年01月25日
昨年の11月27日より「海老蔵現象のウサギ目」の充血で日記は一向に更新していませんが、あれから2ヶ月経過しようとしています。その間、ある眼科にそのウサギ目の疾患治療に訪れましたが、医者の不信を更に助長する「有名眼科」の実態を目にする事となりました。

それは12月も暮れに迫った時、自宅からそれほど遠くない地元でも有名な患者数の多い眼科へ足を運んだ時でした。

眼科の玄関ドアを開けてビックリ!その自ら発した言葉は「ウワッ」と、それほど広くない待合室には70名は下らない程の人数の患者さんが診察の順番を待っているのでした。

「今日の診察終了は午後3時頃になってしまうかな」と想像しながら回りを見渡し、この眼科に訪れたのが一寸遅かった、午前10時頃となったしまった事を後悔しながら30分ほど経つと一気に待っている患者さんが少なくなりました。そんな中で私より先に訪れて待っている患者さんを頭越しに、私が呼ばれました。

意外に早い、と手放しで喜んだのはつかの間、医者の問診の為の調査票を記入するために看護士さんから呼ばれたに過ぎませんでした。

必要事項に記入して渡すと間もなくその医院の関係者に呼ばれ診察室に入るとこれまたビックリ、先ほど待合室で待っていた患者さんが部屋を移動したに過ぎないほどその部屋は患者さんで埋まっていました。
その部屋には検査機器が4台並んでおり、順番に@からCまで番号が付き、その番号順に座って目の検査をを行うのです。

流れ作業の如く、私も順番どおり、看護士の指示に従い所定の位置に座って検査をするのですが、手馴れたもので効率よく一気に眼圧や視力など不都合箇所が無いかどうかのチエックでその検査は終了です。
検査が終了すると15分もすると医者の問診の為に治療室に呼ばれました。
その医者は先ほどの検査結果を示す「レシート用紙に刻印された検査数値」をカルテの用紙を挟んだバインダーに付けて持っており、その治療室に入るなり
「今日は如何しました?」と・・・・
先ほど待合室で書かされた問診する為の調査票は一向に目を通していないようであった。
内心、なんだコイツ、と思いつつ、調査票に記入したとおりその目の疾患を説明すると「これは単なる疲れ目」ですね、と、点眼薬を処方して置きます。ハイ、次!と

これには開いた口も「アングリ」でした。
検査結果も説明する事無く、いま目の前にしている患者よりも、多く訪れている患者の裁く方に気が向いている最悪医者と思いつつ、その診察室を出るとまた待たされ、そこには点眼薬を一滴ほど患者さんに付ける専門看護士さんが居て、それを目に付けてもらい治療は終了となるのでした。

それでもその終了まで2時間ほど要し、会計を済ませて処方された目薬を薬局で購入し帰路となるのですが、その会計時、その医療点数表を見てこれも「ムッ」とせざるを得ない数値が並んでいるのです。

検査の結果も患者に知らせないで、しっかりとその4種類の機器で検査した点数は記載、そして医者の問診後、一滴の点眼の点数も記されていました。さすがこの眼科は規模が大きくなり商上手思いながら、もう二度とこの眼科には訪れることは無いだろうと、処方された、点眼薬を受け取りその眼科を後にするのです。

医者は算術!と思い知らされる眼科の商売上手の話でした。ちなみに医者から処方された点眼薬は何の効果も無く、今でもPCの画面を2時間以上、凝視するとすぐ充血のウサギ目に・・・・

時々、思い出すように目に影響ない範囲で、日記はアップしたいと思います。

海老蔵のウサギ目がやっと2011年01月07日
あけましておめでとうございます。
日記や掲示板を通して、昨年は色々とお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願い致します。

昨年の11月から「海老蔵の目の如く、ウサギ目」はここに来てやっと沈静しました。疲れの蓄積が原因で大変、長くかかりましたが、もう懲りましたのでTVもPCもデスプレィの凝視は短い時間で打ち切るように心掛けようと今年は思っています。

多くの方に激励や心配した!と言うメールを頂き、ここに新たに感謝申し上げます。
目が気になり昨年のよう毎日、日記を綴るわけには行かなくなりましたが、しかし、時々は記して行きたいと思います。

今年の初詣は私は北の方角が良いということで日光東照宮、二荒山神社と群馬県貴船神社に参拝してきました。
鬼怒川温泉の鬼怒川プラザホテルに一泊し、温泉で癒しての参拝でした。
ホテルは川側に部屋を確保し、眺望も良く、又、貸し切り露天風呂も新しく作られたようでグッドでした。写真はその露天風呂です。

鬼怒川も伊藤園ホテル系は何処も満室のようで、プラザホテルも満室でしたが、デフレ時代を象徴するようにリーズナブルな宿泊代を売りとするところはどこも盛況のようだとホテルの関係者は述べていました。

昨年から日記の中で、母のお腹に居るときから「死と紙一重」と記しましたが、その続きの日記は2000字以内に収まらない為にホームページに綴っています。

2006年10月、まだ元気だった頃に母から約6時間に及んだ母の顔をビデオ撮影しながら詳細を聞き取った証言で記しています。
母は昨年、11月に96歳で大往生をしてしまいましたが、このビデオは私にとって貴重な母の遺産となってしまいました。
海老蔵の目のように真っ赤!2010年12月29日
ご無沙汰していました。11月27日、トヨタ博物館主催、神宮外苑周辺から銀座4丁目を周遊する「クラッシクカーパレード」に参加以来の趣味人倶楽部です。

その間、多くの方々から、急に日記掲載が無いと言う事で心配して頂いたミニメールをお寄せ頂きました。

実はパソコンやテレビのディスプレイに対して目が過敏症になってしまいました。
海老蔵の記者会見をご覧になった方はお分かりかと思いますが、あの海老蔵と同様「左目が出血」で真っ赤になり、デスプレィを見なければすぐ治るのですが、しかし、画面を1時間も見るとまた真っ赤に、とこの繰り返しで、仕事で見なければならないこと以外は、一切、パソコンそしてテレビからは遠ざかっていました。

今日はその11月27日から初めて「趣味人倶楽部」のサイトを開いています。
沢山、メールを頂きましたが返信出来ず、大変申し訳ありません。

体調はすこぶる快調ですが、眼科の診察「疲れ目」と言う事、そしてその原因は全てがパソコン&テレビのディスプレイと言う理由で、今後も必要最小限度のパソコン通電です。

これ以上の凝視はまた「赤目促進」でその充血が解消されるま趣味人倶楽部は開店休業です。

今年1年、趣味人倶楽部に於いて日記や掲示板を通じ、色々とお世話になりました。来年もよろしくお願い致します。

良いお年をお迎え下さい
ゴミ日記?2010年11月26日
≫日記を書くと、1秒もしないで、拍手するバカ・・・
相手を見てみると、拍手の人気ランキングの常連。
ようするに、自分に拍手が欲しいだけ。
妙に思わせなタイトルでクリックさせといて、ブログに誘導させるバカ・・・
そんなにアクセスが欲しいのか、寂しいのか?
日記をクリックすると、URLを貼り付けているだけのバカ・・・
歳相応に、自分の感想ぐらい書けよ。
マイフレは、お断りしていますと書いているのに何十人もマイフレが居るバカ・・・
本当に、ここはへんなジジババが多い≪


これは私の日記のコメント欄に、ある面に於いて核心を突いた書き込みでした。


私の場合、上記の日記は総称して「ゴミ日記」と定義つけしています。

そんなゴミ日記でも脳の活性化、つまり「脳神経細胞のネットワークが増える事」「脳神経細胞が増える事」に結びつけばまだ救われます。

日記は何の為に書くか?

パソコンの普及で必要な資料をデジタル化し保存、連絡には電子メールと言うように多くの会社、職場では紙を使う事が減っています。

パソコンで文章を書く場合、指、手はどんなにキーボードを叩いて書いても疲れません。書いたものはハードデスクで保存できそれを整理分類も容易くできます。パソコンは私達の生活を大きく変えました。

当然、手で紙の上に文章を書く機会が失われ「1日に一度も文字を書かない」と言う方も珍しい事ではありません。ここが問題なのです。

文字を書かない!と言う行為は脳にとって大変損失です。
私はパソコンを利用し文章を作成する場合、以前から極力「必ず紙の上に文章を作成」してからパソコンに移すと、最近ではより徹底して行っています。

書くことは脳の機能が上がる!と思っています。
パソコンに直接、記す事は大きな間違いである事を知りました。
ボールペンなり鉛筆を持ち、紙に書く、この行為は脳を鍛え、より活性化に結びつく事を認識したのです。

考えてみるとそれは当たり前、脳は鍛えることのできる器官で、使えば使うほど、刺激を与えれば与えるほど脳の機能が向上していくのです。


『ペンを使って文字を紙の上に書くことは脳の何処を使うか!「美」と言う文字を手で書く時、脳はまず文字を思い出す作業を行います。「美」とはどの様な形なのか、その事を膨大な蓄積された記憶の中から取り出すのです。呼び出された「美」と言う文字は言語中枢で分析されワーキングメモリーに保存されます。次に「文字を書け」と言う指令が運動神経の中枢から出されます。指先を正しく動かす為に働く小脳です。
更に視覚中枢が指先の動きの補正をします。僅かな「美」の一文字を書くのに脳はこれだけの作業をするのです。もっと複雑な文字を書く時、記憶回路は更に活発に働きます。』(ある脳医学博士の文脈引用)


これがパソコンの場合、如何でしょうか?
脳は勿論、使いますが文字の形について何の刺激も受けません。日記でも特に「ゴミ日記」は脳の刺激も得られず、ただ漫然と書いているだけで時間のロス、と思えてしまいます。

何かを書く時は必ずテーマを決め、深く考えたり、緊張感を持ったりしながら書く、その結果、初めて脳の鍛錬に結びつきます。同じ時間を使うなら「脳に良いこと」に結ぶつけよう。

この趣味人倶楽部の日記をアップデートする時、一度、手で紙に書いてそれからパソコンに移す、この行為がどうせ書くならこのステップを踏む、これが重要で脳に有益と思っています。

脳は新しい刺激により、鍛えられ若返ってくるからです。ほんの一昔前まで、脳細胞は再生しない!と言われていましたが、しかし近年の脳科学の研究の結果、「脳の神経細胞は歳をとってからでもドンドンと新しく作られる」事が分りました。

新しい刺激を脳に与える事を条件ですが、加齢と共に脳の機能は強化されていくのです。
自分の体内カメラ散歩、楽しいな!2010年11月25日
昨日は検査食だけ、そして今朝(24日)は検査に備えて「腸の掃除用1.8Lの下剤」これは粉末ですが、自分で水に溶かし決められた量の水を入れよく撹拌し飲むタイプです。

この1.8Lもある下剤は1時間の間に飲んでしまわねばなりません。こんな沢山の量、1時間に飲めるのだろうか?と思いましたがその下剤、意外に飲みやすく殆どスポーツドリンクの味で、それを全て飲みつくすと20分も経過しないうちにトイレに行きたくなり、その繰り返しが8回ほど行われました。

浄化程度を見るサンプルにより、行く度に腸の浄化具合をそのサンプルと照合し、5段階で示されている便の濃度で「殆ど水」と同じ透明度を確認し、いざ病院へと向うのです。

本来なら11時30分が検査開始時刻ですが、朝にキャンセルの患者さんが出た!と言う理由で自宅に病院から電話が入り、1時間その開始が早まりました。

下剤を11時30分に想定して飲んだ関係で、一寸、あわてましたが、しかし、腸の浄化の具合はクリア出来ていましたので、早まった時刻に合わせて自宅を出発し、10時30分に病院にて検査開始でした。

病院のべッドでは当初、横向きで内視鏡は尻より挿入されて行きますが、その前にゼリー状の「潤滑油」の役割を果たす、ヌルヌルな物質を肛門の入り口に塗ります。

そしてスグにカメラが入りますが、入る寸前は少し緊張で体が硬くなり、看護婦さんから「体全体の力を抜いて下さい」と、言われあわてて力を抜くと殆ど「スムースイン」でした。
カメラと同時にお腹を膨らますガスも同時に入り、そのガスが少し違和感がある程度で「ただ寝て画像のモニターを見ている」と言う感覚です。

その画像、ホルモン焼き屋さんで良く目にする「豚や鳥の臓物のヒダヒダ」とダブって見てしまいましたが、人の臓物もホルモン焼きの臓物も「同じだ!」と。

そのような画像を、そして解説を受けながら40分ほどの、わが臓物探検は終わりましたが、結果は一切、不都合箇所が無く、ベストと太鼓判!を主治医から頂き、ヤッターと心の中で声を上げるのです。

8年前に腸にカメラを挿入した時と今回、大きく異なるのはその検査の際に、お腹に入ったガスを我慢せず、どんどんと出しても良い事に改善されたことでした。
当然、何度か「ブゥー」と音を発して遠慮も糸瓜も無く、何度もガスの排出は発生し、我慢しないのは技術の進歩と思うのでした。

8年前は腸を膨らませての内視鏡挿入、これが結構苦痛で、それが今回、内視鏡と一緒にガスを注入しての検査ではありましたが、我慢しなくても良くなった事が、受ける側として大変、ラクチンでした。

前回同様、勿論その腸に挿入したカメラの画像をモニターに映し出し私自身もそれを見ながら、主治医の解説を聞いての検査、その画像は
「美しい私の腸の様子」が手に取るようで、私自身がその腸の中を散歩し壁の前に立ちながら、美術館の学芸員の説明でも受けているような不思議な気分になりました。

カメラは盲腸や小腸方面へと進んで出口に戻るのですが、見落とす事が無いように綿密に、そして見え難い箇所も丁寧に画像は映し出していましたが、どれくらいの距離でそのカメラは入るのか尋ねた所、80cm前後と主治医は述べていました。

ベットに横たわり尻の穴にカメラが挿入してから抜き出すまで約40分程で終了ですが、私も腸内探検を楽しく過ごせ、主治医には質問とその疑問に対してのやさしく丁寧に受け答えて頂き、また解説も交えての「腸内探検」は、不都合箇所皆無の太鼓判、「ホッ」とした瞬間でした。

11月初旬に行った胃カメラの飲み込みよりも、お尻からと言う理由もあり、ズッと楽でプレッシャーも無く、腸内散歩は楽しく過ごせたのです。


病にならない為の手段、それは前日の日記

≪@三ナイ主義、A見るに耐えないブザマな体型修正、Bそして現代医療機器を駆使した検査、C更には免疫力を付ける食生活習慣の「4点」に尽きると信じて今まで実践し、この65年間「病気には縁が無い生活」が送れていると確信しています。≫


Bの検査をお勧めします。ラクチン!ラクチン!でその上に自分の臓物が、腸が、朝の散歩の如く、楽しめます。
私は8年目の腸内散歩ですが、自分の体の中をカメラが入り、うろちょろと覗ける機会はそれほど多くありません。こんな時は「チャンス」です。

今日は腸へ内視鏡が入る!2010年11月24日
昨日から腸に内視鏡を入れるため低カロリー低脂肪の「腸内大掃除用検査食」で一気に体重が減っている感じです。

先日は8年振りの胃カメラ挿入で、その検査結果は良好でした。その時に主治医は「腸検査も8年前でしたが、今回は血液検査の結果もベストで腸検査は不要」と言ってくれたのですが、これは病気にならない為の手段、とし私の方からお願いして腸に内視鏡を入れる事にしました。

腸には何の不都合はありませんが今まで、病気は「ゼロ」検査はある程度の時期が来た時に私の方からは積極的に行うよう心掛けています。勿論、免疫力の高まる毎日の食生活は必然性ですが、現代の医療機器を駆使して科学的にデータで判断する事が、問診や触診等では当てにならないことは明白で、そのデータだけが信用できると私は思っています。

最近はそのデータがより密度が濃く取る事が可能な「PET」が普及して来そうですが、我が住まいの周辺には高崎市の某病院に設置されているくらいで、全国的にはこれから、と言うところです。

病にかからない方法は免疫力の高まる食生活習慣と科学的に目視出来る医療機器を駆使した検査、この定期的検査が必要不可欠と信じています。
従来の医者のパーソナリィティに頼る診断は、信用せず、また最近の若い開業医はそのデータに徹底して拘り、むしろ明快で安心できる要素を含んでいます。

診断は経験よりも最新の医療機器で出されるデーターが、手術などは経験でしょうが、その手術を施されないようにする為の手段が「病にならない」毎日の食生活に尽きると信じています。

病にならない為には「自己管理」しかありません。その為にはどうするか?
その心意気は
食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしないの三ナイ主義、そして仮にブザマな体型になってしまった場合、そのブザマさを鏡で映し、高校三年生当時と比較し、余り「差」があるようでしたら、修正の努力をする。そして時々の最新医療機器を通じての検査

@三ナイ主義、A見るに耐えないブザマな体型修正、Bそして現代医療機器を駆使した検査、C更には免疫力を付ける食生活習慣の「4点」に尽きると信じて今まで実践し、この65年間「病気には縁が無い生活」が送れていると確信しています。

いくら能書きを述べても現実の貴方は如何?と問いた時、どれほど自分の健康生活に自信を持って発信できるでしょうか。

人の振り見て我が振り直せ!の格言、まず一番の分りやすく見て判別で来るもの、それは「体型」と常に人の体型を見て、特に温泉地での風呂場、そのブザマさを拝見し、ああなっちゃお終いよ!と思うのです。

さぁ、これからの腸の内視鏡検査、これはそのカメラを腸に入れる際、お腹をガスで膨らませてそのガスを出さないよう我慢せねばならないのが少し、苦痛で胃カメラ挿入よりズッと快適と8年前はそう思いました。
アクセス数?ランキング? 2010年11月23日
この狭い趣味人倶楽部の領域で、ランキングがどうの、アクセス数がどうのこうのとは「小さい、小さい」といつも笑っているのです。
典型的な島国根性の日本人!とその国民的遺伝子を守ろうとするその姿勢に「尊敬の念」を感じてしまいます。
この30数万人が入会し、その内、積極的に活動している方がどのくらいか、私のマイフレンド数からの分析は0.04%、そしてその中では各種ジャンルがあり、日記には目を通さない方が大半と推察します。
私の様に多くはそんな数値はどうでも良いと、ただ淡々と自己表現し、毎日か時々かは分りませんが、その方の常々と感じる部分を記していると思っていると同時に大変、親しみとその記す喜びを共有認識できるのです。
MFの方々の日記を見る限り、特にその認識は強く、妙なサイトに飛ばしたり妙な解説に始終した日記?とは大きく異なり、自分の言葉で自分の文章を記している事に敬意をはらい、楽しく読ませて頂いています。
私の日記、全て我が身の事が中心でバーチャルの世界ですが、この事も「それがどうしたの?」と、バーチャルはバーチャル、それで≪結構毛だらけ、ケツの回りは糞だらけ!≫と寅さんシリーズで良く使ったフレーズで、ついそんな事を口ずさんでしまいます。
遡ること30年数前から、色々と雑誌の取材を受けて多くは実名で掲載され、今ほど個人情報がどうのこうのと言う時代ではありませんでした。
言うまでもなく「個人情報保護法」などと言う、
役人が情報開示を求められた時、都合の悪い情報を全て黒く塗り潰して出せるようにした根拠法令で、我々、どこの馬の骨か、使用価値の無い庶民の個人情報保護とは縁の無い法律であるのが、現状の個人情報保護法と私は解釈しています。
ネットはバーチャル、バーチャル、と言って「過大危険」と吹聴する輩が数多く存在します。確かに利用価値のあるスポーツ選手や、芸能人、政治家、その他、もろもろの著名人は公開は危険の要素をはらみますが、しかし、その方々のブログを見ても写真、プロフィールはこと細かく、詳細が記されています。
それと比べてもこの趣味人倶楽部の入会している方々、誰も利用しようなどと思っても居ない、と言うか利用価値も無いのに、プロフィールに何も記していない方の多い事か、これも笑っちゃう!と常々の私の所感です。
味噌にも糞にもならない!そんな利用価値の無い個人情報、誰が利用するの?と私は言いたいのです。公開しない方を想像するのが楽しみ、へぇ〜とつい呟いてしましいます。この趣味人倶楽部に入会している楽しみの一つ?それも人それぞれですが・・・。
ランキングのアクセス数が何万人達成!日記ランキングがトップ!とそんな方のプロフィールを覗くと、ガッカリとこれも笑っちゃう。
仮にプロフィールを公開しても利用価値の無い糞みたい凡人の情報、誰も気に留めず活用もしないと、断言出来るのです。
私は雑誌や他のメデァで30年来、住まいも特定出来る個人情報を掲載や電波で流された事は何度もありますが、一度も被害に遭遇した事はありません。
そんな事は当然で、利用する価値が無いから、味噌にも糞にもならない個人情報と、誰もそのな気にもならないのです。そんな事は当然で、何を勘違いなされているのか、これも大笑い!です。
私より利用価値のある方々、日常的にブログで多くを公開している著名人、星の数ほどです。その事tを考えたら、鼻くそみたい狭い領域の趣味人倶楽部でのプロフィール未公開、小さい!小さい!とこれまた「笑っちゃう」となるのです。
私のサイトへ訪れた方々、日記に拍手喝采して頂く方々、そしてその日記にコメントを残して頂く方々、大半が過去の日記を読んで頂いて、その内容の健康観や人生観に共有認識を持って頂ける方々と思っています。
三ナイ主義「食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしない」のフレーズ、そして健康はまづ体型からその原理は
「今の体を鏡に映したブザマな体型、高校生3年生当時と比較し、如何かな」とのフレーズ
健康について語る時、この三ナイ主義とブザマフレーズがその問題のキーワードと捉えている私の主義、その主義を嫌う方は、二度と私のサイトには訪れる事は無いと思っています。
しかし、それを否定的に思っていても、どこか共有できると認めて頂ける方は、何回でも訪れて頂いているとその方のバンドルネームの文字が反転する色で推察出来るのです。
コメントも嬉しいスレッドの方々が殆どで、その健康原理フレーズが生き、理解し合えると自己分析しています。

アクセス数が多い、日記ランキングがトップ?だからどうなのよ!とこの一喜一憂にはお笑いだ、と思うのは私ばかりでしょうか。
この件で再掲載でしたが前回の80数名からのコメント、この場をお借りし、感謝申し上げます。
医者は合法的殺人者? 2010年11月22日
11月17日、午後7時40分の事、兄嫁さんから「お母さんが入院しているが医者の話では余り長くない命ですので、明日にでも来て欲しい」と電話がありました。
96歳になる母は今まで元気に過ごしていたが、どうも食欲が無く体がつらそうと言う理由で入院を2週間前にしたようで、そしての電話。
それから20分も立たずにその息子から「ばあちゃん、死んじゃった!」と再度の電話で、母の死の現実を知る事になるのです。
兄嫁さんの話で「4〜5日にスグ逝く事ではない」と言ってましたので、息子からの電話、まだ舌が乾かないうちの「死の連絡」にはビックリでした。
一人しか居ない96歳の母の死はある程度の覚悟はしていたが、しかしいざその現実が訪れると「母との思い出」は沢山の情景が頭の中に流れ浮かんでくるのです。
やはり現世にはもう存在しない、となると悲しみがこみ上げ来る感情を抑えきれず、自然に涙が出てきてしまいます。それは1980年11月27日に79歳で早くして逝ってしまった父との生活苦労、父のキャラからくる、のん兵衛と賭け事好き、そして喧嘩大好きの「豪快な父」には苦労させられたが、楽天性格がその局難をクリア出来たしたたかさ、強さを、備え持ち合わせていた母であったが、とうとうお迎えにより三途の川を渡り、逝ってしまった。

通夜は18日、告別式は19日とそのセレモニーは決まり、その通夜に母と対面するのです。
母は今は亡き女優の「北林谷栄」さんに瓜二つで、良く間違えられる事度々、私もいつも母を見ては、何で世の中、こんなに良く似た人が存在するのだろう、と母の顔を見てはそう思っていました。
そんな母も棺の中で、今にも目を覚まし、起きてきそうな表情をしていますが、安らかな表情を浮かべ眠っているのです。元来、顔のしわが少なくとても96歳とは思えない「ツル」とした肌触りは、生きている時と何の変化も無く、ただ深く眠りに着いているのです。しかし、その感触は「冷たく透き通り」これが死んでしまった人間の皮膚感覚かと思い知らされるのです。
涙と共に棺に収まる母の顔、腕、足、いたる場所に触れて母との別れを惜しみ、もう二度と目の覚ます事の無いその姿、かみさんと悲しみは怒涛の如く押し寄せ、嗚咽は止りません。
しかし、そんな姿の母、どこか不信な部分痕跡があり私としてはやりきれない箇所があるのです。腕や足にうっ積した血液の跡が、それを兄嫁さんに尋ねると病院で検査や点滴で受けた注射針の跡であると・・・・

母は病院に入ると様態が急激に悪化してしまったと言う事でした。次々に医者が行う検査漬け、点滴、そして薬り漬けと、そのうっ積した痕跡は96歳となった肉体に、血管が浮き上がらないが為に、何度も注射針を刺しその度に血液が皮膚に滲んで出来た≪あざ≫であるのでした。
兄は医者には高齢で肉体的に耐え難い検査は行いようにと「お願い」し、家に戻そうと兄嫁さんと話合っていた矢先の上、様態が悪化した母の死でした。
私なら病院長、理事長なりに直接その病院の責任者に掛け合い、その実態を調査してその内容により「告発」を行うが、元来温厚な「兄」はとてもその領域のタイプでなく、正当な医療行為であったであろうとの認識によりそれ以上の口出しは控えざるを得ませんでした。
毎日、母の介護を行っていた兄嫁さんは、入院させるのではなかったと涙して私にその悔しさを滲ませたのです。
96歳と言う高齢者の入院に於いて、病院、医者にもよりますが明らかに「金ずるのお客さん」として扱われてしまう恐れが生じると、兄嫁さんから詳細を聞き知れば知るほどその恐ろしさに私は現代の合法的な「アウシュビッツ収容所」と重ねてしまうのです。また医者は高齢者の入院は病院経営の良き金ずると同時に、その色々と試みる事が合法的に医療行為として行われ、母のように入院と同時に行われた医療行為が「死を早めた」と私は認識し、裏を返せば医者はこの件で「合法的な殺人者」と思うのでした。
私以上に兄嫁さんは苦しさとその苦悩を心の中で叫んでいる事であろうと想像するのです。毎日の生活を母と営み、半痴呆の母の下の世話、入浴、そして別メニューの食事の世話と、献身的な介護で母は幸せ者と思うと同時に、兄嫁さん以上に病院に入ったのが安心と、その気遣いで入院が裏目に出てしまったその苦悩とその責任、涙が多くを語っているのです。
腕を始めとた体の母のアザ、注射痕跡を写真に収めようとカメラを向けたが、「もういいよ!」と兄の制止で収める事はやめましたが、何とも遣り切れない気持ち、その痕跡が多くを物語るのです。
そして医療行為の名のもとで「合法的に医者は殺人者」と思わざるを得ない恐ろしい実態を様々と見せ付けられ、更に医者は役立たず!と私は再認識をするのです。

高齢者の入院、慎重にしなければいけないと良き教訓を残した母に感謝!です。
毎日を楽しく健康で過ごす!
これってなかなか難しい事ですね。言葉では簡単ですが365日この状態を保って活きて行く事は並大抵ではありません。

1日の中でも波があり、また感情があり今は絶好調!と心軽やかであっても1分もするとその軽快感から一気に滑り落ちります。

私の場合、以外に感情が激しく穏やかではありません。一見、穏やかに見えますが心の中ではいつも悶々として戦っているのです。

極力、表情にに出さないように務めてはいますが、キレた時、突然その表情は一変し、凶悪犯もビックリの形相となるようです。
これはかみさんの談ですので、事実か否かは定かでありません。

しかし、人間、感情で生きている動物、それが人間の特性であえてその感情を隠す必要は無いと常に思っています。

ただそれは悪魔でも「ケースバイケース」でその時点の空気を読んでの事、自分で感情が出せる場所かどうか、良くわきまえて自己コントロールが出来る事が条件です。

この表現が適切かどうかは疑問ですが、女性は子宮で感情を、男は脳で感情表現と、感情についての男性、女性との違いを端的に述べている事です。
ある部分に於いては当てはまるのかなぁ〜と納得すること、ままあります。

65年の生きて来た軌跡の中から一寸だけその言葉に理解を示せる部分もあるのです。

超越し、悟りを得た人物、この領域に到達するにはまだまだ修行が足りないと、つい怒りには穏やかに受諾できず、その怒りとお付き合い!してしまい自分の顔がどうなっているか、「とんでもない形相」とそんな時その表情を想像するのです。

情けないこっちゃと我ながらいつも反省!です。何でそんな事に怒るのだよと思っているのですが、その怒りを抑えるには顔の表情を穏やかに、穏やかに、心とは別の顔に装おうとトレーニングするのですがなかなか自分で思うようには行きません。

正直につい怒りが顔にも出てしまうと言うこの愚かさ、自己嫌悪感に陥ってしまうのです。

人には快いストレスが必要と、これも脳活性化に大いに役立ち、感情を抑える事は軽度の場合、軽度なストレスと捉えれば「脳に有効」と解釈して感情を抑えてストレスを創りだす。

これは私にとって有益であり「感情を抑える根拠」とし脳活性化の要因と解釈し納得出来るのです。

60歳を過ぎてから大きな事業を成し遂げる方がその世界には沢山います。ビジネス分野でも芸術分野でも決して珍しい事ではありません。

天才であれ凡才であれ脳細胞は死滅もありますが、誰でも本人が死ぬまで成長を続けるのです。

新しい刺激を求める事を止め、そして自分は高みに登っていけるのだと言う思考を捨て、その時から天才凡才関係なく脳は錆び付いて行きます。

感情のコントロールも未知の世界、新しい刺激の一つと捉えると、それは脳に良いことが日常的にゴロゴロところがっており、行動パターン、生活パターン、例えば服装も今までとガラリと違った装いにと身の回りを見渡すと、それはそれは豊富に「新しい刺激」「未知の世界」の裾野は広〜いのです。

毎日を楽しく過ごす、この楽しく過ごす!も感情を抑えるも全て繋がり、究極は「脳の活性化」に有益となるのです。
今日は久しぶりの友人家族との茶会です。1年に何度か、行きつけのおしゃれなコーヒー舎「珈楽庵」での談笑、とても勇気や希望を頂く日なのです。
車椅子の彼は、首の末梢神経破壊で首から下が全て機能していない!と言う不幸に見舞われて丁度10年、その状況に陥入り、365日24時間、そのサポートでの献身的な奥さんの振る舞いにも頭の下がる思いです。
そんな彼ですがそれは明るく、弁舌さわやかでポジティブ思考、また人としての思いやりや気配りは、私の様な健常者はいつも彼の姿にありがとうと心の中で呟く事、と感謝で一杯です。
300万円近くもする外国製の特注仕立ての車椅子、これが彼には不可欠で、この椅子は体の一部なのです。常に体を寝かしたり起こしたりし、強制的に血液の循環を良くせねばすぐ低血圧、高血圧となり、重大な支障を来たし生きてゆけない状況がすぐ訪れるのです。
勿論、自分で屈んだり起き上がったりとその椅子上でさえも奥さんの助けが必要なのです。
首から下は一切、感覚が無く麻痺してしまったその現実は、ある部分でその車椅子に頼ること、そして奥さんの介護で24時間、生命が得られるのです。
奥さんも家族もそれは全てサポート体制で臨み、ある面で経済的に恵まれた環境であることも確かです。しかし、例えその様な環境でもあっても本人が滅入ってしまえばそんな努力は水の泡と成り得るのですが、そこが彼の凡人と異なるところ。それは前向きで明るく、いつも回りを取り巻く健常者に、笑いの渦を創るのです。これには私も尊敬の念と、私もああでなければいけないと教えられるのです。
思えば2000年11月4日の事。彼には若かりし頃、交通事故で首の骨の関節に欠陥があり、主治医にも注意を促されていた事実が存在していたのです。その欠陥が突然襲い、走行中、意識を失ってのバイク転倒事故でした。
佐久から諏訪湖方面に走る国道142号線上での出来事。
その線上にある新和田トンネルを抜けると最初の、左に切れる「大曲りのコーナー」での出来事でした。
それより20分前に和田村にある道の駅、埼玉から朝早く出発しハーレーダビットソンの愛好家の集まりである「晴旅人尊塾」の定例ツーリング、時刻は午前9時丁度、晴天の中と言えやはりこの時期の長野県は空気が冷たい。
寒いと言いながら皆の顔、空には雲ひとつ無い真っ青なすがすがしい空と同じように澄み切ったそれぞれの顔、本当に嬉しそうである。トイレ休憩も兼ねて、冷え切った体の暖を取るのです。
これから起きる事故が知るのは神様だけ、その事故の当事者も「晴れ晴れとした顔」で、
会長、今日のツーリング、最高ね!等冗談を飛ばしその楽しさを確認するかのような言葉を最後に、さぁ出発!と皆に合図を送りその道の駅を背にして、和田トンネル方面へとバイクは進めるのです。
先頭を走る私のバイク、その問題の大曲りを通過、次のコーナーを抜けると同時に「会長、転倒!転倒!」と私の無線機に一瞬、あわてたような動転した様子のメンバーの伝達が耳に入るのです。
どうせたいした事は無いだろうと、バイクを路肩に寄せ、その後に続くメンバーも路肩誘導し、後方からの無線を待つがその後、一向に無線で呼びかけても応答なし。これはただ事ではないとバイクをUターンしてその転倒場所に向うと、360`もあるバイクはガードレールからはみ出し崖下に落ちる寸前でかろうじて木に引っかかり、倒れてしまったメンバーは身動きできずただうずくまって道路の要壁に横たわったいたのです。
意識はしっかりしているが、その彼「俺の足、ちゃんと付いているかい」と尋ねるのである。意識は何の異常もなさそうなので、その時は「ホッ」としたが、しかし、首から下が自ら動かす事が出来ない!と彼は言い続けるのです。
この時、私は涙が出てきてどうする事も出来ないほど、その事故の今後の事の彼を思うと、悲しく気の毒でただただ涙がドンドンと留まることなく溢れて来るのです。
彼の状態を見て首の一番大切な抹消神経がやられてしまった!もう首から下は麻痺してしまうだろうと、心の中で叫ぶのでした。
その事故の様子は今でも鮮明で、目をつぶると走馬灯のように、その当日が思い浮かぶのです。それから10年目の彼、その時に危惧した彼の将来、それが昨日、まるで悟りを開眼したかのようなそのありのままの姿、敬服するのみです。

人は煩悩のるつぼ、食の欲にかられ毎日の悪き食生活を抑制も出来ず、病に犯される輩は数多き事か、そんな低次元とは比較にならず、比較そのものが失礼!で論外ですが、
首から下、全てが麻痺した場合の私達健常者がその彼に当てはめた時、貴方なら如何でしょうか?

首から下が一切の麻痺に襲われ、自分の意志で手も足も動かせない、回復の見込み無く、死ぬまでその現実・・・・・どうしますか?
まさしく生き地獄!足も手もそして指も自分の意志では動かせない。下も無意識のうちに出ている状況。しかし、首から上が何の不都合も無く、健康そのものなのです。全てが健康時と何ら変わらず、だがそれから下は感覚が失われてしまっているこの現実を!
自分で命を絶とうとした場合、舌を噛み切る以外は死の方法が見た当たらないのです。
この10年間、どれほど心との葛藤があっただろうか、それは他人には推し計り知れない「心との戦い」があり、それを克服したその精神力に敬意を表するのです。
事故当時、将来の彼に対しての絶望の同情で「涙」したが、今の≪涙≫はその涙の質が大きく異なり、その絶望の淵をさまよった心から脱却し、私達健常者に大きな「希望」を与えて頂いた感謝に「涙」するのです。
昨日、久しぶりの彼と談笑し、その中で明るく笑いが絶える事なく楽しい時間が過ごせた時、≪希望の星≫とは現実の世界に於いて、彼を指すと感慨深く思うのでした。

フッと想う!2010年11月14日
朝、いつもの競歩的ウォーキングしながらフッと今までの人生を振り返る想いが頭の中を通り抜けた。この65年間、オギャッと産声をあげそれからと言うもの、人とは違う生き様を続けてきたと。

グラグラと湯だった鉄瓶が自在鍵に釣り下がり、木炭が高温で真っ赤になった囲炉裏に、落とした頭を3分の1ほど焼いてしまった2歳未満、これからが波乱の人生の始まりと、そのスタートは、本当に今思えが「幸運」と言う他は無いと言えるのです。

自在鍵に釣り下がった鉄瓶、それは沸騰状態、くしくも頭部は囲炉裏の火で焼いてしまったが、その鉄瓶は何事も無かったようにただ落ちてしまった私の頭部を見つめていただけであった。

親が囲炉裏に落ちてしまった私を助かる際に、その鉄瓶はその様子をジッと見つめるだけで、親が動転しその自在鍵に触れ、外れることも無く、そして沸騰した湯が私の体に降り注ぐわけでもなく、その様子を他人事のように鉄瓶はただ傍観していた。

これが私の運命を大きく左右したスタートと思うのです。この沸騰していた湯が私の体に降りかかっていたならば今の私は存在しないと、今頃は草葉の影で静に下界を見下ろしていたでしょう。

「幸運さ」がこれから、生きて行く過程の中で更にその幸運を生む現象を作り上げたであろうかと、私なりの都合の良い論理で考えるのです。

人生波乱万丈だ!とその波乱万丈な人生も殆ど、苦しみを感じる事無く楽しんできた事は言うまでもありません。全てが「楽天、楽天」のノーテンキなのです。

同じ人生歩むなら、楽しく、楽しく、送ろうよ!とこれが私の人生観、そして合い言葉。
同じ65年、歩んできた同年代の方々と比較しても、その歩んだ不思議な体験の数、質とでも半端ではありません。なぜそんな事を自信を持っていえるか!見る角度によっては「自慢」としか映らないかも知れません。

余分な時間が誰よりも多く取れる所に要因がと、睡眠時間をとる量からそれは大きく異なるのです。記憶しているのは中学生からであっただろうと、それよりも以前かもしれません。
3時間〜4時間が今まで私が取ってきた睡眠時間です。8時間も睡眠をとる方と比較してもその65年間の差、は押して知るべしです。

その差はそれはそれは密度の濃い今までの人生、賜物でありより有意義に生きてきた証でもあり、また余分な事を行って来た現実でもあるのです。

バイクや四輪に触れての功罪、事故で壊した車やバイクの台数、怪我や生きるための行為で死に損ねた危機一髪、命を落としかねない寸前の極限状態体験数、山あり谷ありの経済的体験、それは壮絶極まりない「死を考えた窮地」、まだまだ上げたら切りが無い65年、そして
究極は61歳で人生のリセット、最初から出直し、仕切りなおしと、本来「トホホの人生」ですが、それを「トホホ」と思えないのが楽天人生なのです。

家を建てた数、飲んだ酒の量、所有したバイクの台数、壊した四輪車の台数、怪我や突発事件で体にメスを入れた数、とこれも半端ではありません。どれ一つ上げても小説のストーリーとしてテーマを上げられるものばかりです。

しかし、こんな功罪を含んだ体験も元を正せば全てが囲炉裏に落ちた際、沸騰した鉄瓶が体に降りかからなかった「幸運」がもたらした結果と、親が動転しても鉄瓶をひっくり返さなかった事に感謝なのです。

事実は自慢でなく「生きてきた軌跡」であり、それはなかなか成し得ない馬鹿げた現実でもあり得るのですが、65年間の何度も死に至る危機一髪回避、これは2歳児に得た「幸運」が全てをリンクしているとウォーキングしながら思うのでした。

この体験が人間とし、どんな事にも動じない?と言うか精神的弱さの鈍感さ!を生み出し、心のどん底であっても、どん底と思わないしぶとさを作り上げたと自負しています。
また何事も「感謝から始まるのだ」と我ながら悟ってその2文字、秘めしたためるのです
車の車検は・・・・少しマニアックなテーマですが
1995年7月1日、この日を境にして「改正道路運送車両法」が施工され、車検や点検整備に関しての制度が大きく変わったのです。

細かいところは沢山ありますが、私たち自家用車ユーザーにとって重要なところは

@定期点検項目の削減、簡素化
これまで義務付けられたいたのは6ヶ月、12ヶ月、24ヶ月の定期点検。
それが6ヶ月点検は義務付け廃止、12ヶ月と24ヶ月点検は、それそれの点検項目が大幅に削減。

A前検査、車検後整備の実施
法改正前は24ヶ月点検無しでは車検を受ける事は出来なかった。それが是正され
「24ヶ月点検を行う時期は、車検の前後は問わない」となり、点検せず先に車検を受けてその後に点検整備でも良くなったのです。

B車検有効期間の変更
新規登録から11年経過すると車検の有効期間が1年だったものが、11年以上のビンティージカーやクラッシックカーでも2年に延長されました。

その後も改正された箇所は多々ありますが、1995年を境にてユーザー車検が習得し易くなり、多くの方々が自分の車を陸運事務所に持ち込んで、自から車検を取るようになりました。

国もユーザー車検を奨励しようと言う方針で、ユーザーが自ら車検を受ける事で、日頃から車のメカニズムや安全性に関心を持ち、自分の車は自分で責任を持って管理すると言う意識を期待したのです。

我がバイクと四輪の拘りは以下の時代から始まりました。車検は当然、この当時からも行われており、自分の車、そして自分のバイクは常に「整備」と、このミッションがスタートです。

1957年からバイク三昧
http://www.ne.jp/asahi/azu/sin/gazou/baikureki.htm

四輪は1962年、17歳から
http://azusin1.fc2web.com/kurumareki/kurumareki.ht..

と気合を入れて二輪、四輪に触れそして整備し、その楽しさの醍醐味は「乗る」と言う行為以外に整備する事でした。

ユーザー車検が習得し易くなったのは1995年の7月からですが、私はそれ以前より陸運局に、自ら車を持ち込みし車検取得していた事です。その当時もしっかりと法令を遵守し、道路運送車両法に基づいての対応でした。

言うなればユーザー車検の習得者としての走りでした。

道路運送車両法の範囲内での扱い、車検はそれほど困難な事ではありません。
少し勉強すれば誰でも車検自体は簡単に受けられます。しかし、ユーザー車検であるからこそ、常日頃、自分の車はしっかりと整備!です。

その整備は・・・・怠ると重大なリスクを伴うことを忘れてはいけません。


前回の日記で
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2570232&oid=14051..

一寸誤解があるようですので、ユーザー車検のいきさつを記しました。またバイクについての思い入れ日記はこちらです。
特にハーレーについて、リクエストがありましたのでその思い入れです。
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2049056&oid=14051..

写真は長野県戸隠での「ツインピンクス」この内の1台が先日、11月9日に車検をユーザー車検で習得。
その時の時の法定費用、31800円、この他に自賠責保険料22470円が必要
61歳で離婚、63歳で結婚!
その後の人生、大変化です。全ての活き方が変わり一段とフッワーク軽くやる事成す事全てが楽しい。
過去の生き方は「亭主関白」よろしく、一切の家事などを触れたことも無く、台所に立った事、一度もありませんでした。
出たゴミをゴミ箱に入れようとそれがゴミ箱を外れ、部屋にゴミが落ちてもそれすら拾わず、全てがかみさんの役割と、自分で脱いだ靴下、果ては風呂に入る際、自分で脱いだウエァーなど、部屋に脱ぎっぱなし、そのまま放って置き、かみさんが後を追うように「拾って歩いた」と言う、上げ膳据え膳よろしく、ホンとに何もしない偉そうな亭主でありました。
ところがこれが大変身!
全てを自ら進んで行う活き方に方向転換したのです。過去の私には「ありえなぁ〜い」生き様に変わり、それも楽しんで家事全般を行うのです。
我ながら頭の回線が完全に「逆回り」したと感じる今日この頃です。家事と料理がこれほど楽しいものとは知りませんでした。掃除はやればやるほど綺麗になり、雑巾がけ、ハタキ掛け、掃除は電気掃除機使用ですが、朝早く「ゴォー、ゴォー」と音を出し家の隅々まで引きずり回してのクリーンを求めてのリフレッシュです。
1週間に2回、火曜日と金曜日に行われる「生ゴミ出し」その準備も生ゴミ、普通ゴミ、そしてリサイクルゴミと仕分けをしての分別、そのゴミも出す日が異なりそれそれの出す日を考えて、ゴミ袋に収める。
今の仕事が我が家で出来ると言う利点もあり、仕事と家事、いつも一緒、これも仕事の一つと割り切り60歳前の人生「こんな事、出切るかい!」と踏ん反り返り、威張っていた自分が、60歳を越すと同時に
こんな事、やるのが楽しい!に変わった自分を見て、あの当時とは「別人28号」に変身し、その自己を見て驚き!なのです。
元来、何でも器用にこなす能力を持ち合わせていた事も我ながら自覚し、ただ「何でも出切る」と言いつつ、前妻とは完全に分業化が図られ、私は山に獲物取り、かみさんは川に洗濯へ、と役割がはっきりし「専業主婦」と「仕事専用」に明確でした。
また私の場合、一切の家事に触れないという事に甘んじて生きていた事が60歳まででした。しかし、61歳で離婚、63歳で結婚は私を「一大奮起」させたのです。
このまま何もしないで自分の役割「仕事」だけの人生では「120歳生きられない」と自覚したのです。
今までと違う活き方に変えようと、何でも積極的に行いそのリズムを掴もうと行動を起こし、そのリズムさえ日常的に習慣化させれば後は水の流れる如くと・・・
自ら掲げた一大方向転換姿勢、それから5年が経過ししっかりとリズムとして定着、もうこうなるとこっちのもの、何のためらいも無く完全に主夫専業化で毎日の経過です。
朝起きると朝刊取り、そして雨戸の開放、洗濯機のスイッチオン、前日の食器洗浄器から取り出したものをダイニングケースに収納と、それはそれは休む暇なく、次から次へと頭に湧き出てフットワーク軽く、湧き出た事を即実行と移すのです。
若いかみさんが考える前に全て、私が行動です。ただ作業は早いのですが、少し「雑」が難点で、その辺の修正は、かみさんの役割、チエックして手を入れます。
何事もそうですが、嫌々ながらの行動は精神上衛生的ではありません。楽しんでの行為は脳の活性化に役立てる効用が働き、それは願っても無いことであり、私の本分とするところでもあるのです。
この裏には秘めたものがあり、かみさんの美しさを保って欲しいとその願いも込めた行動でもあるのです。
日記にも詳細が歳を離れたかみさんとのいきさつを記していますが、それは私の喜びでもあり楽しさでもあるのです。
食器洗剤でガサガサに荒れた手を見たくない、と言う私の要求であり、色白かみさんの白魚のような手を、その美を、破壊させて欲しくないと言う願いを秘め、その美しさを保って欲しいと私の願望がそうさせているのです。
その美を保つ!全てに於いて私の行動が役に立つのであれば積極的に専業主夫と言われ様が一向に気にせず、私自信が楽しんでその役割に没頭できるのです。

かみさんが思いを一途にして「待った甲斐があった」とその償いの一つとして、また私が120歳生きる手段の一つとして捉えたならば、それは一挙両得とこれほどに嬉しく、楽しく行動が果たせる事に感謝するのです。
これも考え方で行動が180度変化する具象の一つと、見たとき、人は変われるものなのだ!とうなずくのです。
さぁ金曜日、今日の新聞の折込を見てまずスーパーの広告と睨めっこ、何処のスーパーが安いか、値段の比較チエックです。
これも毎日の専業主夫の大きな役割で楽しみです。それを見ながらの夕飯の献立が決まります。
これも頭の体操、私のような生活に挑戦、も脳の活性に効果抜群!ただ楽しみながらやる事が大前提と。
人が「ホッ」とする瞬間!2010年11月11日
ユーザー車検、貴方はご自分の車両をどの様にして車検を習得していますか?
1980年から自分が所有するバイク、四輪車は全て自分で陸運事務所に持ち込みユーザー車検を受けています。
現在こそユーザー車検と言いますとメジャーな手法となりましたが、1980年の頃はまだまだ「邪魔者扱い」でした。

当時の陸運事務所は「車検は修理業者、またはデーラーが持ち込むものが当たり前」と言う意識でしたので、その陸運事務所の検査官は私のような若造は、何で素人が検査場でうろうろするんだよ!とそのぶしつけな態度が丸出しでした。

それでも基準に合えば文句のつけようがありませんので、そんな彼らの態度を目の当たりにしても、しっかりと「前整備」で、ケチのつけようが無い状態にして車検場に持ち込んだお陰で、車検が通らないという事なく全て合格でした。

この様な事を1980年から2010年のこの月、11月まで繰り返し、更に今後も続けますが9日は1993年製の「ポルシェの車検」を受けたのです。

前日にはいつもながら、車検整備の為のチエックを行いその備えで1日、費やしましたがこれも久しぶりの私にとっては「癒しの時間」でした。

このポルシェ、最後のかえる顔「911」で、私に嫁いだのは2002年の4月で、当初、同じ色で同じ形で「まるっきり同じもの」がもう一台を所有していたのです。

色に特徴あるピンクですが、この色、多くの方がご存知の「芝桜色」で、それは鮮やかな色です。
春になると最近は町おこしで「芝桜公園」があっちこっちに開園し、その艶やかな色に魅了され沢山の観光客が訪れて春の風物詩となっています。

その艶やかな色「芝桜色」です。これはポルシェ純正色ですが、新車が出た1993年当時のカタログには無く、特注色限定版でした。

この色艶やかなポルシェ、同じもの2台所有し、物好きにも程がある!と人は言いましたがそして登録番号も「ら911」と「り911」で、指定ナンバーの恩恵を受けて「ら」と「り」の続き番号を付けたのです。

2台共に1人目の所有者は女性で、一人は神戸にお住まいの社長さんの奥さんが、もう1台は都内で水商売をされていたマダムが所有していました。2台、それはそれは新車同然で「綺麗」で走行`数も2万`以内でした。

2台を所有した大きな理由があるのです。友人で私の趣味を追いかけて、何でもすぐ私のマネをする「独身貴族」が居ましてその豊かな独身に分けて上げる事が目的でした。

同じ特徴があり性能に差が無く、使用感も無いと言う「普段、滅多にお目にかかれない出物」をその彼に渡してその2台でランディブーツーリングをする事を目的で入手したのです。

彼はまんまと私の作戦に嵌り、その1台はその彼が所有する事になったのです。彼はその車を紹介した時、飛び上がるばかりに「大喜び」で、彼のナンバーは「ら911」そして私のナンバーは「り911」で、見た目もナンバーもまるっきり同じ車両が2台、それは何処に行ってもその2台でツーリング、とても目立ちました。

この目立つ車、大変神経を使います。色に特徴がありどうしても人々の目に飛び込んでしまい、乗っているときの服装、仕草、品良く動作を行いませんと「破廉恥」となり、笑いの種になることは申すまでもありません。

高速道路のサービスエリアで、降りる際には要注意です。見たくなくても色の特徴で目に入り、フアッションや仕草はそのイメージと合致しませんと、陰口叩かれるのが「落ち」なのです。

これが2台となるとそれは視線がきついのでした。そんな思い出の2台、その内の1台、り911の車検をユーザー車検で9日、習得したのです。

朝一番、8時30分には陸運事務所に到着し、書類作成や手続きを済ませて「検査ライン」に9時に入りました。自動検査ラインは4コースあり、その自動コースは検査官のチエック待ちの車両が列を成していましたが、私は自動では無いコースを選んでのラインに入り、そこで検査官目視検査を受け、サイドスリップ、ブレーキ、排ガス、ブレーキ、ライト、そして下回り検査と全てをクリアし、検査終了の印を検査官より頂いて「合格」でした。

目視検査の際に「新米検査官」であったためにエンジン番号が何処に刻印されているか分らず、他の検査官が集まってきてその刻印探しに翻弄されていましたが、ベテラン検査官が「ここだよ」と指を差し、OKとなった次第です。

しかし、その新米検査官は親切で、検査が終了するまで私に付きっ切りで色々と手助けをして頂きました。それは大助かりで最後に「感謝」で謝意を述べてきました。
謝意を述べるとポルシェの持込は数が少なく私の車が良い勉強になりましたと、逆に「ありがとうございました」と言われてしまいました。

嬉しい検査官の言葉に「ホッ」とし、合格書類を受付に提出、2年間有効の車検証を頂きその検査場を後にしました。
たかが日記ごとで笑っちゃうよ!
還暦5年生の「一寸悪そうオヤジ」は自分の生き様を好き勝手に記しているが、この毎日の日記、いつのまにやら「癖」になり、しかし、この「癖」が曲者でこれは余り良き習慣と居えないと最近、気付くのです。

脳は常に非日常的な活動がどれほど「脳の活性化」に役に立つか計り知れないのです。
毎日の規則正しい繰り返しは他の脳の部分を活かさない!事に結びつき決して脳には良くないと、ある脳神経の医学者が語っていました。
几帳面に毎日、同じ事を繰り返し、その几帳面さを自慢にするような方は時に気を付けねばならないと、「エッ」と思いましたが、誰でもそれはごく普通に納得される事と思います。

それは本当に脳の一部分のみが働き、それ以外は「お休み状態」と言うことです。更に60歳以降の脳についての良き事柄は後日に回して

この日記「一喜一憂するこの愚かさ」

私の場合、自分の生活記録とその思考を記す事が日記とそして広辞苑の解説が元で、ただ淡々と書くことを専念し、またそれが私にとり脳に有益と思うのです。

MFの皆様の多くも同様と思えます。時間が許す限りMFの方々の日記を読み、読んだ後には必ず「拍手」の癖が付いていますが、ただ政治的傾向が強い内容には、スルーする場合が多いですが、それ以外は殆ど読んでいます。

読む大半の方々は広辞苑の解説に準じた「日記の概念」で記されていますので大変、読み応えもあり考え方として「なるほど」と感心してしまう事、度々です。

日記ランキングで一喜一憂しそれにパワーを使い果たす方も見受けるようですが、これには笑っちゃいます。ただそれは会員数35万人の趣味人倶楽部の鼻くそ程度の「極僅か」と他人様の日記より伺い知りました。ランキングには過去より関心無く、ただ訪問数が多くなったなぁ〜の感覚です。またメールで知らせて頂いて分る程度です。

元来、日記は自分の事を書くものと思うものには誰が覗こうが知る由もありません。
ただ「足跡」はしっかりと把握しそして記録、始めて訪れた我がサイトへの訪問者にはページが飛んで仕舞わない限り「訪問御礼」のメールまたはその相手の掲示板にスレッドと言う「癖」をつけています。

その把握&記録を見ていくと訪れる多くの方がリピーターかなと、私の年齢が還暦5年生、過去の生き様を、プロフィールを、覗いて頂き共感したり共有できる方は「何度でも訪れる」のですが、ギブアップ!ととても同類の水準には無理と感じる方は、再度の訪問は無しと考えるのが自然と思えると同時に訪問記録もそれを物語っています。

私の大いなる関心ごとは「どの方が訪問したか」そのバンドルネームに一番の関心を寄せるのです。

日記ランキングに一喜一憂ほど「馬鹿げている」と言う思いは強いのでそのランキングはどの様な傾向かは知る由もありません。ただ「訪問された方々」には大変、関心がありその訪問された方々の分析が重要とし一喜一憂しています。

訪れた方々の「バンドルネームのチエックマーク」に強い関心、そしてその反転した文字を見て、この方は「始めての訪問者」と、その返礼にエネルギーを費やすのです。

私自身もそして、私のサイトを覗いて頂いた方々の実像そのものを、そして今まで歩んできた生き様がどうか?
にウエイトを置くことが重要と考え、その返礼の方のプロフィールも覗いて如何かなと関心を寄せ記しています。

私の日記、特に健全健康面はその積み重ねとし、その基準は体が出来上がった高校三年生の体型が理想と、その理想を思い見つめての健康体つくり、その顕著さを見るのはこれが一番有効としています。

これは見た目にも一番顕著と、今の体を鏡に写し、その高校三年生当時を思い起こして「見比べる」これが一番、分り易いのです。

ブザマな体型、トドかアザラシ型であるならば、一寸待てよ!健康面を考えて、そうなるであろうと想像するのです。男女限らず、あの高校三年当時の「美しい肉体は?」何処に行ってしまったんだろうと・・・・

ただ細ければ良いと言うものではありません。
体重、身長に対しての「筋肉量」「骨量」「体内脂肪」「体脂肪」などのバランスの取れた割合が大前提!です。

最近は1万円前後でこれらの数値の目安を推し量れる体重計が売られており、風呂上りに自分で測れます。

日記や訪問数に一喜一憂は「笑っちゃう」ですが、それよりも自分の実像の軌跡とそして現在の自分は如何かな!とこの事が重要とこれは私の考えであり思想です。

訪問返礼でも最近は「正体不明」の方は殆どがスルーパスで、実像がある程度把握できる方のみに返礼は行っています。

ネットの世界は偶像と、実態実像は表に出さない事が常識?この思考について、なかなか符合できず、ネットの常識を覆しつい実態を暴露してしまう還暦5年生です。
本当の人生は60歳から!
このフレーズは本日発売の「週間現代」の新聞広告から失敬したものです。
この言葉は裏返しますと、この趣味人倶楽部に於いて私のサイトへ訪れ、何らかの足跡を残した接点の御礼の言葉


『何らかの足跡!には必ずご返礼させて頂いてます
人生120歳、120歳、60歳は人生の折り返し地点セカンドステージ青春第2章!と考え、食べ過ぎない、欲かき過ぎない、ものぐさしないは「長生き人生訓」と唱え実践中。人生は楽天、楽天思想で健康に留意し楽しく「熟成期」の青春第二章を歩みましょう。と言っても・・・・』


常々述べている
60歳からは青春第2章へのスタートと言い続けている事と符号し、私自身、本当の人生熟成期!と思っています。
人生120歳!120歳!は学説的に裏づけがあり日記でも何度か触れていますのでここでは省きますが、ただ条件は「健全健康」である、これに尽きるのです。

昨日の健康に関しての日記「胃カメラを飲んだ!」
で沢山の拍手とコメント、その数を見ても反響は大きく、それぞれの自身についての「体への関心強さ」を映し出していると解釈できます。

120歳まで生きられる命、せっかく与えられたその生命を無駄にするなかれ!と
生活上、健康に悪影響を与え、一引き二引きと差し引かれてしまう体への悪影響を排除すれば、健全健康は維持できそして学説的に証明されている数値、120歳まで生きられると信じるのです。

なぜ60歳から?それは60歳にならなくても気が付いた時から「消去法を避ける」生活習慣を身につければ良い事です。

自分の裸の体を鏡に写しだした時、高校生の時代は如何であったであろうかと、そして現代は・・・
そんな思考で案ずれば何をすべきかは一目瞭然です。

人生セカンドステージの始まり、青春第二章の幕開け!
還暦をお迎えの貴方、そして還暦5年生でも10年生でも、またこれから還暦を迎えようとする貴方、このフレーズをぜひどこか頭の隅にインプットと。

この様な表記をすると必ず否定思考の方が存在し、それはその人の考えで至極当然、共有などを求めてはいません。

しかし、人は考えた方向に進む事は間違いありません。70歳や80歳で「死んでもいいや」と思っている方は、その方角に進み、120歳生きられるはずがその思考停止で「ご臨終」です。お気の毒様と言いようが無く「合掌」です。

思考停止とネガティブの発想は大嫌い!で、生理的に馴染めない体質を持ち合わせ、暗い発想はご遠慮こうむると明快な考えです。
日記に於いてもこのネガティブで思考停止の方は、一度私の日記を覗いて「何を言っているんだ!」と感じ、二度と近づかないのではないかと想像いたします。

私はその思考停止やネガティブ思想を排除したい、といつも思っていますので、近寄らない、それはごもっともな事と、思考が停止し新しい発想に結びつかず理解出来ないと思うからです。来るもの拒まず、去るもの追わず!でそんな方が自ら離れていく事は大歓迎です。

青春第二章の幕開け!
このフレーズはこれから新しい世界が開けるとどこか希望と未来に夢が広がるという「楽しい発想の起点」とし、60歳からの人生熟成期に突入を意味しています。

20歳代30歳代は「人生100歳、100歳」の思想でしたが、その学説的に人間は120歳まで生きられる!と言う解いた文献に39歳の時に出会ってから「人生120歳、120歳」に変換しました。

その思考は自然と自分の生き様と合わせて展開です。健康管理も人生観も全てがその「起点」です。61歳で離婚、63歳で結婚と・・・
離婚で全てを失って「ゼロからのスタート」は61歳、青春第二のスタートを地で行っているのです。
健康も1引き、2引きと消去法に引っかからないように務めて毎日を送る努力を、そして何しろ明るく楽天思想です。

60歳からは「ゼロからのスタート」でも悲壮感など、希望に満ちて楽しい青春第二章のスタートなのです。
私の日記は全てが「実践集」で、現実に起きている事また起きた事しか記せないのです。

暗くて思考停止したネガテイブ思想は大嫌いですが、しかし、未来が開ける明るい思考、思想は「大歓迎」です。

週刊誌が朝刊の宣伝掲載「広告フレーズ」これを見て、常日頃の訴えが我が思想と一緒と思わず手を叩いたのです。

日記には必ずと出てくる「人は考え方で進む道を決めてしまう」と、短く生きたいと言う思想は必ず、その短く生きる道に進んでしまうと、せっかくの人生、楽しく健康健全な体で、そして健全な精神で・・・・・
学説的に120歳まで生きられるのです。その生きられる命、自ら破棄に等しい事を行って、それは「もったいない」と思うのです。
そのもったいない大切さ、失うことなく「消去法の事柄」を少しでも減らし、良き生活習慣を身につけて過ごす努力を!と思うのです。
久しぶりの胃カメラ飲んだ!

今から8年前、胃の検査で「胃カメラ」を飲み、苦しい思いをした経験があり、二度と胃カメラなどを飲むまい!と心に決めていましたが、一寸、気になった事があるので、久しぶりにその「検査」を行こうと過去の8年前に訪れた病院に出かけました。

私の主治医である医者は、8年前まだ院長でしたが、それから出世して「理事長」に納まっていました。

もっともその院長はやり手のお医者さん。40歳そこそこでその病院を開設し、現在58歳、その間、その病院はもとより、その関連病院を10数箇所、その病院の周辺地域に出店よろしく、医院を開いています。

医者と言うより事業家で、久しぶりに訪れたその病院、それは8年前とは比べ物にならないほどの「待合室で待つ患者さんの数」にも驚き!でした。

これほどの方々が訪れているとは知らず、予約もせずの来院、久しぶりの外来診察は終了するのが午後2時となってしまいました。

その日に胃カメラを飲む予約し後日、検査日となったのですがその当日検査日が5日の金曜日。

前置きはこの程度で、その胃カメラですが、8年前とは大きく変化し、そのカメラを鼻の穴から通し、胃や十二腸に落として行くようで、カメラのケーブルも鼻に入るくらい細くなり、体への挿入はすごく楽になったという事を事前に聞いていましたので、安心してその当日、医者の支持通り、ベットに横たわりました。

少し緊張し、鼻や喉に麻酔薬をたらし、僅かに時間を置いての本番です。鼻にはテストパイプが通され、カメラの太さにその鼻が耐えられるか否かのチエックです。

そのテストパイプは痛むことなくスムーズインと、そして鼻の穴に細くなったカメラケーブルの挿入です。

お医者さんも慎重に鼻へ挿入です、が、その鼻にケーブルは5cmも入ったでしょうか、先端が鼻の奥に突き刺さるように「痛い!」のです。

思わずイテッ〜と声を上げてしましいました。その声に挿入していた医者の手は止まり、鼻からの挿入は止めて「口からの挿入に変更」となるのです。

私の鼻の入り口は大きいのですが、中が狭いようで無理して挿入し、鼻の中を傷をつけて粘膜に異常を起こしてはいけないと言う理由で、口からの挿入で変更です。

そういえば、高校生の頃、耳鼻科の先生に「萎縮性鼻炎」と診断された事があるなぁと、もしかしたら当時に鼻の通路は狭くなってしまったのだろうかと危惧しましたが、今まで何の症状も無いので過去の事は気にも止めず、カメラは口からの挿入へと進むのです。

8年前、まだ胃カメラのケーブルは20ミリ程の太さだったでしょうか、このカメラを飲むに当たり、なかなか入って行かず、それは苦しい思いをした記憶が蘇りました。飲むのに苦労したと同時に、飲んだ後に「胃に痛み」が伴い、その痛さも苦しみの一つでした。

今回はその太さも、鼻の穴に通すくらいだから、4ミリも無いのかなと思いながら、口から通されました。それはそれは8年前と大違い、まるで「うどんを飲み込むように」にスムースに喉を通るのです。

時おり、カメラのシャッターが落ちる音「パシャッ」とするくらいで、体は拒否反応を示す事無く「パシャッ、パシャッ」と音を発して、以前よりも綿密に数多くの写真を撮影して、胃カメラ飲み込み検査は終了でした。

スグに検査室から診察室に移動し、主治医はその写真を見ながら、何処にも不都合の箇所はありませんと、私もその写真を見て、少し色の異なる部分に疑問と質問をし、その答えに納得、還暦5年生は「ホッ」と胸をなでおろすのでした。

これも常日頃の健全健康意識、良き生活習慣の賜物と自負するのでした。

24日はまた同じ先生の下で「腸検査」で、今度はお尻からカメラ挿入。これも8年前に行っただけ、何の不都合も生じていませんが「病気にならない為の手段の一つ」と捉えての定期検査かなと思うです。

ぜひこれをご覧になった方、胃カメラの技術は進歩し、本来なら「鼻から挿入」のがズッと楽チンのようですが、時に私の様に鼻の奥が狭い理由で、口から挿入変更の場合もあるようです。

口からでも以前より、すごく楽チンです。病気にならない為の手段!と割り切り定期検査をお勧めです。

以前よりも5分の1の太さになったカメラケーブル、楽チン、楽チン、「胃カメラの体験」でした。
薬は毒!男性指定席症は毒な薬を飲まず「完治」2010年11月05日
医者の処方箋、その飲み薬りは「毒」と捉えて、一切飲まない!

「薬は医者の為にあるもの」、病院経営上の必要悪と、患者が本当に欲している飲み薬は、ほんの僅かと思わざるを得ないこのご時世の、医者の感性と私は思っています。

定期的な人間ドック等の検査でドック入り以外、病気を発症する事無く、今日まで来ました。その間、風邪などの点滴、注射以外は、医者が処方し出される飲み薬は飲んだことがありません。

だからと言って「薬は不要です」と、医者の前ではなかなか言えず、言われたとおりに素直にその薬は受けますが、全てゴミ箱行き!と徹底しているのです。

私の場合、その薬は根っから「毒」と決め付け、必ず副作用があると信じ込んでいるのです。

誰でも経験があるでしょうが、何かの処方で薬が出る場合、必ず「胃腸薬」が付いて来ます。
これは本来、必要とされる薬以外であり、その薬を飲むことにより、胃が荒れてしまい、その胃が荒れる副作用防止とし出されている場合が多いのです。

基本的に「薬は毒」であり、また薬は「免疫力の低下を招く」役割を果たし、そして飲むことにより肝臓に過大な負担をすると常々、思っています。

私の場合、常日頃、医者にお世話にならない為にはどう毎日を過ごせば良いか!とその健康維持には人一倍、色々と実践して、努力を怠り無く続けています。

その一環として処方箋の薬は絶対飲まない!に徹した生活を続け、病気の兆しも無く、至って健康健全な生活が成り立っています。

体の疾患で病院に通う理由が生じ、何らかの症状が現れた時、また、症状が現れなくても、その疑い!であっても、スグ医者は親切に薬を出します。

そんな時、医者に薬は不要です!とでも言ったならばその医者は不機嫌極まりない態度を表します。もう二度とこの医者がいる病院へは行きたくない、行かないと言う気になってしまいます。

多くの方々はそのようにならない為に、医者の言うことは素直に聞いているのが、弱い立場である患者としての真の姿と思うのです。

動物は体に異常を来たし、不都合が生じた時、飲まず食わずで数日間はジッとして体を動かさず、その治癒力で治してしまいます。

人間は動物と同じわけにはいきません。医者と言う専門的な知識を持った方が存在するので、そのところに通って治して貰う方法をとり、これ極々当然です。

ただその医者に処方箋より出される飲み薬は、私に限って、全てが「ゴミ箱に直行」で現在に至っています。

8年前の事、排尿に不都合が生じ医者に診てもらう事にしました。
その時に男性特有の男性指定席発症「前立腺肥大」と診断され、その時の処方箋で、医者曰く、前立腺は男性だけが機能しているパーツ、男性特有の症状「この薬は一生、付き合って飲み続けねばなりません」と、症状は重症に近く、トイレの前でなかなか排尿が出来ず、大変、時間がかかりました。また時々「痛みを生じた」こと度々でした。

しかし、薬をこれから死ぬまで飲むなど、とても私は否定的に捉えてそれから色々と文献を漁り、それを克服できる方法を見つけました。

その後、その方法をとり続けた結果、現在は前立腺肥大は「完治」です。
排尿は20歳代に蘇生し、至って順調です。しかし、「その過程」でアルコール類は決してプラスにならないことを悟り、酒は百薬の長、から、百害あって一利なし!のスタンスに大変換しました。

薬は毒!と医者に処方された飲み薬は飲まない。

今後もこのスタンスは維持してより免疫力を高める食生活習慣の徹底と思うのです。

ジョンレノンの定宿2010年11月04日
11月3日、今日は文化の日、天気は全国的に晴天となり朝からスカッと久しぶりの雲ひとつ無い青空です。
かみさんと明日は何処に行こうかと、何も決めず寝てしまい「朝のウォーキング」で、すがすがしい朝の空気を吸いながら、何処に行くか何も決めていなかったことを思い出し、思案にくれるウォーキングです。
あと2ヶ月で1年が終わってしまいます。この1月から10月の10ヶ月間、振り返りますと今年も随分、アッチコッチとお出かけしました。
日記記録もありましたが、多くは写真のみ記録で思いを留めて、そのアルバムも整理を見過ごしてしまいますと、それは大変、未整理写真が一気に山と化し、整理棚が見るも無残となってしまいます。
今回も何処に行こうかと何も決めず朝を迎えましたが、又しても、悩んだら軽井沢!と、その秋を楽しむ「軽井沢」行きとなったのです。
家から100`弱、高速道路使用で1時間、一寸散歩!としゃれ込んで、定番の軽井沢です。
久しぶりの晴天で高速道路ETC1000円活用により「さぞかし混んでいるだろう」と予想しましたが、花園インターのゲートを過ぎ、高速道路上に車を踏み入れるとそれは意外や意外!驚きの車の量の少なさだったのです。
渋滞と言う現象も一切、体験する事も無く、軽井沢インターのゲートを抜け旧軽井沢銀座方面に車は向いました。
標高1200メートルのこの地、紅葉は一番の見所時期、周辺の落葉樹の殆どが秋の色を放ち、太陽に照らされたそれぞれ、自然のままに色づいた木々の葉は、見事な極彩色で人々の目を楽しませてくれるのです。
軽井沢インターからメジャーな道を車は走り、目的地である「万平ホテル」に到着です。
この夏にも訪れましたが、夏の真っ盛り、シーズン中と言う時期がそうさせたのでしょう、その時、人でごった返し大変、混み合っていました。
その時の喧騒が「嘘」のよう、人が少なく寂しいと言うほどではありませんが、ゆったりとそのカフェテラスで時の去るのを会話とコーヒータイムで過ごすには、それは、それは、ベストと2人でニンマリでした。
ホテルの周辺の環境、自然豊かで、ビートルズのジョンレノンが定宿としていた事で有名であるのは万人の周知の事実、その自然の林の中のホテル、紅葉は「見事」と言う他表現のしようもありません。
思い出せばまだかみさんと知り合った20年前の夏、このカフェテラスで「お茶をした記憶」が蘇るのです。大学を出て間もなくの頃、まだ初々しく幼き顔の面影を残したお嬢さん、と呼ぶに相応しいその頃を・・・・
当時、このお嬢さんと沢山のストリーが創られるなぞ、夢にも思わなかったあの頃、今日のカフェテラスでかみさんを目の前にし、走馬灯のごとく時代の流れが頭をよぎるのです。
振り返る20年、言葉では一言ですが色々とあったなぁ〜と、しかし、そんな事を知ってか知らずか、かみさんは「今食べているケーキ、どぢらが美味しい?」と味の吟味に大忙しでした。
過去のことを生半可に言うのは我が家は禁物、タブーと、それは20年も時間が経過しての結婚は「私の弱み」であり、私自身も触れたくない部分となり、それはやぶ蛇!で、喧嘩の要因にもなるからです。
私自身の頭の中をよぎるだけにし、そのケーキの美味しさに会話は弾むのでした。こっちのケーキの方が美味しい!よと。
私が食している「アップルパイ」信州りんごたっぷりのホテル伝統の一品。パイ皮とレーズンの香ばしさがアクセントと。
しかしかみさん曰くこちらの「松の実タルト」松の実をふんだんに散りばめて、丁寧に焼き上げたおなじみのタルトの方が美味しいと。
我が家では何を食するにも必ず「別のものをご注文」で、必ず異なるものを頼むのが慣習となっています。
それは必ず、2種類以上のものが2人で「味を楽しめる」からです。
一人が半分食し、途中で「交換」、味を確かめ合う事が出来、二種類のメニューが頂けるのに等しいのです。
今回もその慣習通り、途中で交換し仲良くその味を吟味するのですが、私のアップルパイはこの万平ホテルの伝統の味、信州リンゴをふんだんに使用しボリュムタップリ、勿論、アップルの香とパイ独特の舌の感触は、どうしてどうしてと嬉しい味です。
かみさん注文の「松の実タルト」は、見た目が少し小さいがその味は、アップルパイよりも「味に深みとこく」があり、また松葉の実が独特の歯ごたえを楽しませるのです。
おお〜!とその2つのメニューの味比べ、かみさん注文の「松の実タルト」に軍配が上がるのでした。そんな楽しみをしている内に何処からか、聞き慣れない言葉が聞こえて来ました。中国語?
すごいチャイナパワー、この万平ホテルにもご家族4人様ご一行が訪れていました。
多くの方は「ジョンレノンの定宿」に魅了され、その佇まいの歴史的魅力も一つで「青い目の外人客も多い」世界に名だたる万平ホテルと何時もながら痛感致します。
歴史的建造物「万平ホテル」正面
カフェテラスのケーキセット
カフェテラスの窓越しから見る紅葉
一番の関心ごとは?体型は?2010年11月02日
今、貴方の一番関心ごとは何?と聞かれたら何と答えるだろうか。

関心のあることは山のようにあり、どれを選んだら良いか計り知れないのですが、私の場合は、やはり健康かなぁ〜と答えるでしょう。

その健康ですが過去の日記でも書き記し、その反響はそれぞれと大変多かったのですが、

酒は百薬の長!から一転して
酒は百害あって一利なし!に大変換を記した事がありました。
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2352316&oid=14051..

元来、大酒飲みの家系で、私自身、一晩に一升瓶やサントリーリザーブの1本、平気で空けてしまうほど、酒に対して嫌いではなく、良く飲んでいた事実を書いた事がありました。

それがいつの間にやら、人間関係の為に飲む機会を除いて、日常的にはその習慣は排除し、殆ど飲まなくってしまいました。

ただ一滴も飲まない、と言う訳ではなく、一週間に2回ほどと言う感覚での飲み方です。

殆ど酒は百害あって一利なし!を実践に等しい方法を行っているのですが、そんな僅かな飲料であってもその夜や翌日の体脂肪、内臓脂肪の数値は顕著に変化の兆しを見せるのです。

お酒を飲むとき「酒の肴」がありませんとそのお酒を飲む事が出来ないタイプで、どうしてもその「酒の肴」を沢山食べてしまう傾向があり、その結果、体脂肪や内臓脂肪が変化をもたらすのです。

酒ばかりでなくそのツマミ類が変化の要因である事も確かですが、しかし、その要因の多くはアルコールがそうさせてしまうのです。

アルコールは栄養価も高く、カロリーも高い数値を示し、これを飲む習慣性化は危険!と察知し、徐々に「飲む頻度、飲む量」を少なくして現在に至りました。

酒は肝臓にも大きな負担を掛け、毎日飲み続けていた当時は、その肝臓機能低下が体に異常な変化の危険信号を発していた事も、酒を飲む頻度のセーブの役割を果たしました。

そんな経緯を踏まえ、今までの自分で歩んできた過去を振り返ると、どうしても関心は「健康」を一番に上げるのが自然と思います。

還暦5年生は
病にならない為の活き方、医者のお世話にならない為の生活に、関心と共にその生活習慣を身につける方策を常々考える事、そして実践と思うのです。

妙薬、口に苦し!で確かに「体に良い」といわれるような食べ物はある程度の「慣れ」が訪れるまで、不味い(まずい)のは事実、しかしそれを克服すれば必ずや良い効果を何らかの健康バロメーターが示すと信じています。

31日の夜9時からのNHKスペシャル「痴呆とアルツハイマー」についての番組に於いても、生活習慣病が大きな原因で「アルツハイマー発症」を伝えていましたが、それには食生活と、この毎日の食生活こそが大きなキーワード、そしてその全てが起因すると誰でも分っておりその明白さもありとあらゆる情報物で報じています。

この食生活に関心が行くのです。高血圧、糖尿病、高血種機能障害、等の生活習慣病防止はどうすべきかと関心は高まるのです。

そして一番の関心ごと、健全健康を維持していくにはどうすれば良いかに、そして医者のお世話にならない方法と、その一点に引き寄せられます。

もうこれだ!と免疫力を上げる為の食生活へと進み、免疫とは

『外敵から身を守るために身体に備わった自然治癒力』と、これに徹した食生活を習慣的に行うことが

医者の世話にならない方法と思っています。これは長年の実践記録
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2326867&oid=14051..

玄米などは確かに「食べなれないと不味い」のは事実、しかし、口の中に入れたものを30回も噛み砕けば、これは甘みが出てきて「美味しい」となります。

これこそが「妙薬口に苦し」の一例でしょうか・・・・

長年の実践は全てがベストと、それは健全健康のバロメーター「人間ドッグ、脳ドッグ数値」に悪い所なしです。

目に於いても、雨の夜の自動車運転以外は「眼鏡なし」と、細かい事典、辞書等の文字も一切『眼鏡なし』です。

これは自分自身が健康に関心を示し、体に良くないことは極力排除の生活に務めてきた、還暦5年生の「勲章」です。

私のような凡人が実践しています。誰でも出来る事で「良いことは真似」が一番し易いのでぜひ、とお勧めです。

病気になっちゃお終いよ!
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2045466&oid=14051..

健康を考えた時、いつも思うことは
俺の、私の、高校生時代の体型は如何であっただろうか?
男女問わず1940年代に排出した世代は、どうであったか、振り返るとその比較に、風呂で鏡に写し出された肉体を見て驚愕!です。

当時と比較し一時期、無様な姿でしたが、健康に気を使うようになり、私の現在の体重は「5キロ増し」で、その時代に回帰しています。

しかし、ニュートンの法則による「たるみ現象」で、肌の張り、艶、は間違いなく「下降」です。
仲間は財産2010年11月01日
奥鬼怒川温泉郷の紅葉は今が最高潮!

10月30〜31日の2日間、ハーレーダビットソン同好会「晴旅人尊塾」のツーリングでした。

本来なら晴天のバイクでの走行、最高のリフレッシュと言うところですが今回、あいにくの台風とマッチング、2日間は「強い雨が降る」と予報され、実際、30日は朝から「強い雨」でした。

そんな天候時、さすが二輪車と言う訳にもいかず、四輪車に於いての≪旅≫でした。26年間、この倶楽部を設立した、初めての二輪車から四輪車に変更でした。

30日集合地「花園」にての天候はドシャブリ雨状態、そこへ時間通りに集ったメンメンは口々に、すごい雨、二輪じゃカッパも大して役立たず「四輪でよかった〜」と、しかし、雨でも二輪と常々言葉を吐いている私にとってそれは複雑な思いです。

軽いミーティングを済ませ、すぐ目的地に向って出発ですが、この雨の威勢は衰えず、さすが私もその≪考え≫にはギブアップで、こんな時は「寒さ」や「路面の滑り」で体が硬くなり「危険!」と、そしてこの降りではみんなの意見に賛同し、認める事そうろうなり、でした。

お昼の食事は、日光カントリー倶楽部前から入る抜け道の途中に位置する「小百合舎そば」で取る事にしたのですが、大変マイナーな場所に関わらず、地元ナンバーの車が沢山、駐車し、この雨に!驚きでした。

聞くところによると個人経営蕎麦屋さんではなく、蕎麦生産農家の共同事業で、その家族やおばさんたちが数多く働き、運営していました。

余り、味には期待?とても無理だろうと思いながら、全員が大盛りを注文しまもなくそれがテーブルに運ばれ、それ見て「ビックリ」・・・・
何と量の多い事、それはそれは長野の蕎麦屋で出される「大盛りの2倍」の量、チョット食べきれない「量」で本当にビックリ仰天!でした。

味・・・・それはあっちこっと美味しい蕎麦情報が入手しスグ食べに行く、と言う者には、どうしても「インプットされているわが蕎麦味」と比較し、イマイチと言うほうが正しいかなと心の中で思うのでした。

昼食をとり、その後、鬼怒川温泉、川治ダム、川俣湖と車を走らせて来ると、その湖周辺は紅葉の真っ只中、一気に雨に濡れた落葉樹の表面が、美しくフラットな光を耀き、濡れた面をより一層、綺麗に際立たせその美しさを放つのです。

到着した宿周辺、秋一番の旬と、更にその美しさは絶好調そのもの雰囲気をただよせていたのです。

雨が強いのでその後は部屋に入り、まづは乾杯と皆で杯を交わし1日の楽しかった談義にそれぞれが熱中するのでした。

毎度のセオリーは宴会前の宴会、そして風呂へ、更には宴会本番、その後、又しても部屋に集まり2次会と予定の「式次第」は進み、1日を閉じるのです。

翌朝、朝一番、気持ちの良い「露天風呂」です。

昨日の大雨は嘘のよう、昨夜は傘を差しての露天風呂でしたが、今朝はその雨、どこへやら、曇天ではあるが「雨無し」で、お決まりの露天撮影会です。

これも旅の思い出シリーズ、記念のワンショット、めいめいの哀れも無い?お姿をカメラに収めた後、朝食、出発です。

宿泊施設の玄関で、この秋一番の「旬」最高潮色で着飾ったその玄関先で、しっかりとその≪色の思い出≫を記録し、その宿を後にしたのです。

その宿から5分、道路は右に折れて、光徳牧場、戦場ヶ原方面に抜ける山岳道路へと、その道路の紅葉を目にしながら「光徳牧場」「戦場ヶ原」「金精峠」「沼田街道」更には薗原湖周辺を走り〜みどり市国道122号線へ抜ける良く整備された山道、を通り、大間々、深谷、と辿って予定の時刻に出発地であった「花園」に戻って、解散となったのです。

二輪から四輪に変更しての走破は私にとって物足りなさを覚えるのでしたが、これはこれで楽しい2日間と私なりの所感です。

ただ残念な事は「雨でも二輪」でそれを貫き通し、この26年間、雨でもツーリングを実施してきた我がスタンス、今回初めての二輪から四輪に変更!チョット悔い残る「我が心」と、2日目の雨が止み、曇天の空模様を眺めてそのようにも思うのでした。

紅葉の中のバイクでの疾走、何とも言えない癒しの気分!それが「雨」で阻害されてしまったその悔しさ、でした。



この仲間、人生を大切にしたい方々!であることには間違いありません。

職業も、年齢も、生活観全てが異なりますが、26年以来のハーレーダビットソン仲間で、色々と事情があり今回、不参加の方々の分まで「青春謳歌?」でした。

人生は人と人との出会いの旅路!2010年10月30日
私のMFは400名を超えています。

それが私にとって必然性と、それはなぜか?

一期一会を貫き通すと至極当然の結果なのです。これからも増え続けていくでしょう。

しかし、私はMFにお願いする為の「基準」を儲けて誰が誰でもと言う訳ではありません。必ず私の感性との符号がありその見分け方は「秘密」ですが、一番、最初の接点「掲示板の書き込み」から始まります。

私のサイトをご覧になった方、それはプロフィールであれ、日記であれ、そしてフォトを覗いた方であれ、必ず「ご訪問記録」が残ります。その記録を基にして返礼をその相手の掲示板に以下の文から始まるスレッドを残します。


『何らかの足跡!には必ずご返礼させて頂いてます

人生120歳、120歳、60歳は人生の折り返し地点セカンドステージ青春第2章!と・・・・・・・』

これからがMFにお願いに上がる方か、そうでない方かの見極めがスタートするのです。

1年前は必ず、大多数の方がそのスレに対して私の掲示板に何らかの書き込みがありましたが、最近は少なくなりました。

この趣味人倶楽部も「変化の兆し」かなと感じたりします。特に私と同世代の65歳前後の方の「返信書き込み」が極端に減少しています。

これはその返信を求めているのでなく、趣味人倶楽部の風潮を私なりの所感である事をお断りしておきます。

人数が多いと言うMFの件ですが、やはり人それぞれの人生観があり、またMFに対してのそれぞれの考えがありますので、自然にMFから去っていく方もしかりです。

来るもの拒まず、去るもの追わず!の自然流と言う事もあり、それは良く理解しています。
逆に非常に事例として極少ではありますが、私の方からMFのお断りをお願いする場合もあります。

人生観に大きな差あり、暗〜いネガティブな思考の方は「大嫌い」と言う事もあり、日記にそれとなくその「暗さの印象を受ける書き込み」を複数に渡ってなされる方は、お断りをさせて頂いています。

それ以外は全てがフレンドリーと、自然流に去って行く方を除き、この姿勢は今後も貫き通すと、一期一会の精神、そして「人生は人と人との出会いの旅」を永遠に人生散るまで続けて行きたい。



今朝は台風の影響で関東は大雨です。本来なら仲間とバイク宿泊ツーリングですが、仕方なく「四輪に変更」で、これから出発です。
人生に店じまい?2010年10月29日
いつも思うのですが、最初から「人生店じまい」とそれを売りとしている人を見受けたりしますが、それは情けない!と

≪花の命は短くて、命ながければ・・・・・・

こんな言葉は大嫌い!

ネガティブな思考の典型と常に思い、私は「切り捨て」ています。
もう人生にギブアップしていることを自ら認めていると言う、暗い思考と思えるのです。

他の方々の日記を時々ネットサーフィンして覗かせて頂いていますが、面白い現象があるのです。

類は友を呼ぶ!と以前の日記でも書きましたが、同じ思考、または行動基準も同じと言う方々には似たような方々がお集まりです。

その日記を読みそして、それに対してのコメント内容を目にしますと、そのコメントもネガティブ的で「暗〜く」く記されているのです。

記してる本人は決してネガティブとは思っていないのではないかと感じられますが、しかし、私の目には「後ろ向き」と思わざるを得ません。

花の命は短くて・・・・
これは花の寿命で人の命とは別物、これを人生に例える事が「ナンセンス極まりない」と切り捨てるのです。

何度も何度も記しますが、

人は自分の考えをどの様に思いながら生きているか、この思っている考え方が、人生を大きく左右させる「資源」なのです。

この思考資源で全ての人生が決まる!と断定しても過言ではありません。
花の命は短くて・・・植物や樹木の花は短い期間しか咲かず、1週間もすると散ってしまいます。しかし幹本体は如何でしょうか?

その根幹である「木」は人の命に比較できないほど、何百年、何千年と生き続ける樹木の数、計り知れないほど沢山あります。

その樹木から見たならばその花が咲く期間、それは
「花の命は短くて」とその通りで、その樹木に於いては花の咲いている時間は「一瞬」であり短いのです。
その短さは決して間違いではありません。

しかし人生をそんな樹木の一瞬の花に例えては「人生、もう店じまい」と思わざるを得ないのです。

人生いつまでも、開店!です。まさしく花の「幹」です。

このような例えは、表現こそ違っていても何処にも転がっています。それは良くない例えとして私は「切捨て御免」、その発想が「暗〜い」と捉えてしまいます。

その様な方の発想の所には同類の方が集まる!まさしく「類は友を呼ぶ!」です。拍手やコメントをされている方を見ましても、同類と感じられるのです。

人は色々とそれぞれの発想をお持ちで、人に不愉快な感情を抱かない限り、それはすばらしい事でその発想、思考は尊重しています。しかし、私自身がネガティブな思考が大嫌い!と言う事も手伝い、なかなかその様な思考は馴染めません。

思考、発想それぞれの思いを表現、は日記を見させて頂いて私自身、見聞を広めると同時に大いなる参考とし、得るものも沢山あります。

私のMFは人数が飛びぬけて多い理由・・・一つとして
それぞれの方々の日記のタイトルが一目瞭然で見られ、内容もひとっ飛びで、その方のページへ飛んで行けるからです。

やはり考え方それぞれ、色々と教えられる事が多く、一人の発想など限られています。

その発想転換にこれから大いに役立つと思うからです。

ただ、ネガティブな思考だけは御免こうむると、しかし明るいポジティブ思考、それは嬉しい限りで「ホッ」致します。

「人生に店じまい」的な発想は、その考えに人生が向いて行きますので、人生120歳とそれも健全健康で活きる、それにはどうしたらよい、自然と楽しく「活きる」為のアイデアが湧き出て出てきて、限りない世界が開けてきます。

私の日記をご覧になる方々の殆どが「ポジティブ思考」であると断言できるのです。ネットサーフィンでその様な暗い発想と思われる日記には足を踏み入れてないと、ネイーミィングを照らし合わせてその様に断言できるのです。

類は友を呼ぶ!その通りですが、その「類」には少しでも人生に有意義な「前向き発想ポジティブ思考」で望みたいと、そしてそのような「類」を更には進化させたその輪の中で、人生を楽しく歩みたいと願い、実践を!と考えます。

人は考え方次第で向く方角が決まる!
誰でもそれぞれの考えを持って生き続け、そしてその方向に進みます。

「花の命を短く・・」などの暗い例えの発想でなく、同じ生きるのなら、同じ人生、良き考え、ポジティブ思考で楽しく生き、そして良き方角に進みましょう!

と呼びかけたと言うか、声を大にして言いたい、日記です。

ただこの前向き思考に理解不能の場合、それはそれで仕方のない事と思っています。



あ〜っあ!
明日からはバイク倶楽部の一泊ツーリング、台風の影響でバイクは止めて「四輪」に変更!
残念至極とはこの事。ガッカリです。
http://www.ne.jp/asahi/azu/sin/index.html
それぞれの癒し2010年10月28日
癒し!

この世の中で全てを忘れ一瞬のうちに自分だけの世界に入り、没頭できる事、疲れも雑念も吹っぶ「時間空間」と・・・・・・

現実の世界に起きている出来事であっても、どこか夢遊病者の如く、その没頭している次元は夢心地なのです。

そのささやかな私の癒しの瞬間は、プラモデルを組み立てている如く、車やバイクに触れている時こそが「癒している瞬間」なのです。
生活手段の仕事として触れるのでは「癒し」どころでなく苦痛が伴うでしょう。

過去をたどると幼き時代に触れていた「木の自動車」、この時より始まっていたのです。我が家の住まいのそばに大工さんが存在しその大工さんに造って頂いた「木の自動車」、それは肌身離さず、寝るときも、遊ぶときも、必ず持ち歩いていた記憶があるのです。

1945年生まれの3歳前後の時代は昭和23年、戦後の間もない時で、物資は不足し食料も無いと言う大変な時代でしたが、その時代に近所に住むやさしい大工さんは、おもちゃとしてその木の自動車をプレゼントしてくれたのです。

今でこそ木製のおもちゃは高級感ありますが、当時はブリキが高級な玩具で、時代が時代、とても手に入る状況ではありません。そんな中でのプレゼントは、子供ながらの「癒し」としてしっかりとその心を受け留めていたのだろうと思うのです。

かすかな記憶は、紐を付けて常に離さず引っ張っていた事を覚えているのです。そして車輪が取れたりした「故障」の度にその大工さんの所に持ち込み、直して頂いたのです。

親や兄から聞くところによるとその木の車を5歳くらいまでの2年間は「肌身離さず」持ち歩き、楽しんでいたと言う話でした。

その3〜5歳当時、よく遊んだ木の車が現在は現実の本物の自動車やバイクに変わっただけで『心はその幼き時代』に戻っている自分に「ハッ」とすることシバシバです。

過去の日記で本格的にエンジンをバラして楽しみ出したのは中学2年生の頃と記しましたが、その流れは3〜5歳頃から予兆があった!と言えるのです。

夢中になれる、と言う心境は我ながらスバラシイとその夢中度は全身全霊、神経を集中し頭は空っぽ、その事だけに脳が占められているのです。

癒し方は思考が人それぞれ違うように、その人が一番、心が満たされると思われる行為をとることであり、他人様がどうのこうのと言う問題ではありません。

今まで活きていた中で「これ一番」と言うのが私の場合、車、バイクに触れている時なのです。
特に20年も30年も前の古い車のメンテを行っている時、至福の喜びでもあり癒せるときなのです。

昨日は1967年製造の国産車に朝から晩まで触れており、この時間の過ぎ去るのが早いこと、もうこんな時間!と疑いたくなるような「凝縮された時間」でした。

癒し最中の時間は同じ一時間でも「10分くらいの感覚」で時間の経過が早く、すぐ薄暗い夕方となってしまうのが辛いのです。

11月27日
『トヨタ博物館クラッシックカーフェスタin 神宮外苑』に参加案内が届き、その参加対象車の準備の為にそろそろと思い、整備に取り掛かりだしたのです。

過去には国産車、外国車問わず、色々とそのジャンルのイベントに参加して来ましたが、最近は余りにもその開催の数が多くなり、食傷美味と言う事もあり、また規模の大小、形態の違いはあっても大差無しと、最近は参加もよくセグメントし、僅かなイベントのみに絞って参加、出場です。

11月27日に行われるトヨタ博物館主催のイベントは限られた車両100台のみで、神宮外苑から青山2丁目、皇居前、そして銀座4丁目、銀座中央通りを抜けたパレードがイベントの柱になっていますが、このイベント参加の準備なのです。

応募数1000台は優に超えている中からの100台と言うことですが、参加料金30万円前後と言うイベントもあり、このトヨタ博物館主催は3000円の安さ、そしてアイデンティティの高さが人気の秘密とか、ある方が申していました。

そんな中での参加は、その輪に加わる事そのものが、幸せだなぁ〜と。

1967年製は途中で走行不能などと言うアクシデントを発生させないためにも、完璧な整備が必要でその整備は私の「癒し」なのです。
全てを忙殺しその作業が、疲れも、一切の雑念も遥か彼方に飛んで行ってしまっているこの時間空間、楽しいなと微笑むのです。

11月27日までには時間があり、整備はまだまだ緒についたばかりですが、昨日は高速道路対応の「ETC装着」で、配線は何処にするかと色々と考え、そして作業で楽しみました。

癒しと言うと「ボーッ」と過ごすと、しかし私の場合、その「ボーッ」と過ごす事なぞ、罰を受ける以上に苦痛の時間空間です。
車、バイクに触れてそのバイク、車と「会話」するのが至福の喜びであり癒しなのです。

トヨタ博物館主催
http://www.toyota.co.jp/Museum/ccf2010/index.html
禿げでダサイ親父です2010年10月27日
ダサイ親父!その通り、です。見た目も「禿」でその通り。

ダサイとハゲを売り!としていますので、ハゲ!ダサイ!と言われても私には「不快さ」を感じる事がありません。

むしろそれを誇りとしていますので、プロフィールの写真をご覧の様に一目瞭然で〜す。決して「謙遜」で申してはいません。目にした通りの風貌を言ってます。

過去にも記しましたが「禿げ攻撃」に対しても

お前は日本人だ!日本人だ!と叫び続けているのと同じで、禿げやダサイと言う語句が、相手にダメージを与える手段と思って使用しているのだろうと考えますが、私に対しては何の効果も期待できません。

何度も何度も記していますが、攻撃はパワーなり!とそのパワーを頂ける事にいつも「感謝」なのです。

攻撃を頂ければ頂けるほど私にはそのパワーが蓄積され、攻撃かけた方から「頂ける」と信じて、またエネルギーがみなぎる変化が現れて来るのです。

具体的に体の内面が熱くなる現象が起きるのです。体が「ホカホカ」して来ると言う表現が正解かもしれません。

裏返しに、攻撃をされている方のエネルギーを吸い取っている、と思えるのです。

これは私が勝手に吸い取っているのではなく、その方が与えて下さっている!と感じるので「感謝の念」にありがとうと申しています。

攻撃はパワーなり!と誹謗中傷や嫌がらせは私に取って、大変有難いことと受け取り、感謝なのです。

人は時には何かの感情の置き所により、自分が弱点と常日頃抱いている事を、相手も同じように「弱点」と考え、その部分を突いてくるという本能を持ち合わせています。

これはその本人が「自分の弱点を曝け出している」と言う事に気づいていない所が不幸なのです。

その本人には死ぬまでその体質を保有し、気が付かず一生を終えるのかなと、それを思うと「哀れみと同情の感情」を抱きます。

この様に記したりすると必ず「貴方が意識しているからだ」とコメントやメールを頂いたりしますが、日記は常日頃、自分の歩んだ軌跡、そして希望などを自分の事の全てを!表現する場と捉え、また日記の概念を重んじて記していますので、常に自意識で書いています。

表現する意義としてそれは当然とし、これも「その通り」で、ゴクゴク自然の成り行きと思っての日記です。

日記は大変な効果が得られる「頭の体操」と心得て毎日、綴っています。

その≪綴り方にご意見≫は色々とあるでしょうが、所詮自己表現で、私の場合は全てが自分の事である為に、ご欄になりたくない方はスルーしていて頂ければ良い事と考えます。

また≪綴り方のご意見≫があれば、それはそのご意見のある方が自分で、自分の日記により、自己表現を記せばよい事です。

この趣味人倶楽部で与えて頂いている自己表現の場を有効に活用し、毎日の楽しい第一歩が「日記」と、それが病み付きになり、習慣となり、ハマっているのが今日の朝一番、最大の喜びであり、元気で楽しく!のスタートの時間なのです。

大半が日記に対してのコメントは「好意的」ですが中にはどこか斜めから見て、アレ!と言うのもあります。しかしこれはこの方の尺度で見識、ごく自然、たとえ相反する内容だとしても尊重しています。
男も女も「臭い」!2010年10月26日
西洋人と日本人の体臭を比較すると、日本人の体臭は無いに等しいと、それはなぜか?これは食生活の違いが大きな理由とも言われています。
しかし、現在の日本の食生活は大きく変化を遂げ、しっかりと洋風化されてしまいました。米の消費量を見てもその裏づけとして推察されます。

別の言い方をすれば肉食系生活にシフトしていると言っても過言ではありません。それに伴って「体臭もきつく」なってきた日本人が増えてきているのです。
体臭と言っても遺伝性で生まれつき強いと言う、お気の毒な方もいますが、多くは「自分の体臭は気づかない」のが一般的です。
しかし、この体臭ですが女性も男性も30歳を過ぎると「臭い」が出てくるのです。
遺伝性は別として、個人差は当然ですが、本人が知らないうちに、悪臭を放っている!のです。

私には臭いが無い!等と胸を張っている方に限ってその臭いは「キツイ」場合が多いのです。
それはその対策を施していない、と同時にその方はその方の周辺に気配りを怠っているからです。

本来、人の臭いが気になったら「私は如何だろうか」と言う自分を疑うべき所を、臭いが無いと間違って信じているが為に、回りに対して無神経が生じている現象です。

この臭いですが、他人様には意外に指摘しにくい面があり、こいつ臭い奴!と思いつつ不愉快ではありますがその場を見過ごしてしまう事が殆どです。
女性であっても男性同様、臭いは当然で、ただ女性の場合、30歳もなると多くは化粧を施し、その化粧品の臭いで打ち消されてしまう場合が多いのです。
その為に無臭と思い込んでいるのが多くの女性たちです。

加齢臭!と言う年寄りだけが持ち合わせているような誤解があり、あたかも年寄りの専売特許のような「嫌な臭いは年寄りだけ」と流布されていますが、これは大きな間違いです。
男も女も臭い!は30歳を過ぎる頃に、個人差がありますが「年齢関係なく」始まるのです。

長いこと年齢に関係なく人と接する仕事をしていましたので、人より臭いに対して「敏感」であると言うことも手伝い、男女問わず、嫌な人の臭いを体験して来ました。
人が臭っていると言うことは、自分もそうではないかと疑って30歳から現在まで「臭い対しての処置」は、人一倍気を遣い、対応して来ました。

若くても個人差があり、また歳を経ていくに従い、気を使わなくなり「自然流がベスト」などと寝言を言う方も存在しますが、それは大きな間違いで、そんな方はどれほど「嫌な臭いを撒き散らして」いるかは計り知れません。

確かに気を使わない部類には「年寄り」が多い事も確かです。独特の臭いは不愉快極まりないと言う事を、私のような還暦5年生に到達された方々、ぜひご認識を!

30歳でも嫌な臭いはキツイですが、若いうちはその対策を施し努力をしています。
私は若い頃、接した方々の多くに「臭いは如何ですか」と尋ねても、無臭と言う答えが全てでしたが、それでもその対策は施してきました。

その時の条件で臭いを放つと想定し、しっかりとオーデコロン等で相手が不愉快な思いをさせまいと、気配りを行っていました。

これは習慣として身についてしまい、今では家にいるときは除いて、必ずオーデコロン(アラミス・オーデトワレ)は体の一部です。

加齢臭などと馬鹿にされる事無く、これは日常的習慣で外出時には欠かせません。習慣化はそれを欠いたとき、気持ちが悪くて仕方なくなります。

ここの趣味人倶楽部での日記、ごもっともな事をスレッドしている貴方、今の自分を見つめ直して≪自然流が一番≫等と抜かし、どれだけ人に迷惑を放っていたかと反省をしては、と思うのです。

加齢すれば加齢するほど身の回りへの「気遣い」が薄れ、嫌われ者として陥らぬよう
加齢しても社会の中枢で意気軒昂と体を張って、頑張っていた「イキイキとしてた自分」に戻り、その気構えを失う事無く「臭い」にも気を遣いましょう。

ちなみに30歳から臭い対策として使用しているオーディコロンは、男性専用で「アラミス」が私の体の一部です。
現在は化粧品メーカーでも沢山の商品を出し、数も豊富ですが、私にとってアラミスは死ぬまで離すことが出来ないアイテムの一つです。

自然流はMFのお付き合いだけで「身の回りへの対策」は今からでも遅くはありません。
不愉快極まりない「臭い」そして「鼻毛」や「耳毛」、女性の髭、伸ばしていませんか?

女性の髭、も若くして一向に気にしない方も存在しますが、これは私だけかも知れません「100年の恋もいっぺんに吹っ飛ぶ」現象で、寒気が起きるくらいの衝撃です。
人の振り見て我が振り直せ!の諺、これは人様が良いことの先例としていたならば、その良い部分を取り入れて、しかし、その振りが人に不愉快に感じられたならば、その不愉快さをトレースしないよう務めれば良いことです。
顔の皮「たるみ」現象?2010年10月25日
これは自宅のお風呂での話しです。風呂場は人体蘇生道場!

風呂は日本人の大好きな場所、1日の疲れをレフレッシュし癒す場所です。

元来清潔好きな国民性、そして湯船に浸かり、ボーと何も考えず、ゆったりと過ごす「唯一の1人になれる場所」でもあるのです。

誰からも見られず、好きなように好きな表情をしても、そして「おなら」をし、子供の時のその「メタンガスの臭い」を認識できる場所で、恥ずかしさが除かれる唯一の空間です。

何もしない「ボー」としている行為が一番好き!と言う方には申し訳ないのですが、私の場合、この唯一のプライベート空間こそが先日、記した「目の周辺筋力トレーニング」と、「顔の表情筋強化」の場所と思い、その運動に勤しんでいます。

人は暦のように365日経過すると1歳、歳を積み重ねていきます。金持ちでも名誉のある方でも、誰でも公平に「加齢」して行きます。それに伴い体の全ての筋肉が、衰えていく事は明白に、私の様な「還暦5年生」人生の折り返し地点をさしかかかった者では尚更のことです。

暦年齢は誰でも必然性として「歳を重ねる」「歳を取る」と言う1日24時間、1年365日、全ての人に平等な年齢が追加されて行きます。

しかし、世の人々は平等に加齢しているのですが、あの方は「歳に見えない」とか「エッ、そんな年齢ですか」と、同じ平等に年齢を積み重ねていくのですが、どこか人と違う方が存在する事も事実です。

見た目年齢は人によって大きく違いますが、多くのその要因は血管や脳神経機能、筋肉、ホルモンバランス等が具体的に上げられます。これら内面的な機能が「体の張り、前向きな考え、頭の回転の速さ」等、映し出しているのです。

この衰えを少しでも鈍化させる事が、見た目年齢を変えさせるヒントと思い、特によく目に付く顔その「顔の筋肉」表情筋の訓練には風呂場という空間が最もふさわしいと思い、今日、ここに記しています。

人前ではなかなか出来ない顔造りでも、この風呂場であれば誰にも気兼ねすること無く、思い切って「百面相」が出来るのです。

65歳にもなれば誰でも体のあらゆる部分に、引力の法則をしっかりと認識させられること、たびたびです。風呂場から出て映し出された自分の体を鏡で見た場合、明らかに30歳代と大きく異なっている現実、「それは歳だから」と諦めてはいけません。

歳だから!とその考えが、老化を早める体の内部要因の一つです。その考え方が見た目年齢に大きく影響しますので、今日から鏡に映し出された「ブザマな自分」を見て、もう歳だからの考えを排除し、

「よし、これからが楽しい人生の始まり」と、考えをシフトし希望の道へで望む考えが大変、重いのです。この考えの下で、風呂場で行う「人体蘇生」そのことがが楽しくなるのです。

引力の法則により、からだ全体の筋力が緩み「たるむ」と言う現象は誰にでも感じるところです。このたるむ現象の一つ、表情筋「顔の筋力」を強化するには、風呂場は最良の空間です。

具体的に、とても人には見せられない「百面相」行い、豊かに表情を作り、顔のあらゆる筋力をトレーニングを行う事です。私の事例として、長年の成果がの

「耳まで動く」と言う結果が出るようになりました。

耳が動くようになったと言う現象はいつの頃か、定かではありませんが、これは10年前からのことと、風呂場での「百面相運動」が作り上げた成果と思っています。

今日からでも遅くはありません。
風呂場は蘇生道場!と心得て「人生第2章の幕開け」、楽しく心みて「楽しく、楽しく実行」して前に進みましょう。

百面相運動とは・・・

くしゃみした表情、アッカンベー、泣いた自分の顔、大きな口を空けた表情、片方の目をつぶした顔、顔の片側だけの百面相、と色々と楽しむ自分の表情を沢山取り入れ「百目面相運動」の行為です。

これは内部機能強化ではありませんが、顔のたるんだ筋力のトレーニングには「耳が動く」成果が出ていますので、顔の筋力強化の賜物と思わざるを得ません。

いつもの事ながら私自信が試した成果を日記にし、少しでも楽しく活きる為のヒントに、お役に立てばと願っての「我が体験日記」です。

時にはこの記しに対して「それは遺伝子とか意思の問題」と言う浅知恵を言われる方が存在ましすが、そのような低レベルや低次元ではありません。

人生楽しく、楽天思想に基づいた前向き思考に的を絞っての日記です。
人は考え方それぞれで、それはその人の思考、何分、ポジテブが全てとし、その思考に沿っています。

後ろ向き思考は常に「論外」と、そのネガティブな考えが「嫌い」なのです。

風呂場は蘇生道場、前回は「目の酷使、危ない!」で記しました。
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2501841&oid=14051..

風呂場での「人体蘇生道場」はまだまだ続きます。
昨日の23日、いつもの事ながらかみさんと高速道路を飛ばして1時間30分の場所に位置する、ある有名なエッセイストが経営するワイナリー&レストランに、お出かけしました。

事前にネットで調べ、ある程度の情報を入手してのお出かけですが、そこにはランチは予約できるのが3500円で、予約無しで食する事が出来るのは、おまかせプレートランチ2000円と、私の日常的な昼食習慣からすると3500円は、ヘビーかな、と思い予約無しでその場所に訪れました。

その場所はよく出かける本格的チーズ工場「フロマージュ本店」から15分くらいの所で、今回、初めての訪れでした。

行って驚いたのは標高800メートルほどの浅間山麓、途中、車がすれ違うのに少し大型ですと困難かな、と思わせるような急な坂道やコーナーを抜け、たどり着くと、駐車場は隙間の無いほどの混雑ぶり、50台くらいで満車、そこで第二駐車場へ止めそして店内へ。

この店内も人だかり、これも驚きました。

そのレストランでの受付を、そのエッセィストの奥さんが担当しており、予約の方ですかと問われ、いや予約はしていません、しかし食事をしたいと言葉を継げると「1時間ほどお待ち頂く事になりますが」との応対でした。

目的は食する事と事前に調べてきたので、少し待つのは仕方ないとして、その混雑ぶりは予想外でした。

3500円のメニューで予約する方の席は眺望の良い側で、70名くらいは優に入る事が出来るだろうと、その席が一杯でした。そして見晴らしは良くない「予約無し」の席が30名ほど、こちらも満席、そして店の入り口で私同様、予約無しの客がゾロゾロといたようでした。

標高800メートルに位置するそのエッセイストは広大な農園も経営し、そこのワイナリー&レストランは森やブドウ畑に囲まれています。

待ち時間でワイナリー周辺に沢山の「花」や有機農法で栽培している「食材」も植えられて、季節折々の花や香りが楽しめ、散策し待ち時間を過ごすには丁度良い空間でした。

1時間ほど経過し、やっとテーブルに座る事が出来ましたが、時刻は2時丁度でした。

出された料理は写真の通り、味はおいしいと私が食した2種類の手造りソーゼージ、特に大変「美味」でした。

それ以上にグラスで頼んだワインの「どぶろく」と説明が入ったグラスワインは≪絶品≫で、今でもその余韻が残っています。

口コミだけで沢山の人が押し寄せ、山中のワイナリー&レストラン。
そのエッセイストの奥さんに「商売繁盛ですね」と尋ねると「今日はお客さんがいつもより少ないのです」と言う返答、エッ!と私は次の言葉出ませんでした。

これ以上、お客さんがいたら待ち時間はいつになるのだろうと

今日の待ち時間1時間で、食べられて「し・あ・わ・せ」と思わなくてはと、ただただ、そう思うのみでした。

世の中、マカ不思議です。

埼玉県を中心に多店舗展開しているサイゼリアと言うファミレスはお店の商品全品60数点、それを全て食しても2万円チョット、そしてグラスワイン1杯100円と、繁盛店と言う理由であるテレビ局がレポートを流していました。

その反面、交通アクセスが決して良いとは言えない、山の中のレストラン。ランチだけで3500円、そんな場所に、宣伝もせず口コミだけで多くの人が押しかけ、更に、ディナーは完全予約で5000円の様でした。

不思議な世の中と思うのは私ばかりでしょうか?

私の嗜好はどちらにも属さず、ただ好奇心旺盛で、僅かに得た情報に「聞き耳」を立ててはかみさんとお出かけ!です。

エッセイスト・画家・農園主・ワイナリーオーナーとは「玉村豊男」さんでした。

当日も帰り際、奥さんと2人で店の出口に並んで、ご来店の謝意を述べ、気取らない玉村さんの人柄が人気を博すると、

かみさんとそんな話をしながら、手作りパンもそして料理も更にワインどぶろくも「美味しかったね」と又、量が2000円のプレートでも充分で、これより多かったら、とても食べ切れない!と言葉を交わしながら帰路に着きました。

もし興味がある方の為にWEBサイトはこちらです。
http://www.villadest.com/index.html

ワインを飲んだのは「私だけ」で、帰りはかみさんがハンドルを握っての事です。飲酒運転は犯罪と思っていますので誤解をなさらないようにお願いします
今、貴方の目は如何でしょうか?

現代人は大変、目を酷使し今、見ているパソコンの画面も目には決して良くはありません。1日何時間、その画面を見ているでしょうか?

私も見すぎると必ず「頭痛」がして警告が起きるのです。

先日、同窓会へ参加した時、大半が眼鏡をかけ眼鏡無しと言う方々は、私を除いて誰もいませんでした。

中には目をいたわり、3つの眼鏡を持ち歩く者もいました。遠視用、普段用、そして新聞等の細かい字を読む場合と、使い分けていると言うことでした。

私は眼鏡を日常的に必要ありませんが、
65歳で「眼鏡無し」と言うのは数少ない部類のようでして、自慢の種の一つとしています。

眼鏡無しでどんなに細かい文字も10歳代当時と変わりなく読む事が出来ます。
しかし、夜の雨の日は車の運転時、眼鏡使用でなくても問題はありませんが、眼鏡無しでも「見え難い」と言う現象がありますので、用心の為に眼鏡使用しています。

それ以外は眼鏡無しです。
ただ、パソコンの画面の見過ぎは≪危ない≫ので注意しなければなりません。2時間が限度でその時間を越えないように心がけています。

目を大切に!と目は代換えがありませんので極力、2時間が過ぎたらパソコンから離れて他の事を行うよう務めています。
しかし、熱中するような作業を始めるとその限りではありませんので、どうしてもモニターに釘付けと言う事もあります。

その様な時の翌日は、急用が無い限りパソコンは電源を入れず、休養を取るようにしています。

他人様が眼鏡をかけているのを見ますと、大変「不便」のように映るので、私はそんな「不便さ」を味わいたくないといつも思うのです。

ラーメン屋さんで特に見かけるのですが、この現象はよく冬に目にします。それは眼鏡を使用してラーメンを食べている方を見ると「眼鏡が曇っている」と言う、妙な光景が目に入ります。

眼鏡だけが曇りその部分だけが不透明で「面白いなぁ〜」と感じながら、俺も眼鏡をかけたら冬のラーメン屋では同じようになるのだなぁ〜と思いつつ、その滑稽さに微笑んでしまいます。

オートバイのヘルメットの着用時、これも意外に面倒で、サングラスをかける時はたびたびあり、これが毎日の眼鏡使用となると、これは大変だなと思うのです。

眼鏡は無いに越した事はありません。

私の場合、雨の日の夜、車を運転する時に限り、眼鏡使用で現在のところはそれだけで済んでいますが、このパソコン画面を疑視しない限りまだまだ大丈夫ですので、この画面だけには注意し、見過ぎは必ず翌日「休養日」として目の保護に努めています。

加齢と同時に目のピントを調整する「筋肉の緩み」が影響を及ぼし、その筋肉を衰えないようにするにはと

過去の日記にも書きましたが風呂に入った毎日、目の筋力強化を怠り無くと、目を上下、左右、右回り、左回り、とグルグル運動、更には「左右の目を真ん中に寄せる」運動と、この一通りの目の動作を4〜5回ほど繰り返し行い、目の周辺の筋力の衰え防止に役立つよう心かけています。

果たしてどの様な効果が生じているかは定かではありませんが、1945年生まれ還暦5年生が、眼鏡なしの毎日を送っている現在、それはしっかり成果があるものと信じ自信を持って言えるのです。

このような事を記すと必ず否定的な意見が寄せられますが、それは遺伝子の問題とか・・・・

それは笑えます。我が家の家系は全てが眼鏡使用で、遺伝子的には、眼鏡なしは誰も存在しません。

65歳で眼鏡なし!は

風呂での目の周辺の筋力体操がほどほどに成果を上げていると確信しています。

この運動を始めてあれこれ20年は経過しているものと、1年や2年のことではなく数十年のキャリアであることも書き留める事を忘れてはなりません。

私のスタンスは金が掛からず、どこか自分の身体に有益な効果を生みそうなものには「いつも挑戦」し、また経験から獲たものしか表記しないのが私の日記です。

人様の事は分かりませんので、ただただ自分の事だけで本来の「日記の概念」を真っ当しているに過ぎません。

免疫力を高めて医者は不要!と言う信念からそのアクションが始まり、これを読んだ方、一つの手法と捉えて頂くと有難いとは思います。
映画、桜田門外ノ変〜吉村昭原作2010年10月20日
40歳の頃であったであろうか、吉村昭の小説「桜田門外ノ変」を読み、幕末の水戸下級藩士の悲しい運命を描き、それを題材としたものでした。

内容はどこか切なく空しい、ハッピーエンドでは終わらない物語であったように記憶しています。

それが映画化されると1年前に知り、再度その小説を読みましたが、一昨日、鑑賞した映画でもその悲しさは蘇ったのです。

今年はその「桜田門外ノ変」から150年、その記念行事の一つとして水戸市、茨城県が全面協力の下で制作され、また映画に使われた「桜田門のオープンセット」が水戸偕楽園そばに造られたと報じられていました。

メデァで報じていた記憶が映画へと足を運び、その映画は16日がロードショー初日、そして18日に鑑賞して来ました。

映画と小説は別物と、
同じ原作者であってもそれは「異質」と心得てその映画を鑑賞し、小説を読んで抱く自分のイマジネーションと映画での映像とはやはりかけ離れ、チョット違うかなぁ〜と思いながら見ていました。
しかし見ているうちに引き込まれ小説と映画が重複し一枚岩にと・・・・

悲しい物語としての表現は映画でもしっかりと共有できる部分がトレースされており、小説同様に期待を裏切らないものでした。

感動の度合いと聞かれたら「小説」も「映画」も感動の根本が異なり、比較そのものが出来ませんと言うことでしょう。

小説などの読みものは、空想で自分で描く登場人物、そして描かれた人物像、個々の風景、その他もろもろの自分の世界、その想像の世界は壮大ですが、ここが小説の面白さであり醍醐味と思うのです。

映画は映像で具現化され、それを見て、まるでその画面の中の登場人物を自分に置き換えているような「錯覚」を起こし、鑑賞を楽しんでいる部分も否定出来ません。

空想でそしてそのイマジネーションで楽しむ小説等の読み物とは大きく異り、楽しみ方が別次元と思っています。

小説を映画化した作品は沢山存在しますが、
私の場合は、その小説と映画は対比する事がありません。

映画は映画、そして小説は小説で感動する面が異なり、それぞれの良さを楽しんでいるからです。

最近の日本映画で小説を素材にした作品、新田次郎原作「剣岳」も特筆すべき映画であり忘れられない感動ものの一つでした。

この桜田門外ノ変も江戸末期、水戸下級藩士「関鉄之助」を中心にその脱藩藩士18人が桜田門外に井伊直弼を暗殺し、尊皇攘夷思想とその人物たちの潜行逃亡を描いています。

歴史小説とは言えその暗殺の中心人物「関鉄之助」は沢山の日記を残しており、その史料背景を基に吉村昭は作品を仕上げています。

その作品の性格から、決してフィクションではないと史実に忠実に描かれた作品として捉え、小説も映画も史実の再現と心かまえを備えての楽しみ方でした。

この小説を読んで一番最初に感じた事は、二・二六事件との類似性でした。
時は明治維新前夜、そして片や大東亜戦争勃発前夜、共に国の情勢を一変させる一大事件だったからです。

両事件ともに世の中を震撼させ、大きな事件でありその後の日本の社会が大きく変動した「転機点」でもあったのです。日記では「前夜」としていますが、その転機点を形容しています。

また「雪」が関与している事が偶然の一致と言え、両事件共に雪に縁のある事件とした印象を強く持っていました。

映画はどの様に展開されていくか、それは観てのお楽しみとして、チョットだけその触りは「雪の桜田門」。

真っ白な雪に染まる一瞬の真っ赤な鮮血、その詩的美学は小説から描いたイマジネーション、そして映画から得た情緒的映像は一致していたと・・・
20歳代、30歳代の方々は可愛そう!2010年10月19日
現代の若者、20歳代、30歳代の方々は「お気の毒」と言いようが無いほどに本当に可愛そうです。

私たちが活きて来たその時代と比較し、社会的情勢が大きく変動してしまいました。

一番の変化は雇用環境がその当時には考えられないほどの変化です。

雇用創設と言う御柱のスローガン下で「派遣、契約、パートタイマー」と、雇用スタンスは広がりましたが、明らかに正規雇用とはかけ離れて働かねばならない環境に陥っている現代社会です。

グローバルスタンダースとか自由社会経済においての競争原理主義の徹底と言う理由により、雇用も大変厳しい社会形態となってしまいました。

私と同じ世代でその時代を共有してきた方々は振り返って見れば明白です。

雇用と言う社会の一断片をあぶりだしても、企業に就職する場合、全てが≪正規雇用≫と言う前提で物事は進められました。

パートターマーと言う領域で働く場合、その対象は時間に余裕が出来た「主婦の専売特許」で、男性がその領域で雇用契約する事はまず皆無でした。男性がパートタイムで働くなどとは想像もしなかった。

私は36歳まで、時には一企業に身を置いたり、また自営業を営んだりとその遍歴は星の数ほどでした。

しかし、企業に務める場合、正規社員としての雇用で面接でも「即決」で、給料も殆どが私の希望通り、それが満たされ無い場合はこちらから願い下げと言う事も度々です。

会社の規定と言う基準がありましたが「中途採用」は過去の今まで歩んできた経験を加味し、現在、同年で同学歴の方と同じベース、時にはその経験の技術を加えて「高い給与」と言う事もありました。

一社員として、又コンサルタント業として企業に入り、現在株式一部上場企業として株公開で、なかなか入手できないほどの株価を放ち、成長企業へと躍進し、関与した会社が大半ですが、その様な企業に入社する場合でも「採用は即決」でした。

事前に一通りのペーパーテスト、そしてその後に於いて面接を行うのですが、多くは一週間以内に「合否」の通知が来て正式採用でした。

36歳までそれはある技術と言うかノウハウを身につけていた関係で、企業は選り取りみどり、私が意図とする展開で物事は進められそれは何の不安も抱かず全てが思い通りです。

若いという無謀?さも手伝ったのだろうと思いますが「私が思っている通りの働く環境」がいとも簡単に得られたのです。

企業の中に入り、約束した環境、条件が異なると「約束が違う」と言う理由により、その企業の出社は取りやめてしまう、などとわがままな行為も躊躇なく行えました。

勿論、その企業を辞めてしまう場合、必ず、次の企業に行く下準備は行い、しっかり次の企業の採用が決定した上での「尻まくり」でした。このような手法がいとも簡単に出来たのです。

このように働く側にとって都合の良い社会で、ノウハウを売りとし、それらを身につけていた者にとっては、それは良き時代でした。

企業に入る事ばかりでなく、自分で自営であってもしかり、物事は努力さえすれば何の障害もなくスムーズに回り、儲けられた時代でした。

何をやってもうまく運んだ時代で、企業に入るにもうまく運んだ時代でした。

しかし、今の時代は如何でしょうか?
マスメディアで報じている通りの「就職冬の時代」です。

この厳しい現実の脱却はもう無理と思わざるを得ないと考えた時、20歳代、30歳代の若者は可愛そうと思わざるを得ないのです。

私が活きてきた時代とは、余りにもその差が生じてしまったからです。

もうあの良き時代には復活する事は無いだろうと予測した時、一番、将来を見据えて「希望と夢」を託し、生きようとする若者の今後を危惧するのです。

青年よ大志を抱け!とは安易に言えず、忘れ去ってしまった言葉となってしまうのだろうか・・・・
学び舎の友、同窓会2010年10月18日
10月16〜17日の2日間、小学校の同窓会が一晩宿泊で、ある片田舎の温泉施設を利用して開催。

20年前に第1回をスタート、それより5年毎に開催今回で4回目、会を重ねるごとに参加人数が少なくなりこれも仕方の無い事と代表幹事とし、ごく一般的なパターンで必然性と気にも留める事無く11名で当時にタイムスリップしました。

初回の30数名の参加時と異なる、と思いつつ4度目の今回の参加者は11名のみでした。これがよりアッホームな交流の場となり、参加人数が多い時の雰囲気とは異質で、少ない人数がそうさせたのでしょう、それはそれは楽しいものでした。

小規模小学校100名ほどの児童数で4学年合同の同窓会、最年長は65歳、全てが60歳を越した方々です。

この年齢域に入ると現役で社会の中枢に於ける時とは異なり、多種多様な事象が生じ、同窓会などと言う機会は避けると言うか、参加不可能と言う現実に直面するのだろうなぁ〜と、私なりの論理が生じ容易に理解することが出来るのです。

その中でも我が友、学び舎の下での同窓の友とし、特筆すべき人物が1人存在する事は誇りに、思ったであろうと集ったこの11人。

今思えば、幼き頃よりどこか風貌と言い、思考原理と言い「哲学者的」であったその人物とは。・・・・

私が6年生、彼は5年生、複式学年が一つのクラスで一緒に授業を受けると言う形態であった事により、3年間は必ずその彼とは一緒であったが、その中でも6年生時の思い出が一番鮮明に記憶されていました。

その彼は努力の人で今はJR東日本の副社長に君臨していました。高校を卒業と同時に国鉄・岩倉鉄道学校に入り、国鉄マンとし地道に努力し、その結果が副社長の椅子を射止めたのです。

彼との関係はその彼の私より一つ上のお姉さん、その関係から繋がっていました。

そのお姉さんは彼と同様、学業成績優秀で、その方が使用した教科書をお下がりとして、私が譲り受け、その教科書を私が使った後に今度は私より1歳年下の彼が使う事になっていたのです。

このような繋がりは中学校時代まで行われていました。

私は幼き頃より彼のお姉さんには「憧れと羨望の意識」が存在し、尊敬の念で彼女を見ていましたので、そのお姉さんの教科書をお下がりとして使用する事は「誇り」としていた節が幼き心にあったのです。

その弟である彼との関係も以外に深く、私が悪がきとして君臨し小学校高学年6年生の時代、いつも側近の如く彼とはつるんで、勉強もそして遊んでもいました。

特に2人は同じような環境であった事がそうさせたのかも知れません。、当時5年6年の受け持ちであった教師の存在が大きく2人に影響を与え、そして思い出も沢山、記憶に残る事になるのです。

その先生は2人の面倒を見てくれてた記憶が鮮明にあるのです。勉強で褒められたり、子供の独特の発想で思いも寄らない悪戯を行い、怒られるのもその学年時、いつも一緒でした。

その彼が今はJR東日本の副社長と言う椅子まで登りつめ、社会的影響も大きいのでいい加減な事は記せませんが、我がふるさとそして同じ学び舎で育った小学校同窓生として「誇り」に思うのです。

私たち2人には造詣の深いその教師は、若かりし頃、早期の出世で50歳で校長になり、55歳で癌と言う病に倒れ、数10年前に他界してしまいましたが、彼にも私にもその教えは現在に於いても大変な影響を受けたと思っています。

その様な教師の元で社会的に影響力のある人物が育ち、そして生まれた我が学び舎、同窓生、そしてその会は16日の夜、酔いつぶれるほどの酒を飲み交わしタイムスリップするのでした。

更には私と生徒会長選出で戦った「憎っ気ライバル君」

との感激の再会は、病に犯され医者にはアト数年の命だと宣告を受け、しかしそれを見事、払拭し乗りきり克服してその勇気には感動と尊敬でその嬉しさを一緒に涙するのでした。

現在、京都より関東に単身赴任で現役生活を続け、病に冒されたなどとは思えない元気さを確認し「ホッ」とした気持ち一杯でした。

お互いに65歳、病にならないには、と私の持論をとくとくと説いてその夜は過ぎたのでした。

JR東日本の副社長である友は、多忙な日程の中を割いて駆けつけて頂き、ありがとうとお礼を述べ、その多忙さを象徴するようにその彼は朝6時に宿を後にしたのです。

それ以外の私たちは朝食後、ミィーティングを行い5年後の再会を誓い合い、それぞれがその宿を10時にチエックアウトしその後、それぞれの自宅に向うのでした。

ありがとう我が友、5年後の再会にはまた「元気な顔を見せてくれよ」と心の中で叫び、代表幹事を務めた安堵感で疲れが「ドッ」と来るのを覚えるのでした。
思い出せばそれは10歳の時、同じ学年で5年生が男子1人に女子6人と言う人数の中の教室での授業。
9歳の時の1年間はもっと少なかった。その時は4年生であったが男2人だけの授業。
これを読んだだけでは何が書かれているか「難解」ですが、過去の日記に糸解くガギが記されています。

1年生〜3年生まで生徒数100名程の小規模小学校へ通う。
4年生の時、1年間だけ親父の仕事の関係で生徒数50名程の小さな分校に通う。ここでの同学年は男子2名だけ
5年生〜6年生の時、また100名ほどの小規模小学校へ戻って来る。

戻った小学校の事です。
元々、小規模小学校は私と同学年の生徒、男子1人で女子6人、男女合わせて7人しかいない構成でした。
ところが5年生の1学期時、私以外に男子が他の都会の学校から転校して来て、私の学年に編入されたのです。
私にとって事件でした。いままで男子1人で威張っていられたのが突然、強敵なライバルが現れたのです。

平和にそしてハーレム?を築き、勉強も一番出来、頭が良い男と、そうして一番、強い奴と自慢の種が、それはそうです。男子は他に誰もいないのですから・・・。

そのライバルは私以上に女子に優しく、勉強もまぁまぁで人気度は、女子の圧倒的多数は私を超えてしまっていました。
悔しい!と地団駄踏んでもアトの祭り、今までの行状がいただけなかった。

男1人をいいことに、好き勝手放題で、意地悪もし、いじめも行なって来たことが、このライバル出現で、我が世の春も崩壊!の一途でした。

それが如実に出たのが6年生の生徒会長選出の選挙で、全校生徒数100名規模であり、毎年、1学期始めにその生徒会長を全校生徒で選挙による選出が行われ、その候補者は私と5年生の時に「突然、現れたライバル」でした。

実はこの年に他にも男子が、このライバルが出現してまもなく編入して来ていました。彼は「私とそのライバル」のような野心はなく、静でおとなしい、そんな戦いを好むタイプではありませんでした。

この時点で6年生の学年が男子3人に女子6人と言う、男女9人構成にはなっていました。
そのライバルは住まいで言うと南の方面、私は北の方面が住まいで、学校へ通うのも北方面の他の学年を引き連れて、配下の如くソロソロと毎日、学校に通ったのです。

ライバルも同様、南方面に住む生徒を引き連れての登校でした。お互いに全校生徒に対しての影響は何らかの形で与えていたのです。

その生徒会長選出、まさに北と南に分かれての戦争?天下分け目の「関が原の戦い」でした。
このライバルが出現さえしなければ我が天下国家であったが、憎っ気ライバルは女性に優しく、と力持ち、そして頭の程度も同列、ただ悔しかったのは「都会っ子」で、どこか垢抜けていたのです。

しかし、負けん気の強さと負けず嫌いが物を言い、あいつに投票したらもう遊んでやらないぞ!等と下級生に圧力をかけ、多くの男子生徒は殆どが私に投票。

ただ都会育ちのシティボーイに、男の嫉妬がそうさせたのだろう、その圧力はたいした役には立たず、今に思うとその垢抜けた部分に男子生徒が嫉妬で反発し、多くの男子は私に投票したのだろう思うのです。

我が学年でも、9人の構成ですがその内の6人が女子、5年生以下も男子と女子の割合が4対6でどうしても女子生徒の多くが、その女子が憎きライバルに投票では、結果は押して知るべしと、11歳にして「女に負けた」と完敗を認め予想通りでした。

憎っくきライバルが全体の投票割合で6対4、6割を得ての投票結果で生徒会長選出で会長職?得たのでした。
これが生まれた初めての我が最初の経験・挫折!でした。

現代の政治世界の縮図を11歳で会得したようなもの、私はその挫折を背負いながら副会長の席に留まり、その「寝首を掻く」戦略を虎視眈々とし、機会を伺っていましたが、その時は意外に早く訪れたのです。

何と、会長選出選挙から1ヶ月も満たない時にまた「親の仕事の都合」で彼は転校する事になってしまったのです。これにはラッキーと配下の悪がきと祝杯!とはいかないが、天から降って沸いた政変?にしめしめと微笑んだのです。

そのライバルとの学校生活はわずか1年を共にしましたが、私にとって忘れられない「挫折とライバル」と言う、社会に出たなら避けて通れない経験は、憎っく気相手から11歳でその感覚を得た大きな収穫でもありました。

明日開催される同窓会に京都から栃木県の山間の寂れてしまった街、にやって来るのです。どんな変身を遂げているか楽しみです。
当時、私にとって真剣にそして悔しい思いが残ったドラマの展開でした。
今に思うと「笑えるドラマ」で、何と楽しい思い出かと、そしてその成果は強い私自身を、また初めての経験を与えたくれた感謝に、懐かしさで涙が出る思いです。
人間とは不思議な動物、とつくづくと思うのです。このような趣味人倶楽部と言う狭い領域での人と人との関係、日記であっても群れを生む傾向が・・・

毎日、テーマも決めず、的も絞らず気ままに、思うがままに日記を書いていますが、この日記に於いても面白い傾向が表れています。

私の日記は「日記の概念」と言う基準があり、それから外れたくないと言う信念の元で記されています。

その書かれた日記には、多い少ないは別次元とし「コメント」や「拍手」が必ず付随しているのが、この趣味人倶楽部の大きな特徴です。

日記を読まれた方て
素通りの方、読んで頂いて拍手をする方、そして内容を良く読んでコメントだけをする方、コメント&拍手の両方をして頂く方と、この4通りに分かれます。

その拍手とコメントに何らか「関与」して頂く方には大変嬉しいし、有難い事と思い、常に「感謝の念」です。

素通りしても足跡は必ず残り、その足跡が消えない限り、必ず≪足跡を付けて頂いた方へのお礼≫をしていますので、そのお礼についてのリアクションでも、ある程度の傾向を見計らう事も出来ます。

それはまた別の機会に残し、今回は「拍手とコメント」に絞って、私流の分析を試みました。

拍手〜
多くの方からは沢山の拍手を頂いていますが、その拍手も何度も何度も私の日記を読んで頂いたリピーターと言う方々の拍手が非常に多いのが分かりました。

私のサイトに過去、複数訪れ素通りしたが3回目、4回目と訪れた時「日記を読み」拍手して頂いた方、何度も訪問して頂くがいつも素通りの方、しっかりとコメントで日記に対しての論評なりその方の思考を記す方とそれぞれですが、ここにも足跡の記録から「類は友を呼ぶ」と言う傾向を読み取る事ができます。

私の日記に対してのスタンスを受け入れられない!と思える方は1度訪れ日記を読んだ、拒否的思考の方は再度の訪問は無いと思えます。

趣味人倶楽部の日記は「2000文字範囲」と文字数に上限があり、それをフル活用!も私なりの日記の面白さと解釈しています。

倶楽部での扱い上、ツイッター的要素が強ければ、2000文字などと上限は必要なし、とそしてせいぜい140文字程度で充分であり、日記と言う『語句の表示』も不要と思うからです。

日記と言う概念と、このような背景を理解して頂いた上での、日記を見て頂いた方が反応を示す「拍手またはコメント」のリアクションと認識しています。

さてコメントは〜
この傾向も大変、面白いと言うかコメントして頂いた方の人間性、人柄等と言う特徴をも掴む事ができます。

上限2000文字以内と言う文字数をフル活用しての私の日記、その日記に対応するかのように、その日記に対しての反応もしっかりとその方のアイデンテティを私なりに感じられる「高い見識をお持ちの方」からのコメントが多いと思います。

中には日記で表記した、僅かな文字数をコピー&ペーストでコメント欄に「貼り付け」し、その僅かな文字数をその方の見識で「批判」する方がいますが、これは値もしないと論外!と解釈し、これはこれで「この方の知性」と、しかし、コメントして頂いた事には感謝しています。

これはほんの一例ですが、多くの方は生真面目にリアクションを頂き、有難いと思います。
これも類は友を呼ぶ!と私なりに捉えている部分で、ツイッター的日記にはツイッター的なコメントでの反応であり、またその部類の方々はそれで群れる!と思えるのです。

私の日記概念ではありえない、物事の紹介、相談等を記した内容であっても、その方々の価値観ですので、それもあり!で当然至極、批判はできません。それはそれなりの方々が群れて、類は友を呼んでいるのです。

2000文字上限の日記は、その範囲をフル活用し、しっかりそれ相応にご返答頂く傾向があり、有難い事ですが、そしてその深く味わいのあるコメントは次へのステップに繋がるエネルギーと捉え、全てを「ありがとうございます」の念を頂いていて感謝です。

類は友を呼ぶ!このスタンスは更に進化し、頂いたエネルギー、嬉しい限りです。これを糧にし次への躍動へと結び付けたい。

色々な日記をサーフィンし覗き見して、この私なりの「日記分析」は、
「猫は猫、ねずみはねずみ」そして「カラスはトンビを生まない!」のたとえは正しいと認識です。

趣味的思考、行動を伴う群れる場所「コミニティ」とは大きく趣を異にした、日記であっても面白い傾向が・・・

日記のリアクションにより、それはその人のアイデンテティが大きく左右し、思考が、見識が、知性が、そのレベル高低に比例し、似たもの同志は「類は友を呼び!」そして自然とその類同士は群れて行く。

私の日記から推し計り、訪れた方々からの傾向を基にした≪私流の分析≫でした。
出生と貴重な体験
死と 2010年2月10日に回想として綴る
母のお腹で死と対決
ころは1945年3月、幼き2人の姉妹を連れて買い物に出かけた帰りの出来事、それは東京大空襲の夜でした。その空襲を受けた中心部より少し離れていた巡りに大きな腹を抱え、身重な母は7歳と9歳、2人の姉妹の手ををしっかりと握り締め逃げ惑う。
逃げ惑う最中、周りの人々の多くが風に乗って飛んでくる焼夷弾のかけらをまともに受け、衣服に火が付き地面を転げ回る人、そしてその近くの水場で、焼けてただれた体にそしてその火を消そうと水桶を必死に掛ける人と、そんな光景を後にしてその場から命からがら逃げ帰った話、その時に焼夷弾をまともに受けていてなら母共々、この世に存在していなかったと、その場の難を逃れた母の話を小さい時に何度も聞いた記憶が生々しく脳に焼き付いている。
当時、父は軍の物資を製造していた技術者で、身長180cm近くもありましたが、軍工場の重要な技術者と言う理由で出兵は免れました。しかし終戦と同時に足尾の山中に引きこもり、木炭製造業として生活を営む事になってしまいました。物語はこれから始まる。
(立会川駅周辺はかつて、旧・土佐高知藩 山内家の下屋敷があったことで知られる。土佐といえば、幕末の英雄・坂本龍馬抜きには語れない)
生まれて4ヶ月未満で死に直面
空を見上げると数機の攻撃機が低空で飛来し家の近くの工場らしき建物に突然、機銃照射を浴びせ襲い掛かってきた。それは夏の暑い日、終戦までアト僅か数週間足らずの出来事でした。
私は6歳年上の兄の背に、生まれて4ヶ月も満たない時であっただろうと兄は回想し語りました。
母から私の「子守」を頼まれた兄は家からそれほど遠くない立会い川駅付近に差し掛かった時、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、兄が自分の身の置き所を考える暇もなく、攻撃機の轟音と共に「バリッバリッ」と言う機関銃の銃弾を発射する音を耳にするのです。
とっさに石垣と道路の四隅に身を潜め、背にしている私と兄はその銃弾から逃れるのに必死であったと、その様な死に物狂いの中に、一発の銃弾が私と兄の身体をかすめて、身を潜め、ジッとしているその道路上に「ビシッ」と言う不気味な音を発し叩きつけるのです。兄はこの時、まだ6歳そこそこの幼子でしたが春雄とここで一緒に死んでしまうのか!と覚悟を決めかけたと、私が60歳も過ぎた頃に話してくれました。
私を背負って子守をしながら遊んでいた場所は立会い川駅近くの兵器工場らしき建物で、その土台となっている石積み、高さが80〜100pあったであろうか、石積みと道路の直角部分に身を潜め、ジッと身動きせず堪えていました。
その様に隠した身のつもりであったであろうか、低空で飛ぶ攻撃機からでは隠れる意味もなく、むしろ恰好の餌食で、空から見たら的の一つに過ぎなかったであろうと想像するのです。しかし、無防備で無抵抗な兄と私は、ただただ身動きせずジッとして時の過ぎるのを、機銃照射の雨を止むのを、待つ以外、手立てはありませんでした。
その時間はどれくらいであったであろうか、一瞬の時間ではあったと思いますが、しかし一歩間違えれば死に直結する瞬間で、死との紙一重でした。
兄曰く、随分と長く感じたと延べていましたが、幸いな事に運良くその攻撃機は、その場所に再飛来する事もなく、はるか遠くに飛び去り「ホッ」とするのです。
道路に叩きつけた飛来弾、兄と私の身体から僅か1cm程度の差で「体をかすめた」そして道路に着弾したと言うのです。その弾が私と兄の体に命中していたならば、恐らくこの世にはもう存在していなかったであろうと感慨深く、兄は語るのでした。

私にとっては、これから人生を歩む第一歩と言う、この世に生まれ4ヶ月そこそこの時、生死の境目に立たされていたとは知る由もありません。
記憶に残されている多くの物事は5〜6歳以上になってのこと、頭部の毛が生える部分、半分以上が損傷し、火傷の後遺症として「ハゲ状態」を認識するのも5歳頃、この損傷は生まれつきと心得て、第三者が気遣うほど私は悩む事もなく深刻さは認識せず、天真爛漫にそして無邪気にその事については無頓着に時を過ごすのでした。
その火傷事件、終戦間も無く、都会から奥深い山村に住まいを移し、生活の営みを始めて、私が2歳未満の春先に生じた事件でした。
火傷事件と母の苦しみ
終戦間もないこと、小さな村でも戦争の影響は計り知れない心の傷跡を残し、そこで営む人々の生活は苦しいものがありました。
都会から疎開しそのままその地に居座り、9歳と8歳の姉妹、6歳とまだ生まれて2歳未満の兄弟、そしてその父と母、6人家族のある日の出来事です。
まだ冬の気配から抜けきらない3月のその日はとても寒い日でした。母、千代は2歳未満の春雄が久しぶりに生まれた子供であることで、久しい母性本能の目覚めがそうさせたのだろうか、その子がとてもいとおしく、その子の可愛い眼差しは、もう眩しいくらいでした。
上の男の子と6歳、離れて生まれ、特別な思いを寄せ愛情を注いでいたのです。
近所の美代子ちゃんがハィハィする可愛い盛りの春雄を見にやって来ていたので「美代子ちゃん、一寸だけ春雄を見ててね」と、
まだ5歳そこそこの子は「ハィハィ行動」の乳飲み子と言え、5歳の子にはハィハィするスピードに追いつかないのは母として承知していましたが、
表の母屋から少し離れた水場で、一寸した用事を済ませる為、その美代子ちゃんに春雄の面倒をお願いしたのです。
「春ちゃんウンコして臭い!」と当然オムツをしているが五歳の幼子は正直に母にその事を告げに、春雄から離れ、こちらにやって来るではないか、、母はそれを見るなり、
ウワァー!大変と大声を叫びながらその水場に母を呼びに来た美代子ちゃんを見て青ざめた。
それは一瞬の出来事です。慌てて表の水場から母屋に一目散でつっ走り、駆け戻ったさなかに、「ギャァー」と叫びとも悲鳴ともつかない声がしたのです。
囲炉裏にはまだ寒さが残り、暖を取るために炭と蒔がこうこうと火を放ち、火の勢いも強くその火の威勢の中にすっぽりと、顔は上に向け後頭部が火の中に埋っているではないか!
また囲炉裏に付き物の「自在鉤」には煮い立ったお湯をいっぱい入れた鉄瓶がその我が子の顔の上に掛かっているではないか!
その母の動転ぶりは想像を絶するものがあったに違いない。後頭部が火の中に落ちてる我が子、手と足をばたばたさせながら断末魔の悲鳴をあげ、もがき苦しんでいるその様子を目にし、母はパニック状態ですぐさまその火中から我が子を救い上げたが、時すでに遅しでした。

春雄のハイハイは予想をはるかに超えるスピードで畳の上を進み、美代子ちゃんが母親を呼びに行っている隙に、囲炉裏に落ちたのです。
畳の間と囲炉裏には段差があり、その段差から落下、後頭部だけがコウコウと放つ炭火の中に入っていた!と母の言葉でした。

目に入れても痛く無い、愛する我が子が、火で皮膚が焼ける独特の臭いを放ち、そして焼けただれたしまった後頭部は真っ赤に火となっている炭が付着し、それを手で払い退け、
必死でその後頭部を撫でるのでした。この撫でてしまった行為が後日、思いも寄らぬ事を引き起こすとは・・・・・
母は自分の不注意で、また5歳も満たない近所の美代子ちゃんに我が子を見てて欲しいと安易に頼んだのが、どれほど後々まで悔やむか、その時はまだ気が回りませんでした。
焼け爛れたしまった我が子の後頭部を見て、悲しみに暮れ、そして遊びから戻った2人の姉妹と兄は母の泣き姿と悲しみくれる容易ならぬ現状を見、「春ちゃんが死んじゃう」と一緒に泣け叫ぶのです。
母、2人の姉妹、そして6歳の兄、起きてしまった事はどうにもならず、しかし幼児期の中でも一番かわいらしく愛くるしい時期、母は3人の子供を育てた経験から「ハィハィのスピードが早く目が離せない」と知り尽くしていたはずが、自分の不注意でもたらした責任に苦しむのです。
後日、母の言葉は、余りにも春雄が可愛そうなのでいっそのこと一緒に死んでしまおと、何度も考えたと述べていました。
それは春雄が治癒する段階に於いて、後頭部の火傷が「やけど跡」として毛髪が生える見込みが無く、後遺症とし「ハゲ状態」は避けられないと医者に告げられていたからです。
火傷は本人に知る由もない、本来あるべきツムジを中心に後頭部2分の1は焼けただれ、親は何とか治そうとあらゆる手段を講じ、最後は祈祷師にと、その親の対処の努力にはすごく感謝するのみである。
しかしそれは組織が破壊され傷が治癒した時は、火傷独特の光を放ち、どう見ても「頭にお皿」が載った状態と、まるでカッパであった。
幼少期を知る多くの近所の方々は、その傷跡のお皿状態を見て、余りの気の毒さに同情し、母と一緒に泣いていたと聞かされました。
この傷は春雄に一生、付きまとい離れない!と思うと、我が子が成人しその時の悩みを察しそのつらい母の心、それは言葉では表せないほどの我が子に対して、申し訳なさと、自分の責任を感じるのです。
幸いな事に、その我が子は天真爛漫に育ち、そんな傷、何処吹く風かと、気にすることも無く、元気に健全に育ち、それが母にとってどれだけ救われたか、これは後日、母の談でした。

20歳頃からはこの傷に悩み、治そうとパワーを全開し、傷の修復に取り組むのだが、大変、お金のかかる事で、この治す裏にも秘めたドラマが・・・

現在までにその悩みでつぎ込んだ累積はら3000万円以上ほど、丁度、家一軒分に相当するくらいお金がかかってしまったが、今思うと「アホな事にお金を費やしたなぁ〜」とその事だけしか残っていません。
超越の心境では、そんなハゲどうでもいいことで、何でそんな事に悩んでいたのだろうとその悩みもアホらしい、と思うのです。
終戦6年目〜1951年6歳
1951年(昭和26年)春雄が6歳の時、一番上の姉は中学校を卒業するとすぐに母の友人が経営する理髪店に住み込みでお手伝いさんとしては働きに出てしまいました。兄は小学校6年生、2番目の姉は中学校3年生、まだ幼稚園も保育園も無い時代です。
父や母は木炭生産業と言う職業柄、山中に篭もり、弟は乳飲み子で母の手から離せません。その3人は山中の山小屋を仮住まいとして生活を贈るのです。
終戦6年目、社会全体が食べるのにやっとの苦しい経済状況、国民全体が耐乏生活を強いられてその中でも貧乏の筆頭が我が家ではなかっただろうかと当時を振り返るとそう思えるのです。
しかし、物資やお金の無い時代でしたが、人々の多くが人としての思いやり、優しさ、気配りと更には高い志を、現代人のように失う事無く「人間味に満ち溢れた豊かな心」を持ち合わせていました。
その心豊かさを垣間見、象徴する生活を私は6歳の時に大変貴重な体験するのです。

私と姉、そして兄は親とは離れて平地にある住まいで生活を共に過ごすのですが、姉や兄が小学校や中学校に行ってしまうと6歳の私が一人取り残され、それでは私の事が心配!と言う理由により、時には姉の中学校へ、そして別の日には小学校6年生の兄に連れられて小学校へと未就学前の私はそれぞれ別の日に学校へと足を運んだのです。
鮮明に記憶していますが中学3年生になる姉の机の横に私の机が、そして小学校6年生の兄の隣りにも私の机が置かれ、兄や姉の1日の授業が終了までその横にある机で静かに絵本を見たり、ひらがなの練習をしてりして、1日を過したのです。勿論、小学校も中学校も位置する場所の方角は異なり別々の所にあるのですが、私の家庭事情に考慮し、学校側や兄、そして姉の担任教師の計らいで受け入れて頂いたとッ理解しています。
同じ様な環境の生徒は、私の兄や姉以外の生徒は見当たらず、学校側も放って置けず特例として当時は許された処置と考えますが、それ以前に「人として心温まる特別配慮」が優先されたと思っています。これには親も学校側に深く感謝していたと思われます。別の側面から私の家庭状況が学校側を動かすほどの「同情論」が働き特例と言う現実があったと推察します。
私は兄や姉に連れられて一緒に学校へ行くのが嬉しくて嬉しくて、楽しかった事ばかりが思い出されます。
兄や姉の学校へどのような間隔で通ったかは定かでありませんが、しかし、物静かに大人しくしノートに文字や絵を書き、又、飽きてしまうと校庭の砂場で砂遊びなどをしていました。
机に向って文字や絵を書くノート、鉛筆、消しゴムも兄や姉の担任教師が私にプレゼントでした。
この頃より物に対し「大切に扱う」という習慣を身に付けたのだろうと、先生に頂いた大切なプレゼント、大事にしなくてはと言う意識、そのノートに何度も何度も書いては消し、書いては消し、その繰り返しでノートは汚れ真っ黒になり擦り切れるほど使いました。
そんな様子を見た兄や姉の担任教師、見るに見兼ねて
「ハイ春雄ちゃん、新しいノート、プレゼント」と、私は嬉しさの余り、目に涙をいっぱい溜め、泣き出すのをこらえながら「先生、ありがとうございます」としっかりと答えるのが精一杯でした。
このような嬉しい記憶、感動として心に残り、今でも感謝の念、忘れる事はありません。
現代ではあり得ない事かもしれませんが、それは時代が許した行為であり、人の心の温かみが溢れていた時代でした。
まだ未就学の子供が兄や姉に連れられて一緒に学校へ行き、机を並べ授業を受けている、この状況を見て兄や姉のクラスメートは好意的でイジメや意地悪する子も存在しなかったのです。
私の場合、頭に大きなハゲがあり、カッパ頭が幸いしたのでしょう。子供社会の中であってもそのハゲには誰も触れず、授業の合間の休憩時間、一緒に遊んだり、話し相手に付き合ってくれたりと楽しいひと時を過せました。
ツムジ周辺を頭部の3分の1程を焼失、その火傷痕の後遺症、光を放ちハゲておりヘアースタイルもおかっぱ頭、見た目もどう見ても「カッパ」であったにも関らず、誰一人として私の心に傷を付ける言葉を発することなく温かく見守って頂いたのです。
子供の特性は、見た目で感じた事を正直に言葉で発し、その言葉で誰が傷が負おうがお構いなしの辛辣性がありまたそれが子供で、私はそのような心に傷を負う経験を得ませんでした。
兄や姉のクラスメート、その学校の生徒達はカッパ状態の頭を目にして、同情で優しさや思いやりを優先させたと言うか、当時の子供たちには「温かい人の心」が備わっていたと思うのです。

国民の生活は苦しく全体的に大変、貧乏でしたが、当時、子供であっても「人の優しさ、思いやり、心の痛み」は充分過ぎるほどに理解していたと、この時の過した生活を振り返りその様に思っています。
私自身、物心がわかる頃にはいつもニコニコと、人に何を言われようが嬉しそうに笑顔を振る舞い、この6歳頃より私なりの処世術が生きる手段を、イジメや意地悪されない処方が、備わったのだろうと想像します。
優しい人と人との営みの経験、人が大好き!と人を信じ性善説が芽生えたと思えるのです。多くのことを教えて頂いた多くの方々、その方々が私にとって人を信じる要の基であり、この65年間、人に騙されたり裏切られたりした意識は無く、人は信用するものと常々、思っています。
しかし、裏切られたり騙されたりしていたが、生まれつきにして楽天主義、嫌な事は一晩だけ苦しむが、それ以降は忘れてしまうノーテンキ性がもたらした「おめでたい性格」私にとっては都合の良い性格と思うのです。
人の多くは心温まる方々と、そして人は誰でも信用し疑念を抱かず接する!父から教えられた「人として生きていく為の教義」それは大切な教えの財産と心に染み付いています。
頭部3分の1の火傷、その後は・・・・
時はは1955年、父親の仕事の関係で、生活環境が現代の青森県白神山地と同じイメージの場所で時を過ごすのだが、ぶな等の落葉樹林を原資として父親の職業「木炭製造業」と言う専門職を営む山小屋から学校へ通う出来事である。
小さな校舎は夏の終わりの時期にやって来た台風の影響で、校舎全体を揺らし、その窓枠は「ガタガタ」と音を立てていた。都会の学校であれば8月いっぱいが夏休み、まだその休みは続いているが、山村の小さな小さな分校では、すでに2学期は始まっていた。
冬の降雪量が多い寒冷地や地方の学校では冬休みが長い分、夏休みが短く、8月21日が2学期のスタート、始業式となっている春雄は、本来、生徒数が100名ほどの小規模小学校に在籍しているのだが、父親が木炭製造業と言う職業の関係で、その小規模小学校より更に小さな分校へ、1年間だけ転校して来た。
この物語物はその小さな小学校が舞台で、その中心にたくましく生きる少年、春雄が主人公でもある。
2学期が始まったばかりの8月末日、今日の最後授業が終わり、一斉にその学校の生徒は帰宅する準備をしていた。全校生徒数が50名も満たないその子供たちの殆どが、学校周辺に自宅があり、子供の足で歩いても30分以内に自宅に帰れると言う生徒ばかりであった。
そんな中に一人だけ不安そうな表情をし、今にも泣き出しそうな子供がいた。校舎の表玄関で、帰宅する準備で忙しく動き回っていた生徒を見守っていた先生の一人が、その不安そうな表情の生徒を見落とさなかった。「春雄君、どうしたの?」とその先生は春雄少年に尋ねたのであった。
山村の小さな小さな小学校。48名の生徒数で成り立ち、クラスも2組だけ、そして教師も校長先生を含め、たったの3名。低学級は「1年、2年、3年生」とそして高学級は「4年、5年、6年生」に分けられ、2クラス編成。校長先生は他の教師2名のそのサポート役で、2人の教師がそれぞれの「低」「高」の学年クラスを受け持っていた。
春雄は4年生であった為、4年生、5年生、6年生が一緒に授業を受ける高学級で、その担任教師は大沢と言う女性の先生であった。不安な表情の春雄は
『先生、川の丸太橋が台風の雨の増水で、流され、山の家に帰れない』と半分、泣きべそをかき、訴えていた。朝、登校時は晴れて青空が覗き、台風の気配など少しも感じる事はなく雨などは気にも留めなかった。しかし午後に入ると一気に風は強まり、それと同時に激しい雨が降り続いた。
春雄の頭の中は、そんな風雨に揺れる窓を気にし、その窓に激しく打ち付けている、なぶりかかりの降る雨を見つめながら、もう授業どころではなかった。
10歳の子供にも丸太橋を渡してある「川」は氾濫し、その橋は流さされていると想像出来た。川の両岸の大きな石と石の間に渡した簡素な橋、2本の丸太で造られ、その橋は春雄とその家族にとり、学校へ通う唯一の手段であり、その家族の生命線でもあった。
春雄はこの雨では橋が流されている、どうしょう、とあせりに似た心の動揺に、いても立ってもいられないほど、ソワソワと落ちついてはいられなかった。
親と弟がいる山小屋に帰れない、帰ることが出来ない場合の事を考えると、心細さと不安だけが頭の中を占拠し、もう授業どころではない。
最後の授業が終わり、ランドセルの中に教科書を入れ帰り支度しながら、同じクラスのみんなが「春ちゃん、また明日ね」と声をかけるのです。皆からの帰りの声を上の空で聞きながら、靴のある下駄箱が置いてある玄関に向うのであるが、表は風も雨も更にその激しさは増すばかりであった。
「帰れない、どうしょう、どうしょう」と気はあせり、心の中はもうパニック。もう半分、泣いているが元来の負けず嫌いな性格は、そんな泣きべそ顔を見せまいと必死であった。
それを見透かしたように、玄関先で生徒の帰りを見送っていた校長先生が、春雄に優しく声をかけたのである。
「春雄君、どうしたの?」春雄の心細そうなそして悲しそうな顔を見て、いち早くそれを察し、またその生徒の細かい心の動きを見逃さず、その子供の心を読み取るのであった。
人一倍負けず嫌いな春雄は、人前では泣き顔を見せまいと必死にこらえたいたが、その校長先生の優しい眼差しが伴った言葉に、思わず嗚咽と同時に小さな小さな声で『か細く泣く』のであった。
春雄にとってその一言がどれほど嬉しかったか、頼りになったか計り知れないほどの希望の言葉であった。「春雄君、大丈夫!心配しなくても先生の家に泊まれば良い」と思いも寄らない、そして予想もしなかったその言葉に春雄は、抑えきれないものがこみ上げて来るのを覚えた。
山の生活の大きな出来事
住まいとしている山小屋から学校までの道のりは7`もあったでしょうか。毎日の通学路として、片道7`の往復は10歳の子供に決して楽な道のりではありません。しかし、季節の移り変わりで、その環境の自然がもたらす恩恵、その美しさは脳の隅々まで焼き付き目を閉じ思い浮かべればその情景、走馬灯の如く映し出され流れてゆくのです。

7`の道のり、その山深い中ほどに若い夫婦が営む炭焼き小屋があり、その夫婦は私に何かに付け気を止め、色々と施しをしてくれるのです。共に30歳の後半であっただろうと想像しましたが、ただ鮮明に記憶しているのは美男美女で都会的雰囲気を漂わせ、身につける服装も、奥深い山中で炭を焼く職人とは似てもにつかぬおしゃれな夫婦でした。
子供にながら大人になったらあのお兄ちゃんのようになろうと憧れでした。

「春ちゃん、学校帰りに美味しいお菓子があるから寄って!」と朝の登校途中、大きな声を張り上げて鼻歌を歌って通る私の姿を見かけると声を掛けてくれるのでした。
当時、大変な貧乏社会でそれぞれの生活は大変であっただろうと思うのですが、私にはその貧乏の実感が、体験がほとんど無く、又火傷の後遺症で頭に「お皿」と形容しても不思議でない肉体的損傷は、人々の同情を誘い、多くの大人は優しく包み込み労わって頂いたと言う恵まれた時代でもあったのです。
人の優しさの情感だけが私の心に深く刻まれていました。

体質的に楽観主義で嫌な事は全て忙殺すると言うこの特性、ポジテブ的な事柄だけが記憶されるご都合主義、カッパ状態の大きなハゲであってもヘッチャラさ!と、そのたくましさも手伝い、屈折した心が潜まず、歪まなかった大きな理由と思うのです。

通学する山道と言っても道無き場所に道をつくり、沢沿いに木炭、薪、木材を運び出すためにソリ道を、そのソリ道を利用しての通学です。
トレッキングや登山とメジャーなスポーツとし現代は定着してますが、その愛好家が歩む整備された登山道とは大きく異なり、簡易な荷物搬出路なのです。
ソリと言われる梯子形状に物を載せ、それをソリ道に滑らせ山奥から運び出す道具ですが、ソリを操る技術者を「ソリ師」と呼んでいました。
高額な報酬で木炭、薪、木材を山深い山中から運び出す仕事を請け負い、時には事故で命を落とす事も度々あり危険な職業でした。
ソリ師は谷に簡易な桟橋形態の橋をかけ、その上にソリを滑らせ運ぶのですが、その桟橋は数十メートルの高さになる事、しばしばです。
そんな高さの桟橋を利用しても通学ですが、当初はその高さに怯え、4つんばいで這いつくばっての歩行はその高さに慣れるまで当分続くのですが、数日も経過すると恐怖心は薄らぎ2足歩行が出来るようになるのです。
何度かその桟橋の隙間から落下し、今でも高度恐怖症はその時の記憶がトラウマとなり要因の一つと考えられます。

通学途中で声をかけてくれる若夫婦のそのご主人、炭焼きもしながら「ソリ師」でもありました。
ある時、学校帰りにその夫婦の小屋は私の父や母、そして山仕事の仲間、ソリ師、炭焼き職人、木こり、などの多くの人が集まっていました。
小屋の中からは聞き覚えのある悲しみに暮れた泣き声、嗚咽が聞こえてくるのです。子供であっても「これはただ事ではない」と察し、そのうち状況が把握でき、私も声を揚げて泣き、悲しみに引き込まれていくのです。
今朝、「春ちゃん、帰りに寄って」と思いやりと優しさを滲ませ声をかけてくれたばかりのあの憧れの人が、死んでしまったのです。
この衝撃的な悲しみは10歳にして初めての体験、それはショックで数日、涙があふれ出て悲しみに明け暮れるのです。
今でもあの時を思い出すと涙腺が緩みウルウルとしてしまいます。その死に方も大変、悲惨で、ソリで木材を運び出す途中の事故でした。
ソリには必ずブレーキの役割を果たす丸太が取り付けられ、ブレーキはソリ道に沿いワイヤーロープが張りめぐらされ、急坂や滑りやすい箇所、より危険な場所に差しかかったとき、ソリに取り付いた丸太にワイヤーロープを巻き付けてソリにはスピードが出ないように速度を制御するのです。
憧れの若きご主人は、ブレーキの役割を果すワイヤーロープが切れてソリの下敷きになり、首の骨を折って「即死」と聞かされてのです。
この事故は10歳の私にとり後々まで尾を引き、なかなか立ち直れず、父のこの地域の山の仕事が完結するまで悲しむのです。

本来、平地にある自宅から、通う小学校に戻るまでその悲しみは心の傷として残り、その小屋の前を通ると自然に涙が溢れ出るのですが、若夫婦のご主人が亡くなって間も無く、その小屋は取り壊され、美しい奥さんの姿を見ることもなくなり、平地の小学校に戻った頃には、本来の元気な快活な姿に回復するのです。
おしゃれでどこか都会的なあの若きご主人、憧れであったイメージは成人となっても私の心の中に生き続け、その感性と人としての優しさは、大きく影響を受けたのです。
美意識と言う感性、その方に養われたと言っても決して過言ではありません。現在の自分の装い、仕草にしても「かっこよく活きる、かっこよく振舞う」と言う哲学、学ばさせて頂きました。

台風で山小屋に帰れず校長先生の住む官舎に5日間、泊めて頂いた事、そして山奥で出合った美しく知的で都会的センスに溢れた若夫婦、小学校4年生、10歳と言う感性豊かな年齢の1年間の出来事でしたが、これは「人情」と言う人として最も大切な部分に触れ、そして体験した貴重な1年間、今は亡き父に母に貴重な時間を与えた頂いた事に深く感謝し、声を大きくして「ありがとう」と叫びたい。
続く
ほんの触りの波乱万丈人生!61歳で離婚、そして63歳で再婚・・・ドラマはこれからです
もう昔からですが、何と言っても楽しい事、それはバイクや車のメンテで手を油で汚し、その汚れた手で顔を拭いて「汚れた顔」を、一向に気にしない時間が私にとっては、至福の喜びタイムかも知れません。

ある夏の暑いさかりに、朝早くからバイクのエンジンを分解し、食事もせず「夢中」になり、熱中症で救急車騒ぎを起こし、近所や周りの方々に迷惑をかけた事件がありました。
またあるときは電動工具の使い方で油断し、大怪我を負う事もありました。

そんな事もあり、それらに熱中する時は必ず、慎重に慎重を重ね、休憩や食事、水分をしっかり取る習慣をつけるようになりましたので、最近はそんな愚かさはなくなりました。

こんな車やバイクのメンテが仕事とし、生活の糧となると、話は違ってきます。これは趣味として楽しむから「夢中」になれるのです。

好きこそものの上手なれ!と言いますがやはり好きですと、どんな困難でも克服して「技術」とし、意識せず身についてしまいます。

過去にはフェラーリのメンテも平気で自分で行っていました。多くの方は自分でいじったりすると壊してしまうのではないかと言う「恐れ」で、フェラーリなどと言う車のメンテを自分でやってしまう方は、ほんの僅かな一握りの極少派です。

私は基本的に昔の車は壊れないと信じており、壊れてもすぐ直せると言う自信で、高速道路を利用し遠乗りドライブや旧車イベントに出たりし、楽しみの一つにしています。、

またそれら旧車の大きな特性であり、所有する楽しみが増える要因になっているのだろうと、自分流に解釈しています。

私の旧車と言う概念は、コンピューターが搭載した車両か否かで区分けして、コンピューターが搭載せず、電気系も全てアナログで作動する車が「旧車」と思っています。

コンピューターが搭載され始めた1990年代前後からの車はすぐ壊れ、1度壊れたらすぐ直す!という訳にはいきません。

多くのパーツがそのコンピューターと連動しているが為に、経年で1個のパーツが壊れだすと、あっちのパーツ、こつちのパーツと、連鎖的に不都合が起き、発生が始まるのです。

電気信号にてその搭載コンピューターとアクセスしている関係により、何処が傷んでいるか、不都合が生じているか、判明しにくいので、1990年代以降の車は単なる「足」として所有し、趣味としては興味が半減しています。

ただポルシェと言う固体は別格で、あの独特のイデタチが大好きにより、蛙目の最終型「カレラ2」を楽しんでいます。

これもフェラーリ同様、全てのメンテナンスを自分で楽しんで、一切、デイラーなどの専門店にお願いしないのを自慢にもしています。

購入してから走行距離も7万キロ近く走り地球を2周した計算になりますが、何らかの特別なメンテするが為の道具や計器を必要とする場合を除いて、不都合箇所の発生は自分で治してきたのです。

1989年式のフェラーリも2年間所有しましたが、この間に「2万`」走行し、自分で色々と手を入れて楽しんだのです。

これらの様子は全てWEBサイトに於いて公表し、この車を愛する方々の多くに情報として提供しています。

ここまでに至るには、沢山楽しみながらそのノウハウを積み重ねて得た知識、技術は計り知れないほどの量ですが、これも復習するように、何度も繰り返すその現象を捕らえて体験せねば、忘れてしまう場合もままあります。

趣味で楽しむ場合と、プロとし生活の糧の為の手段の修理とは、この辺に大きな差があるものと思っています。

アマチュアは何度も繰り返す修理は少ないが、プロは複数の車を見る事が多く、何度も繰り返し、体でその不都合箇所修理を身につけてしまうところがその「差」と思っています。

古い車の一番の要点は、サスペンション関連に腐りや傷みが激しい固体は、どんなに外観が綺麗でも敬遠するのが鉄則で、まずは下回り「車の床」を良くチエックして見届ける。

これさえ怠る事無く、見逃がす事がなければ、よほどのことが無い限り「魅力ある固体」と、自分が求めていた最終アイテムと遭遇した場合などは手に入れてしまいます。

後は自分で不都合箇所を楽しみながら時間を掛け、仕上げて行くのがこれまた楽しいのです。

最近は殆どその様な魅力ある固体が世に出回らなくなり寂しいかぎりで、出て来い!出て来い!池の鯉!と首を長くして待ちわびているのですが、おいそれとは出なくなってしまった。

出た!と喜ぶ暇もなくそのプライスを見ると予想をはるかに超えた価格が付けられ、とても手が出せるシロモノではありません。あ〜あっと出るのは≪ため息ばかり≫です。

写真は今は亡き?面白旧車の2台でした。

若きときに夜も寝ないで仕事をし稼いだ「ご褒美」で手に入れたシロモノ。今はその自己修理で維持し殆どお金掛がかからない!ね。
我が家からイオンショッピングセンターへ約1時間以内で行けるお店が4店舗あり、他系列店が2店舗、計6店舗です。

群馬県高崎市、大田市、そして埼玉県羽生市、上里町、の4箇所、更にはイオン系以外の同じ形態のショッピングセンターが2箇所、それは群馬県伊勢崎市、埼玉県東松山市に位置しています。

この6店舗を時間が許す範囲で買い物、ウィンドショッピングやレストラン街での食事、そしてカフェと楽しむ事が多いのです。

ちょっとしたドライブでは「軽井沢へのアウトレットショッピングモール」も、高速道路を利用しこれも約1時間での距離。
しかし、最近の土曜日、日曜日のETC1000円割引で関越道花園インター利用者でも、高速道路の渋滞はウンザリ、土、日、等の祝祭日利用は敬遠気味で、一般道での軽井沢行きが多い。

昨日10日はイオン系のショッピングセンター羽生店に出かけたのですが、これは驚いた!

午後2時頃に家を出たのですが、本来なら3時には店内へと、ところが店舗駐車場まで僅か1キロと言う場所で渋滞を起こし、車は殆ど動く気配なし。

信号機が変わっても動かない状態は、その駐車場の空きが無く、糞ズマリ状態。

仕方なく「我慢」で、その場所から少しずつ動いて駐車場までは1時間ほど掛かり、やっと駐車場へ入る事が出来たのです。

ところがその駐車場、今度は止める空きが無く、駐車場をウロウロと、ウロウロ始めてすぐにタイミングよく空きが出来、ようやくその位置に駐車です。

時計を見ると4時10分ほどでした。本来なら3時には店内と、ところが今日は1時間10分も余分に時間が掛かってしまいました。

駐車場も約4000台弱止められると言う大型ショッピングセンターは店内に入り、これまたビックリ!
大変な人でごった返していたのです。

この店には1年ほど前の「新規オープン日」にも訪れましたが、その開店日よりもはるかに多い人、人です。

店内に入れば、イオン系でなくても殆ど、出店されるテナントは一緒であまり個性の無い店舗構成、どこも金太郎飴的店内ですが、便利である事は事実で、その結果の人だかりが証明する集客力、10日は3連休の中日、この様相です。

牛に引かれて善光寺!よろしく「かみさんに引かれてイオンショップ」!と、私も人が多いところは「嫌い」でありませんので、1,2週間に一度のペースでどこかのショッピングセンターには出没し、食事、買い物を楽しんでいるのですが今日は異様な店舗店内。

色々と目的を果たし、レストラン街で食事をしながら店舗の外を見るとこれまた驚きで、帰りの車が駐車場から出ようとするのですが、今度は駐車場から出る車が「渋滞」です。

これは当分、店内に留まり多くの方が帰った頃を見計らい、駐車場へ向うのが得策と、午後8時過ぎまで過ごし、楽しんで帰って来ました。

かみさんは、と言うか女性の多くはショッピングセンターが大好きのようで、私もいつの間にやら、かみさんに感化され、金太郎飴的店舗について「批判的」でしたが、何度もそれぞれの店舗を訪れるうちに、その良さを思い知らされ「なるほど、便利だなぁ〜」と認めてしまう今日この頃です。

ただ金太郎飴的商業施設は、それが衰退したとき、スクラップアンドビルドで見る影も無く、空しい幽霊ビルとなってしまう。

今、シャッター街と言われる旧商店街通り、この金太郎飴的商業施設の影響をモロに受け、そのシャッター通りは更に加速してます。

イオンショッピングセンター等の施設で、快適便利を味わっている裏には、再起不能状態に陥っている「悩める商業施設」も存在していることを知らねばなりません。

しかし、それを知っても、私を含めささやかな庶民の楽しみ、レジャー感覚で家族で訪れ、有効に時を過ごしその社会的役割も大変大きく、その功績は万人の知るところです。
孤独、大嫌い!2010年10月10日
バイクの倶楽部を立ち上げて26年が経過しました。

ホームページを立ち上げて14年経過し、そして倶楽部設立以降、月1度の会報を発行しこの10月号で≪253号≫を迎えました。
この会報もパソコンの無い時代は「手書き」で味のあるものでした。51歳でパソコンを覚えてからは「ワード」を利用して、A4サイズの両面にプリントアウトし発行です。

我が倶楽部は正式に「ハーレーなかよし倶楽部」と言うのが発足当時から使用している名称で、ネットでは「晴旅人尊塾」としたネーミングでウエブサイトにアップしています。

どんな倶楽部かはこのサイトを開いて頂いて
http://www.ne.jp/asahi/azu/sin/tabiltutosonnjyukut..

オートバイの倶楽部とは、本質的には四輪と異なり、それなりの危険なリスクを伴い、そのリスク回避には、常に「安全性」が求められ、それはその極みの走りが絶対条件なのです。

所詮「遊びの世界」でもあり、究極の趣味人倶楽部なのです。そんなジャンルで起きた交通事故など、誰が褒めてくれようか、批判はされた上、家族や仕事先に「大迷惑」を掛けるのが落ちなのです。

26年前の倶楽部設立に当たって、この辺を充分に加味して倶楽部規約が練られたのです。
その結果、走りに対して「拘束力」を強めた規約が作り上げられたのは明白、私としては満足であった。

最も、全ての倶楽部運営は独断と偏見?で一人で仕切り「北朝鮮並みのワンマン独裁体勢」で、この26年間、通して来たが、ただ会費を徴収している関係で、会計担当だけは、役員として存在するのです。

それ以外はキャプテンとして会長としてこの26年間、君臨してきたのです。その間、何度も放棄したい衝動にかられ、誰かに引導を渡しその立場から「退きたい」と、発してきたが一向に私の後釜に付こうとするものが無く、現在に至っているのです。

もうここまで来ては、私が死ぬまで「面倒見よう」と自分に誓い、誰かに引導などと姑息な考えを持たず、今まで通りに私流に運営しようと心に決るのです。

もともと、面倒を見ることは好きではなく「人が好き」と言う理由で色々とグループ立ち上げました。

在宅勤務のフルコミッション企業に30年ほど籍を置き、その間、その会社の仕事をしながら、他に2〜3ほどの別の収入を得られる仕事も持ち、身体をフル稼働して活きて来ました。

そのフルコミッション企業では、どうしても一人で企業活動するが為に、業績不振で悩んでいる仲間を何とか励まし、アドバイスをとその勉強会を目的とした「琢磨会」などと言うグループ立ち上げ、活動をしました。

30名近いメンバーで構成され、休みは宿泊代が安い公共の宿専門に選んで「宿泊勉強会」をと、これも私の独断専行の「独裁」でした。

しかし生活が掛かっているが為にメンバーは真剣に加わり、業績アップのケーススタディ、事例には耳を傾けメモを取り、必死でした。

懐かしい思い出ですが、先日の日記に表した「同窓会の代表幹事」もしかりです。
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2448741&oid=14051..

こんなことを繰り返して、夜も寝ないで取り組んで来ましたが、元々「睡眠時間は3〜4時間」が中学生の頃からの習性である為に、都合が良いのです。

多くの方が就寝中、余分な事を好き勝手に自分流に「楽しんで取り組む」のが、これまた「趣味」と言えるのです。

何事も「原理主義」で、筋の通らない事に対しては常に「正論」で立ち向かう姿勢、これは、オヤジが正義とは!常々と言っていたことが、どこか脳裏に焼きつき、その影響が大きいのです。

その原理を説き理解を得て、また求められていた物事が共感され、そのグループ立ち上げに、多くの仲間が「共有する問題」として納得賛同で参加されたと思うのです。

ハーレーダビットソンの同好会=晴旅人尊塾、同窓会の杜=原のこ会、そして勉強会=琢磨会と、人は何かあると必ず、グルで共有し合い助け合うと言う、習性があるのかなとつくづく思うのです。

世の中の狭義な世界の話ですが、そんな中で誰かが音頭を取り引っ張っていかない限り、そんなグルは運営も協力も得られないのです。

当初は個々が何処の誰べえかも知れないクループであっても、その音頭取る人物の人柄が大きく左右し、その人物は目に見えないところで、努力せねばならない宿命を背負う事になるのです。

私の場合、時間的にも寝ないで済みまた会報作成や企画立案と、ちょこまかとフットワーク軽く「ものぐさ嫌い」が功を奏し、これも天性かなと自負しています。
なんでも「楽しく、楽天思想」と、世の中、楽しい事ばかりでこのノーテンキが良い効果を生んで要るのだろう思うのです。

自画自賛の日記でしたが私は人が好きで「孤独が大嫌い」なのです。

バイク一人旅?とても寂しく耐えられません。
専業主夫業のほんの「さわり」です 2010年10月09日
かみさんと生活観がまったく異なり、当然だが「消費は美徳の世界」、私は節約やケチが美徳で育った背景。

経済観念など意識せず、のびのびと育った「お嬢さん女房」は天真爛漫、私の娘の感覚で毎日の生活、どうしても専業主夫としての役割を果たさざるを得ないのです。

しかし、これは私の意として決して苦痛でないところが愉快なのです。

37年間、連れ添った前妻の場合、主婦が専業で、私は何もせず仕事に専念であったが、その当時と比べたら「大変化」です。

儲からない自営業であるがその会計、そして家計簿と全てを私が行い、当然、家計の全ても私が受け持つ、過去の私の生き方から考えられない程の変わりよう。

これが以外に楽しいのです。

スーパーマーケットでの買い物も新聞の折込をチエックし、どんなものを買うか、そしてどんなものが安いかとお店の見比べ、時にはそのスーパーの開店間際に数限定商品を購入しに行く、などは朝飯前。

朝の洗濯は全自動洗濯機で、乾燥は干す事が基本、その干す事はかみさんの役割、私は朝の掃除機で掃除を行う。その前に「はたき掛け」も怠り無くです。

ガス給湯器の種火を昼間にはガスは使用しないので「種火を消す行為」を知らないかみさん。

部屋の電気を消し節電も知る事無く育つた習慣は、押して知るべしで、大きく異なる生活習慣。

ケチと節約が美徳!が社会通念とそんな真っ只中で育った習性は、どうしても行動で示して教える以外手は無いと悟り、全ては私に「任せなさ〜い」と言わんばかりにちょこまかの行動となるのです。

娘と同じ世代の女性をかみさんにした場合の生活は折込済みで、何の疑念も持たず、粛々と≪専業主夫≫に変身なのです。

一時期、かみさんは務めていた関係で、殆どの家事一切は料理も含めて全て私が仕切っていたが、勤めを止めその後は≪料理だけはかみさんの役割≫とし、それ以外は私の役割なのです。

今までの生活が一変したが、これが実に楽しいのです。

自分でつける家計簿の推移を見て、毎日の支出する数値の変動がこれが実に面白い。

1ヵ月毎の集計でその変動数値分析が楽しいのです。

最も買い物も、掃除機かけも、全てが新しい発見で、フットワーク軽く、次から次へと、次は何をしようかと頭の中は、次にそしてその次にといつも次への行動で頭は一杯、これが次から次へと休む暇なく、考えが湧き出て、楽しくなるのが不思議です。

我が家のかみさん、
自分をいつまでも美しく磨く事に専念し、最低限の事をやって貰えれば良しと、いつも思っており、それは娘の年代をかみさんにした宿命とそして私の義務と自覚しているのです。

そのお陰で私自身が、暦年齢以上の若さを保てる秘訣であり、かみさんの私に対する貢献と心得るからです。

私もそのお陰でフットワーク軽く毎日の行動が健康健全で、衰える事無く人生120歳!にプラス貢献と都合よく解釈しています。

いつもの口癖
食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしないの三ナイ主義は「健全健康、長生きの秘訣」と呟き、実践なのです。

思考が前向きで嫌なことも楽しく変える!この精神は恐れを知りません。いつもどのような事も「良き方角」に仕向けて行くのが私の特性。
この専業主夫業も私の天性かなと、最近思うようになり、更にパワーアップし磨きを掛けようと思っています。

歳の離れたかみさんとの生活観話題は山ほどあるが、おいおいと日記で「楽しい生活」をアップして行こうと、思っています。

また私と同じような環境下で、発想の転換により趣味にも通じる「専業主夫」さんが存在したら、如何でしょうか?

専業主夫業が「趣味」として楽しんで要ると言う意味です。

また男性諸君の己の生活感は如何でしょうかと、この際、チョットだけ主夫業に踏み込んでみてはと・・・・

理屈は馬鹿でも言えますが、要は己の行動を振り返って見た時、どんなもんであろうか?と。

あえてフットワーク軽くは、病気ならない為の「医者不要!」
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2419145&oid=14051..
の一環行動の一つと捉えて楽しんでいるのです。
考えているよりも「まず行動」と生活信条の一つです。

良き食生活習慣も当然ながら、主夫業は精神面での免疫力アップ!と私流思考と、生き方ではなく≪活き方≫です。
ハゲ攻撃、これいかに・・・・2010年10月08日
時々、私に対してハゲ、ハゲと攻撃を仕掛け、挑発される事が多々ありますが、結論から申しますと挑発にも乗りませんし何の効果も得られません。

この頭形は一番の肉体的優越感が得られる唯一の部分だからです。
日本人頭形は民族的遺伝子特性として、欧米人と比較し元来、頭の骨格が「カッコ悪い」とされ、その中では比較的見栄えがする形をしているのが「私の頭」と思っていますし、多くの方からも形が良いと評されるからです。

何も着飾らない「無垢」な頭はその骨格が丸見えです。同じ条件で無ざまさ!と美しさ!見比べ競って見たい!

私にハゲ、ハゲと中傷的表現で攻撃しても、何の効果も得られず、「人間に対して、お前は人間だ、人間だ、」と同類のコトバを発していると同じなのです。

むしろ私は攻撃を仕掛ける相手に哀れみさを覚えます。攻撃とみなされるその「言葉」の全ては、その方自身の裏返し!なのです。

その方はその方自身の「劣等性を暴露」したに等しいのです。
自然に脱毛し、毛が抜ける恐怖とその方の毛が無い頭部の形の悪さがその言葉を吐く要因と常に私なりの分析です。

毛が無く「無垢状態の頭形」は、それは無残極まるその形を見ただけで、吉本興行のお笑い以上の「お笑いを誘う形状」と推察するのです。

何とかして私を凹ませる努力をしている様ですが、その努力は認めます。
しかしそれは無駄なエネルギー放出と、私にとっては、その放出したエネルギー全てが、私のパワーに蓄積されるのです。
有難い事で、攻撃される方に「感謝」です。

私は「気」と言うエネルギーの話を過去の日記で表した事がありますが、友人の一人にその「気」を活用し、人助けを行っている方が存在します。その方はボランティアで一切の物品、金銭を受け取らず、困った方に手を差し伸べているです。

口コミで全国津々浦々からその方の所に訪れるのですが、その方は「気」を注入し、体の不都合部分を直すと言うものです。

こんな方を目の当たりにし「気」と言う得たいの知れないエネルギーがあると信じるようになったのは近年ですが、ハゲなどと言う低俗な言葉の攻撃らしきものを受けた時、私の体に変調があるのです。

パワーアップと言う「エネルギー漲って来る」と言う変調です。まるで高価な栄養ドリンク剤を飲んだ気分です。そんな根拠があって「ありがとう」と感謝するのです。

元来、どの様な事でも「良い方向に解釈」する特性を持ち合わせている持ち主の私は、どのような攻撃も「釈迦に説法」「ぬかに釘」のようなもので、今まで9回も死をさまよい、三途の川をわたり掛け、蘇生した者には無意味なのです。

ただエネルギーが頂ける感覚を体が示す為、その方には「感謝の念」です。ありがとうと申したい。

攻撃の言葉で困る事は、多くの方がその次元の低い、低俗な無知性を伴った言葉を目にした時、不愉快極まり無い感情を受け、それを少しでも早く回避する為に、掲示板や日記のコメントのネガティブな内容も含め、低俗言葉は削除させて頂いています。

第三者の方が目にし、感情を害するしつこいものについては趣味人倶楽部事務局に委ねています。



世の中には常に素直に受け取らず、必ずと言って良いほど、この日記を読んで「裏」を読む方も必ず存在します。それはこれほど書くから私自身が気にしていると、この日記だけをご覧になった方は、そう思うかも知れませんが、それも人の見方ですのでそれはその人の思考と思っています。

私のスキンヘッドは自然脱毛!ではなく、1999年6月での脳疾患で手術しそれ以来、このすっきり感が病みつきになり、この頭形で現在に至っています。人にはよく薦めてます。スキンヘッドをと。

これ3日間過ごしたら、気持ちが良くて止められません。貴方も如何?スキンヘッドを・・・・

いつも頭スースー、サロンパス状態。冬の夜は体温が髪の毛がある時より2度ほど下がった感覚を受け、必ず帽子着用し睡眠に着きます。


写真は自慢の形の良い頭形と石原裕次郎が若い頃、マイカウンターとして利用していた北海道小樽市の歴史的有名な料亭の一角です。
後ろの写真は石原裕次郎がいつも座っていたカウンターでのワンショット、そしてその椅子で座った一枚です。
今、カマキリが卵を産むシーズンで、大きなお腹を抱えたメスが庭のアッチコッチで出没しています。

私の脳裏にはカマキリと言うと「獰猛な虫」と言うイメージが根強くあり、あまり関わりたくない虫の部類でした。

昨日、泥で汚れた車の清掃に取り掛かっていると、屋根にはそのカマキリが私の方に視線を向け、じっと見構えていました。

車のキーを近づけるとそのカマキリは、キーを動かす方向に、おむすびを逆さにしたような「逆三角形の顔」を、そのキーに沿って視線を変えるのです。

トンボでも同じ事をした幼き頃を思い出し、カマキリもトンボ同様、首がクルクルと軽妙に動き、これは楽しい!と童心に戻った気分で車の清掃をすっかり忘れて、そのカマキリの首に動じて、戯れるのです。

カマキリの習性は交尾が終わったメスのカマキリ、その相手であるオスのカマキリを食い尽くす、と「世にも怖〜い」カマキリの世界の話。

これは話ではなく、小さい頃、そのメスがオスを食べている状態を見てしまった経験があり、それ以来≪カマキリは大嫌い≫と、子供ながらにその獰猛さを目の当たりにしたのが大きな理由でした。

過去のNHKラジオの子供電話相談を聞いた中で、その相談に回答する先生が言っていたのを思い出したのです。

カマキリも好き嫌いがあり、好きなオスの場合は「食いつくさず」と、しかし、交尾が終わり、相変わらずそのメスにまとわり付くオスは食べてしまうと答えていたのを思い出しました。

ただ、交尾を終えてオスは、その日か翌日には絶命してしまい、食べられるのが、これからメスが卵を産む為の栄養となり、カマキリの種の保存に一役かっているとも言っていたのです。

何と悲しいオスカマキリの宿命かと・・・

この話は、食べられることはありませんが、世の男性にもダブって映る「臭い」を感じる一面を見た思いでした。

幼きの時の「オスを食べている瞬間」を目にしたその衝撃は、感じやすい幼き心にショックを与え、それ以来、カマキリは共食いしてしまう獰猛な昆虫、と印象が強かったのです。

それが昨日の「カマキリと戯れた瞬間」から、大きく変わったのでした。
首の動きが何とも言えない、可愛い素振りでペットにしたいくらいの愛らしさを受けたのです。

この話をかみさんにすると
「ヘッ、今頃そんな事に気づいたの」と、私は子供の頃、そのカマキリの顔が動く愛くるしさを遠〜い昔に体感していたと、つれない返事が戻って来たのです。

遅きにして得たそのカマキリとの戯れの感動、虫は良く観察すると「新しい発見がイッパイ」で、幼き頃、その新しい発見が面白く、どんな虫にも好奇心、興味を寄せ、目を輝かせたものです。

昨日はそのカマキリ君に「輝く目の復活の思い」をさせてもらった私にとって、感動の一場面でした。

私が戯れて遊んだ結果、オカンムリになり、草むらに潜んでしまったその「カマキリ君の写真」です。

逆三角形の顔が人間の首と同じようにクルクルとするその動作、指を近づけ動かすと「思案に暮れた首の角度」で何か訴えかけるようでそのしぐさが愛くるしい。

発見!です。
同窓会 2010年10月06日
1945年生まれの小学校「同窓会」

今から21年前に小学校の閉校式が行われ、そこで同席した卒業生有志で、小学校の同窓会を行おう!と話が決まりました。そしてその翌年から5年毎に開催されているのだが、20年前に開催されたその同窓会は30数名が出席されました。

閉校した小学校はもともと生徒数が少なく、私たちが小学校の頃、生徒数は100名ほどの、アットホームな学校でした。

授業方法も「1年2年、3年4年、5年6年」と言う、複数の学年を1人の教師が受け持つと言う、小規模学校の特徴あるスタイルでした。

その同窓会も、複数学年の混同で行うが、当時は学年は関係なく、学校でも家に帰ってからでも一緒に遊んだり、学んだりした関係で、年齢は一切関係なくそして違和感もありませんでした。

その1回目が行われた同窓会も、一気に顔を合わせると同時に「タイムスリップ」状態でした。

1回目の1990年は30数が名出席し、それから5年毎の開催で、2回目は25名、3回目は13名でした。
そして今年、2010年の開催は10月中旬に第4回目が開催されるのだが、今回は11名と言う人数です。

決して少ないとは思いません。ここの年代に来ると難しい問題を抱える方も多くなり、「顔を見せて皆と談笑し楽しみたい!」と思っているがそれが出来ない、そのような方々の事情も予想しおり、4回目の人数としては「こんなもんであろう」と、ただ参加できる事は幸せと考えるのです。

4学年合同だけでは卒業の生徒数は60名、その対象者も死亡したりした方があり、58名ですが、その中で「学年毎に幹事」がその学年をまとめ、そして代表幹事をいつも私が行うのです。

4学年が合同で、今年4回目となると全てが60歳以上となり、まだ現役で社会の中枢で活躍していた頃と比べると、どうしてもそれぞれ事情が出来、出席が困難になるのだろうなと感じるのです。

60歳以上ともなると将来への先が見え、より元気になる方、どこか失望感をただ寄せる方、体に異常を訴え病との闘いに明け暮れる方とそれぞれです。

これは同窓会と言うミクロの世界の話ではなく、一般的な事象ですが、人生は自分で決めるもの、人様がどうのこうのと言っても始まるものではありません。

60歳ならその60年の生き方の積み重ねと、思うのです。しかし、気が付いた時は「手遅れ」と言う場合が多いと世間では言いますが、そんな事はありません。

人生は60歳から第二の青春のスタートと思っており、これからが人生セカンドステージが始める!といつも説いています。

人生120歳と、それは学説的に可能であると証明され、多くは生きる上で、体に良くない事を行い、1引き、2引きとその生命が消えていくのです。

その為には体に悪い事を行わない。その消去法の消される事柄を避けた生活を行う。これがキーワードと・・・

60歳過ぎたからと言って希望を失う事はありません。特に食生活習慣には気を配り、常に前向き思考「ポジティブ」そのものと同窓会でも訴えています。

人の性格は殆ど、幼き頃と変わりません。同窓会のそれぞれの方々をウオッチし、小学生の頃、あいつはどうだっただろうと記憶をたどり、現在と比較しても「そのまんま」でした。

明るかった奴、暗い卑屈な奴、努力家でよく勉強した奴と、それが今の姿にそのまま映し出されていました。

努力家はJR東日本の福社長、又一流銀行の大幹部に、一部上場企業の労働組合執行部幹部、そして大学医の薬部総部長とか、一概に「名誉が全て」ではありませんが、社会の中枢として活躍している数少ない生徒数の中からの卓越した人材を送り出しているわが同窓生、誇りの限りです。

三つ子の魂、百までも!と昔からの格言は正しい表現だなぁ〜とつくづく思うのです。



5年毎の開催を忘れる事のないようにアプローチ

代表幹事は必ず59名に年賀ハガキを、そして時々のB4サイズ機関紙発行です。5年毎に「同窓会開催」を常に訴えているが、色々な事情により出席者が少なくなるのは必然性。

11名でも満足!です。毎回一泊での開催は「酒は百害あって一利なし」であるが、この日はそんな事は何処かに置いて来て、酔いつぶれるぞ〜と・・・・

楽しみです。
見知らぬ人との出逢い!

これが人間関係の最初の出発です。

相手が何者か正体不明で多くの方々は心を閉ざし警戒心を怠らりません。

しかし、このスタンスを持ち続けていては、果てしなく人との交流が不可能で、この世の人との接点を失い兼ねない。また生きては行けないのです。

そんな事にならないように、その出逢いを生かすことに、生ある間は人は努めて、心を開くよう心がけているのです。


その開く相手はそれぞれですが、この場の趣味人倶楽部に於いても、目的の基本は「人との交流」が主たることではないでしょうか。

どちらかが積極的にアプローチを掛け、訴えない限り、事は進まず、私の場合は積極的派で、人が大好き!と言う事も手伝い、私自身の全ての門戸を広げ、どんどんとこの「場」を活用しています。

そのような活用の場を望んで「趣味人倶楽部の門戸を叩いた」と言う方が大半であろうと思うからです。
それが嫌であればこの「場」には参戦するはずが無いと、私も含めて誰しもそう思うに違いないと考えるからです。

一期一会の日記でも述べていますが、千載一隅のチャンスが与えられた、この人と人との接点の≪場≫は大いに活用せねばと思うのですが、意外にそのチャンスを掴まない方が多いのは不思議?と思うのです。

性善説が基本にあり、人はスバラシイ感性を持っており、悪者は存在しないと言う思想が根底にあり、人は大好きなのですが、事はそうは問屋が卸してくれないと・・・・


この趣味人倶楽部と言うウェブサイトでの交流、OFF会を行う方々も沢山存在しますが、基本はこのネットの中での交流が主たる事と割り切っている方も多いと思うのです。

来る人拒まず、去る人追わず!この精神で「交流の基本」を真っ当し、少しでもチャンスを与えられた「場」を生かそうと思っている方が大半と推察しています。

私もそのような中の一人に過ぎません。せっかくのチャンスを有効に活用せねばと思うのですが、しかし、世の中、そうはさせません。意外に心は硬く、閉ざす方が多いのが現実です。

多くの方がアクセスして頂き、感謝していることへの意思表示をしようと、ページが変わらず消滅しない範囲には必ず「アクセス頂いた方」へは、以下から始まる内容を、その方の掲示板にスレッドし、



≪何らかの足跡!には必ずご返礼させて頂いてます

人生120歳、120歳、60歳は人生の折り返し地点セカンドステージ青春第2章!と考え、食べ過ぎない、欲かき過ぎない、ものぐさしないは「長生き人生訓」と唱え実践中。人生は楽天、楽天思想で健康に留意し楽しく「熟成期」の青春第二章を歩みましょう。と言っても・・・・・≫

(時には同じ方に同様なメッセージを発信してしまう場合もあります。これは≪足跡を残して≫頂くと有難いのですが・・・)



この返礼から、見知らぬ人との出逢い!を求めて「見知らぬ方と交流したい」とその意を伝えるのです。

しかし、なかなか簡単に人の心は開きません。

相手を知る前に「わが身を知って頂く」と言う目的の為に、プロフィールをほとんどバレバレでオープンしていますが、その内容をご覧になって心を開いて頂いてMFになって頂いたという方も多くいらっしゃいます。

時にはオープンが「卑しい」とお叱りを受ける場合もあります。
それは当然で、好意的に解釈して頂く方、又、卑しいと非難した方、両方が存在しても決して不思議な事ではありません。
ごく当たり前で主義主張する民主国家のスバラシイ一部でもあり、それは至極自然のあるべき姿です。

MFも人より多くなるのは必然性。一期一会を純粋に貫き通せば、知り合う人、全てがその対象となるからです。
ただ全てが対象となる言っても、人はそれぞれ考えが異なり、いくら門戸を広げて「来る人拒まず、去る人追わず」のスタンスであっても、その通りにならないのが人間の世界です。

動物のように「純」ではなく複雑怪奇な思考を持つ生き物だから不可解で面白いのです。これは皮肉ではありません。人間の真の姿です。

「返礼」を出しても、しっかりお答えしていただく方は、100人うち20名ほど、そして最終的にMFを承諾していただく方が5名で「5%」程度と推測しても間違いではありません。

せっかくの「見知らぬ人との出逢いの場」が生かせないのは、残念と思う反面、人と人との接点に臆病で煩わしいと言う、現代の世相を反映した結果かなと思ったりするのです。

ここで快くMFに応じて頂いた皆様には心より「感謝」申し上げます。MFになったからと言って特別な事は起きず、ただ「自然流の長い無理しないお付き合い」に任せるままをご理解頂いての結果です。

また私のスタンスにご批判やお叱りを賜った方々には、当然至極で考え方は尊重し、これまた「感謝の念」を表したいと思うのです。
あなたの感動センサー?2010年10月03日
つり橋探検隊?

いつでしたかTVの旅番組で放送され、鬼怒川温泉郷に新しい観光の名所として「つり橋が出来た!」と、いつもならがの出歯亀さんよろしく、物見遊山で、昨日、かみさん引き連れて出かけました。

つり橋探検隊と言うほどのことはありませんが、あっちこっち出かけると以外に「つり橋を観光の目玉の一つ」として、何億円もかけている地域があります。

最近、そのつり橋に「お邪魔した場所」と言いますと、

@群馬県上野村のつり橋
このつり橋は谷底から120メール位の高さに位置して、高所恐怖症の私にとって腰を抜かす程の高さで、それは恐ろしい高さです。通行料100円ほど料金を支払いその高さを実感です。

つり橋の中心から谷底を覗くと恐怖心のあまり「ちびり」そうでした。

A那須塩原のつり橋
ここは長〜いつり橋で、高度さはあまりありませんが、しかし良く揺れるのです。すれ違いがやっとの狭いものですが、中心部あたりで「揺らしたり」すると、結構、面白くて、それを楽しむ方が時々、存在します。
通行料は300円くらいでしたか・・・

B茨城県袋田の滝近く、常陸太田市「竜神大つり橋」です。
一昨年の秋、に行きましたが景色は大変、良かったと言う印象でした。
何でこんな所に「つり橋が」と、これは何処でも言えますが、多くは観光客誘致でその努力の賜物と解釈して、ありがとう竜神橋さまと手を合わせて帰りました。

Cそして昨日、訪れた鬼怒川温泉「立岩つり橋」です。
私もその一人ですが、TVで知り気になって夜も眠れない?くらいの関心で、出かけました。

どのつり橋にも言えますが、橋の脇から眺める景色が良く「絶景」で、谷に流れる川の水音がより自然を駆り立てていました。

勿論、つり橋設置の計画は「観光の目玉」が大きな目的ですので、本当に眺めが何処も良く、これからの紅葉のスーズンには
訪れた方々を感動させてくれるものと思います。

加齢と共に五感の鈍りは、必然性ですが何でも「好奇心旺盛」として、覗き込む、関心を寄せる、そして必ず「感動」と言うこころに響くものを掴む事も大切と、常々の意識です。

花を見たらその感動を「声」に出す。
OHH!スバラシイ!と、そのこころの響きは幼き頃の感動センサー蘇生になると、信じるのです。

幼き頃は、うじ虫のような、どんな「虫」でも「花」でも興味を示し、触れたくなります。その興味の部分がだんだんと失い始めるのが「加齢」です。

その幼き当時の感動の鈍さを少しでも「防止」するのは、日頃の感動トレーニングと思うのです。

いつになっても「感動」しよう!とそれが

「暦年齢より若く見える秘訣」であり、見た目年齢や、肌年齢の若さ維持のコツの一つと、これは私の持論です。

このような日常的な習慣も必要と
http://smcb.jp/_ps01?post_id=1879181&oid=14051..





つり橋探検隊はこれから何処へ行こうかなと・・・・

日光カントリー倶楽部から鬼怒川旧ウエスタン村の「抜け道」に、日本の原風景!を彷彿させる「藁葺屋根の一軒屋」がありました。
ここを通る度に気になっていましたので、今日は(10月2日)道路の端に車を止め、この秋の象徴、そこにはコスモスが咲き、そのコスモスと感動の1枚をカメラに収めました。

また東武日光駅前のおみげ屋さんの「看板ねこ」
有名の猫のようで、大きさと言え、その風格と言え、ご立派な猫ちゃんでした。
名前がありその名前を聞きましたが、忘れてしまいました。

暦年齢と見た目年齢の「学説」は・・・
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一期一会は・・・・2010年10月02日
一期一会を信条とし、人生は「人と人との出逢いの旅」と思い、それを貫き通し、この趣味人倶楽部でもその意思を重んじています。

果てしない宇宙の中で、ちっぽけな地球、そしてそのミクロの様な日本、更にその中の地域で生活する私たちの人間関係です。

本当に小さな小さな世界の中の営む関係、そして私たちの人生が経過して行くのです。

こんな事を考えたら、宇宙での私たちの人生など、本当に小さい瞬間、その瞬間に生きているのです。

この瞬間に多くの人たちと出逢いを求めて、更に良き人間関係を構築して≪人生を終焉させたい≫と多くはその様に願い、私も思っています。

性善説を基にした生き様は「バレバレ人生」です。

http://azusin1.fc2web.com/20100929kinntyakudenn/20..

この趣味人倶楽部でも、この場を通じてその意思はしっかりと貫く、このことは、何らかのやり取りで知り合う「一期一会のチャンス」を生して存在すると思うのです。

何事も性善説の上に行動の基準があり、人間は良い人ばかり!と言う思考で物事の尺度を決めているのが、私の生き様です。

このような信条の基でのマイフレンド、必然的に多くなるのは当然至極です。

これからも留まる事無く、人と人との出会いの旅!を歩み、永遠に続くものと一人で呟くのでした。
 
それは美しかった!

私は、曼珠沙華!と言うとどこか不気味な花のイメージが強く、あまり良いイメージではありませんでした。

それはなぜか?

子供の頃、お墓の周辺には必ずと言っても良いほど、その花は植えられていたのか、自然に芽を出したのか、定かではありませんが、そこに踏み込んで「チャンバラ」などして遊んでいると、お彼岸の季節には必ずと咲いていたのでした。

幼き頃、お墓はお化けが出る!と信じ込んでおり、お墓は怖い場所でそこに咲く花は「怖い」と決め付けた、お墓の花と、偏った感情を抱いていたのです。

2年前もかみさんと見に行きましたが、その時は、昨日29日ほど「綺麗」ではなく、見る時期が少し遅かったせいか、今回ほど「感激」はありませんでした。

まだその悪いイメージは払拭されてはいなかっのです。

しかし、昨日、それは完全に取り除かれたのです。それは美しい輝きと、その「赤」の美しさは、まさしくこの世のものか!と目を疑うほどの、真っ赤な色一面の「赤い世界」でした。

これほどの赤い世界を過去に経験した事が無い!と思いつつ、しっかりその色の美しさに「鑑賞」し、酔い浸り、かみさんと感激!

良き美しさ、ありがとうと「自然の芸術」に感謝するのみでした。

フルサイズで、その美しさをぜひ「実感」し、昨日、私が得た感激を共有頂ければと思い、ホームページにその写真のみをアップしました。

その美しさを「体感」する事が出来ます。

http://azusin1.fc2web.com/20100929kinntyakudenn/20..
小さい写真にポインターを置いて「クリック」して下さい。迫力画像が得られます。


「巾着田」という変わった地名は、巾着袋に似ている地形に由来しています。曼珠沙華が鮮やかに咲き競い、その美しさはため息ものです。


曼珠沙華・・・・・・

西武池袋線「高麗(こま)」駅から徒歩約15分の「巾着田(きんちゃくだ)」。日本有数の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の群生地で、約100万本が高麗川の川辺を真っ赤に染め上げます。


追伸

≪昔からお墓の周りに蔓珠沙華が多いのは、土葬だった時代、野生動物にお墓を荒らされないように、毒のある蔓珠沙華を植えたのだと・・・・≫

昔から言い伝えられる事は「生活の知恵」として、その中から得る根拠があるようで、なるほどと思いました。
懐かしさが込み上げてくるこの一枚の写真。我々、戦前や戦後まもなく生まれた者にとってこの光景はどこか郷愁感を抱かせずにはおかない1枚です。

縁側でよく遊びました。

良く覚えているのは、こんな縁側で将棋をしたり、冬の寒い時でも陽だまりの中での読書、時にはこの陽だまりで気持ちよく寝ている猫の「ひげを切り落としたり」と、いたずらも沢山、思い出として残る「場所」でした。

十五夜、この縁側には必ずと言うほど何処の家でも、この満月の日に、無病息災、家内安全、豊作祈願など諸々の願いを含めて、お供え物でその願いと感謝を念じる風習がありました。

その風習は子供にとって最高のご馳走を頂く日、でもあるのです。
多くは十五夜ダンゴと称して、もち米を石臼で挽き、その粉を元に、ダンゴにした「ふかし団子」を作るのです。

これがもち米で作られて、1個が大きく重いのです。家によっては、その中に小豆のあんこを入れる家もあり、それはご馳走です。

ダンゴばかりではなく、秋の味覚、林檎や栗、梨、とうもろこしなどの果物も沢山、供えてあるのです。

今思うと、経済的に豊かな家ほど、その供え物の中身が沢山あり、特に果物の量が豊かでした。

一年に一度の「15夜の夜」のダンゴ突き、は悪ガキの最高のうまいものを手に入れる又とないチャンスなのです。

私の場合、3年先輩の「悪ガキ」が、そのダンゴ突きのご指導で、それは立派な名人!に仕立てられました。

私がその名人にしっかり仕立て上げられ、ガキ大将になった暁には、そろそろとまた私の教えを請う年下に、先輩から教えられた妙技を伝える為に、配下を引き連れての≪団子突き≫でした。

ダンゴ突き妙技の小道具は、20ミリほどの太さ、そして長さは3メートルくらいの篠竹の先に、5寸釘を先端に施し、それを「槍」のように十五夜のお供え物を刺して、盗んで来るのです。

私の周辺の家では「15夜のお供え物」が、ダンゴ突きの子供達に持っていかれる事は縁起がよいと言う説があり、そんな伝説を子供も心得て、盗んで来るのです。

その妙技、何分、大人の月見の宴が終り、寝静まった夜中に突きに行くのですが、多くの家は、縁側にその供え物を一晩中、出しっぱなしで、取って下さい、と言わんばかりの「子供に対しての気配り」でした。

大人たちの豊かな心遣いに乗じて、ダンゴを突くのですが、そのダンゴが重くて、その道具が折れてしまい、時には道具を使わず、そのお供え物の器ごと、そっくり頂く事もありました。

しかし、そんな時は「掟破り」で、翌日、その家の方が必ず「春坊、お皿はちゃんと返すんだよ」と、私を始めとした「悪ガキ連中が取った」事を大方の大人はお見通しで、そんな時には素直に、ご馳走さまでした!とお礼を述べることも悪ガキながら心得ていました。

昔は大らかで、明らかに「窃盗」ですが、それは古い風習として、その夜のお供え物が盗まれる事は≪良いこと≫と捕らえて頂いた大人たち。

別の見方で、当時は食糧事情も悪く、子供もはおやつらしきものは殆ど無い時代でしたので、1年に一度くらいは子供への贈り物と、やさしい大人の配慮だったと今、思うのです。

当時は何かにつけて、縁側を備えた大きな家のその縁側に、悪がきどもは集まり、遊ぶ事も遊ぶ相談も、この縁側が舞台で、そこからスタートでした。

子供はいなくても、その縁側がある邸宅では、時々「ふかしたサツマイモ」をおやつに出してくれたのです。

そのサツマイモ欲しさに、雨の日には「縁側に一日中いる」と言う事もしばしば、しかし、その家のお手伝いをその悪がきどもが度々行い、その家を助けていた一面もあったのです。

お手伝いのお駄賃が、サツマイモやじゃがいもの、煮物のおやつでした。他人様の家でも、何か用意を言い付けられたり、お手伝いは日常茶飯事で、これも良き時代であった「困った時のお互いさま」の精神であり、子供の頃から悪がき先輩の真似をして、身につけていったのです。

写真は、そんな悪ガキが大人になり、当時を偲ぶこの風情を、建物も含んで、懐かしさをかみしめている現在の姿です。

果たして、現在の日本人にどれほど「耐乏生活」を送る事が出来るだろうか、はなはだ疑問?です。

中国との関係で経済的にはお互いに「必要不可欠」の抜き差しならぬ関係である事は確かです。

日本も中国も「補完」」しあわねば国が立ち行かなくなりニッチもサッチもどうにもならなくなる事は明白です。

しかし、そこには国民意識の大きな違いがあります。それは「一党独裁の共産主義で自由主義国家ではない」事と、生まれると同時に等しいくらい「反日教育・愛国心教育の徹底」を図っている事です。

「愛国心教育」が浸透され、ここにマインドコントロールされた国民との大きな「差」が生まれています。

中国人はいざ、「国難」として本格的に耐乏生活を強いられたら、それは国を思うこころがしっかりと構築されており、耐えられるのです。

さてわが国はいかがであろうか?改めて表記しますが



≪民族の伝統と文化、遺産を次の世代に引き継ぐ、と言う「重要な教育の任務」を抜いてあるのです。

「民族や日本」を排除し個人尊重だけで、「国家不在の教育」に始終一貫して、いかにも意図的です。
世界のどの国の教育関係の法律を見ても「愛国心の育成」が教育の目的に掲げられおり、そしてそれはごく自然で当然なのです。

ところが日本の教育基本法では「愛国心」には一切、触れていない。むしろ愛国心をもってはならないとも解釈出来るのです。≫


詳細は
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2411712&oid=14051..

政治は国民生活が立ち行かない状況を打破するのが、大きな役割ですが、時と場合によっては「国難だ」とし、今の生活を変えねばならない状況が生まれたとき、果たして多くの国民は耐え忍ぶほどの「覚悟」を備えているか!

教育基本法に於いて「国」の単位より「個人」にシフトされた教育で「個人主義一辺倒」の内容で育った我々日本人は、国を憂う精神や国を愛する精神などは、遠い国の古びれた思想と、忘れ去り、とても「耐乏生活」などの強要には我慢が出来ないであろう。

しかし、中国より兵糧攻めに合えば、ある一定期間、その耐え偲ぶ覚悟が必要になる場合も予想されるのです。

国民として「国存亡の危機」に立ち向かう精神は無い!に等しいのが今の日本人です。
国の為に「耐乏生活」などとナンセンスと、これは政治家にもマスメデイにも「絶対」と言い切れるほど、非難されるのが「落ち」であろう。

その政治も前政権の60年間、この尖閣諸島に関して「放置状態」であった。

前政権下で「最近の究極的出来事」は2004年の小泉政権時、尖閣諸島の一角である魚釣島への不法侵入上陸事件で、現行犯逮捕し2日後、強制退去処分にした事がありました。

この件の事件は今回よりもズッと悪質で、この件を引き合いに出した自民党総裁、谷垣さんは「赤っ恥」をかく羽目に、

それは自民党内から批判のブーイング、その時は今回より悪質なのに何も分かっていないと・・・・

自民党総裁と言う大物政治家であってもこのていたらく、です。管政権の行った行為も、とても褒められたものではありません。

政治の件はこんな程度で「政治の談義」に一切、封印したのは馬鹿馬鹿しい根拠はこんなところにもあるわけです。

民主党政権の批判がありますが、前政権下の「つけ」でもあり、どの政党が整合性がある、などと知れば知るほど

「似たか寄ったか」で、出来の悪い子供が喧嘩して、甲乙つけられないのが現実です。

しかし、起因は全て政治家の資質、その先の根幹は我々国民も含めて「教育制度のあり方」が全てといっても過言では無いと言い切れます。

マスメディアに於いても過去の論調は、まるで中国のスポークスマンかよ!と疑いたくなるメディアも多く存在し、その報道が「無知な国民」に少なからず、影響を与えた事も事実と思うのです。

これもその中枢で働く幹部の「わが国での教育の効果」と言わざるを得ません。
欲しがりません、勝つまでは!などと「耐乏生活」が現実のものとなった場合、彼らは我先に「批判の急先鋒」に立ち、何が国難だ!と叫び続ける事だろうと、想像するのです。

しかし、わが国も中国も「我慢比べ」の様相を呈し、果たしてどちらが先に音を上げるであろうか・・・・

中国に兵糧攻めにされ、私も「欲しがりません、勝つまでは」と耐乏生活を強いられ、果たしてそれに備える精神はいかがが、と問われたら、ちょっと自信がありません。

こんな事を記しても「空しさ」だけがこころに残像とし残るのは何でだろうか
医者の役割は、病に掛かり、初めてその「医者の効用」と常々、思っている一人です。

ただ長い事、医者として医療行為を行い、その経験から得た情報を、病にかかってからでは遅い、その病に掛からない為の方策として、書物を出版し私たちに「警鐘」を与えてくださるお医者さんは沢山、存在します。

また病にかかりその医師ではないと施す事が出来ない「神の手」として、その医師に手術をお願いする患者さんも数多く存在します。

病に掛かり「ワラにもすがる」思いのその患者さんの心理は、悔しく何とか健康を取り戻したいと、その方の心情を察すると、本当にお気の毒といいようがありません。

私も病に陥れば当然、そんなお医者さんのお世話になる事は明白です。
しかし、そんな事にならないよう「努力」する事を常に頭に叩き、自分で注意するしかありません。

病になってからでは遅いと、そして発症してからいくら医者に見て貰っても、時すでに遅し!と考えるようになりました。

思えば35歳前後、顔は肉が付かないタイプで、太っていても写真で見る限り、太って見えない部類であるため、体はメタボ状態でブヨブヨ腹でした。

着る物の殆どは新規に購入せねばならないほど、メタボ状態に陥り、「このまま行ったらヤバイ」と気づいて、それからは食べる量を少しずつ少なくし、本来のあるべき姿に修正したのです。

現在の体型は高校生時代と大きくは≪差≫の無い体型に蘇生したのです。それでも5キロほどは太ってしまっています。

しかし、お酒の量は一向に減らさず、多い時にはサントリーリザーブ1本、そして日本酒1升ビン1本を一晩に空けてしまう事たびたびでした。

酒は百薬の長!と理屈をつけては呑むのは当然、と決め込んでいました。

呑んだ時は気分がすこぶる良いのですが、呑んだ日の翌日は気分が優れず、もう酒は飲むまいと言いながら、また夕方になると、つい口に含み朝方の「もう呑むまい」と自分に言い聞かせた言葉は何処吹く、風でした。

こんな生活を続けていましたが、最近と言うか7年前ごろから、飲んだ後、顔に吹き出物が出来るようになり、これは酒が原因と、肝臓さんが悲鳴を上げている!と感じ、

酒は百害あって一利なし、にシフトしたのです。酒豪遺伝子を持ち合わせている者にとっては、一大決心です。

ただ、免疫力の付く食事習慣は「沢山酒を飲む時代以前から」続けており、その食事生活習慣が功を奏し、65歳まで≪病と言う名の付く発症≫は経験していません。

元来「医者は病になってから効用」と思っており、大量の酒を飲む習慣から、1週間に2度程度の「軽いお酒の飲み方」にシフト以来、健康体で現在に至っています。

健康体の根拠は人間ドッグや脳ドッグの数値が根拠です。

人は「意思」の問題を強調し、本筋から反らしますが、意思ではありません。

それ以前の生命にかかわる事で、早く「自覚」し、病を発症する前に気づく事です。私は気づいた結果、健康体の今があると思っています。

私の経験から、医者は病になって初めて役に立ち、それ以前は「自覚」するか否かの問題と、その人の意思で問題を反らさず、己は現在、どうだろうかと自問自答してみることです。

医者は役立たず!

このフレーズをどこか頭の隅に置き、それ以前は「≪自覚≫であると己に言い聞かせて、健康上、不都合なそして不条理な
行動は考える。

このことが病にならず「医者は俺には不要」と、病にならない前は「役立たず」と決め付けて、健康健全肉体にシフトすべきです。

ただ病を発症し苦しんでいる沢山の方には、医者の適切な処置の施しを受け、1日も早く「健康」を取り戻す日が来る事を願うばかりです。

13人の刺客! 2010年09月26日
フラストレーション解消目的で「13人の刺客」のロードショウを見に行って来ました。

いつも「夫婦のどちらか50歳以上の割引」を利用し、2ヶ月に3回!の割合で映画鑑賞を実施しています。

今回は日本映画「13人の刺客」です。いつも入場券は一人1000円、そして5回鑑賞する毎に1回無料のサービスをゲットして、夫婦で楽しんでいますが、あらすじは見てのお楽しみで、記しません。

基本的には2時間30分程の「時代娯楽アクション絵巻」です。しかし、その中にはドロドロとした人間関係、そして武士としての「高〜い志し」に命を掛ける人達の物語です。

昨日の日記で表記した「日本人の失われてしまった良き精神」がしっかり映し出され、出来過ぎるほど出来過ぎたタイムリーな作品!と思いながら、感慨深く、鑑賞しました。

金にも徳にもならない「友情」だけに、そして人間として、絶対に許せないあるまじき行為に、憤りを覚えその「悪」に命を掛けて戦う男の物語でした。
我々、日本人の本来あるべき姿を表現し、余りにも昨日、記した部分、


≪民族の伝統と文化、遺産を次の世代に引き継ぐ、と言う「重要な教育の任務」を抜いてあるのです。
「民族や日本」を排除し個人尊重だけで、「国家不在の教育」に始終一貫して、いかにも意図的です。
世界のどの国の教育関係の法律を見ても「愛国心の育成」が教育の目的に掲げられおり、そしてそれはごく自然で当然なのです≫

特に「民族の伝統と文化」その精神に、疑問符が付く現代日本人のポイントを鋭く解く映画に仕上がっていると観ての感想でした。

鑑賞中、観客の中に首を落とされる厳かなシーンで、ゲラゲラ笑う観客が存在しましたが、

何でそこで笑うの?と不思議にそして「ここまで地に落ちたか日本人の魂」と、その様子を目の当たりにし、嘆かわしい日本人!と思わずにはいられませんでした。

武士道の精神は、日本人の精神の本質は、たとえ「敵」であっても、負けた相手に思いやりを抱いて気配り!

これがかつて自負とした、私たち先人が築いた「民族の伝統と文化」であったが、何かその崩れ去っている一部分をみてしまっった、重〜い一瞬を見たような気がしました。

鑑賞し、その感じ方は人それぞれですが、娯楽として充分に楽しめる作品であり、また考えさせる要素も沢山含み、私にとっては

日記の表記と余りにもタイムリーであった事も含んで、良き映画とし「記憶に残る作品の一つ」となりました。



超法規的処置か! 2010年09月25日
日本には「ナショナルリズム」とは、遠い昔の忘れ去られた言葉であろうか?

一連の中国漁船問題は一平民として何ともフラストレーションの溜まる処置の仕方に憤り!を覚えるのは私だけであろうか。

政治的スレッドに馬鹿馬鹿しさを感じ、一切それらに触れられず封印してから半年が経過しましたが、この問題に日本政府はどんな立ち振る舞いをし、結果を出すか、注視していたが、余りにもお粗末な結論に、あいた口が塞がらない現象です。

超法規的処置と感じずにはいられません。確かに13億人の中国のマーケットを意識せず、現在の日本は経済面に於いて立ち行かない状況を生んでしまっているが、しかし、だからと言って「日本固有の領土」として、毅然とした対応が差しせままれ、求められたにもかかわらず、それを自ら「破棄に近い事例」を作り上げてしまった事に何ともやり切れない気持ちなのです。

政治家の世界でも「ナショナルリズムの言葉は遠い昔に忘れ去られてしまった」と思わずにいられません。

それは全てがマッカーサーの統制化時に生んだ「教育制度改革」に糸解くヒントがあると、私は常々、思っています。



過去に記した引用で

『今、日本は中国の「属国」に・・・・・こんな現実が訪れるかもしれません。多くの日本人はNHK等のメディアがどんな放送をしようが関心がありません。GHQ(マッカーサー統制化)と当時のマルクス主義者が作り上げた「教育基本法」に、全てが起因するものと感じるからです。

日本はもう手遅れで「アメリカが意図とした国家」が出来上がり、個人あえて私、言葉を言い換えれば利己的な人間形成の集大成国家!となってしまったのです。

この教育基本法には

民族の伝統と文化、遺産を次の世代に引き継ぐ、と言う「重要な教育の任務」を抜いてあるのです。
「民族や日本」を排除し個人尊重だけで、「国家不在の教育」に始終一貫して、いかにも意図的です。
世界のどの国の教育関係の法律を見ても「愛国心の育成」が教育の目的に掲げられおり、そしてそれはごく自然で当然なのです。

ところが日本の教育基本法では「愛国心」には一切、触れていない。むしろ愛国心をもってはならないとも解釈出来るのです。

大東亜戦争終戦、65年経過した今、やっとアメリカが意図とする国家形成が構築され、目を被いたくなるような捏造された映像を、現象を見せられても疑問に思わないのが「今」の多くの日本国民なのです。

もう落ちるところまで地に堕ちた国家、と言っても言いすぎでない「国家、日本」と・・・・・

考えてみると、こんな事をスレッドしても、あまり意味の無い事か、と思うし、空しいのですが、ただ「歴史は一つ」!
これに引張られ、書かずにいられない心境だからです。

しかし政治でも、メディで飯を食っている多くの方々でも、「国家観」等という意識は薄く、この意味の大きさは理解される事無く「国賊的」であっても何の疑念!も抱かないところが、GHQとマルクス主義者の合作で出来上がった「教育基本法」の成果なのです。』

国家観と言う認識のすべてが、ここに起因する!と思っています。




最も国賊などと言う言葉も現在の日本には失われてしまった単語に等しいと・・・・・

今後、中国は日本に対してあらゆる局面に於いて「より見下すカード」を切り続け、その属国に近い国に陥る可能性を秘めた今回の政府の処置です。

仙谷官房長官は「那覇地検の判断なのでそれを了とした」とし、ひたすら「地検の判断」を繰り返すばかり、しかし、
政府の関与が無い、などと誰も信用はするほど国民は「間抜け」で無い。

船長の処分で政府は「悪質であり国内法に基づき粛々と扱う」と一貫していた。ところが・・・である
「わが国の法秩序はじゅうりんされた」にも関わらず、船長処分の結末は、情けない結論を見ることになりました。

日本人の多くの方は「冷静に見守っている」が、しかし、心底から、ただ傍観しているのではない、悔しくそして、じくちたる思いを張り巡らせているのが大方ではないだろうかと推察するのです。

さて中国は次の一手とし、今回の一連の船長逮捕から超法規的処置での釈放、これについてどんな賠償を求めてくるだろうか?

目が離せません。

果たしてこのような日記、どれだけ今の日本人に理解され受け入れられるかは、はなはだ疑問ですが、私の呟きでした。

今日は「久しぶりの日本映画」13人の刺客!
を観に行き、この平和的フラストレーション解決法で、モヤモヤを吹っ飛ばしてこようかな。
100歳以上の驚愕! 2010年09月22日
昨日、TBSテレビの夕方放送時、100歳以上の元気な方の特集を組んでいました。

その放送された内容の方々を見て、この健康元気さの「源」は一体何であろうかと考えてみました。

沢山の方がこの放送を視聴されたと思いますが、その一部を紹介しますと

101歳で、体を動かす肉体労働が大好き!と言う方、それは驚愕でした。私は高所恐怖症で子供の頃、高いところから落ちて以来、高い所が大の苦手、しかし、101歳の方は高い電柱に梯子を掛け、蛍光灯の交換を行う作業でした。

若い方でも「高い所は苦手」と言う方は沢山、存在します。しかし、この方、立ち振る舞い、身のこなしは誰が見ても「101歳の年齢」には見えませんでした。

102歳の女性、ご主人は30歳の時に他界し、それ以来70数年間、一人で生活し、生きて来たとの事、習字の先生で今でも「現役」、150人からの生徒をお持ちでその生活をレポートしていました。

そして103歳の英語の先生、大変元気で日常会話は常に英語を取り入れて、ひ孫との年齢差は101歳との事、大変おしゃれで綺麗な方でした。

また同じ年代で≪詩人≫の方、今まで創作し、したためていた詩を詩集として出版、それが詩集として大ベストセラーを生み65万部発行、出版社の方は申していました。普通3000部も売れれば上出来とか、それが65万部も売れていたとは・・・・

TBSの番組タイトルは「7億円の100歳」でした。多分、この詩人を指してタイトルを付けたと思うのです。(正確には明治44年生まれで今年99歳宇都宮市で18年間独り暮らし)


元気健康な100歳以上の紹介番組でしたが、このような方の生活紹介レポートを見まして、早くして現世を旅発たれる方との「差」は一体、何であろうかと考えて見ました。

健全な肉体は健全な精神に宿る!とこの明らかなる実態を、そしてそれを地で行く「元気見本」の最たる方を見た!と実感致しました。

映像から見て取れる「顔の表情」は、活き活きとし、明るく
「私には未来も希望もあると!」とそのみずみずしさが漂うその動きから、読み取ることが出来、驚くものでした。

人は肉体が衰えても考え方が前向きであれば、その肉体は計り知れない蘇生効果を生む、

ここに「キーワード」あると・・・その100歳以上の方々のお姿を見て、あらたに認識した次第です。

以前の日記でも
日本人の男性の平均寿命は80歳そこそこで、80歳を超え、90歳、100歳と元気に過ごすには、ボーダーラインである「80歳」を元気に乗り切る秘訣、

それは今、その為の60歳代の生活があると、この60歳代をどの様な生活で過ごしてきたか!で決まってしまうと記しました。
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2384567&oid=14051..

病にならず、「医者や薬は不要」とする食生活、それは免疫力が得られる食事に徹底する事が大変大事と、今更ながら思うのでした。
http://smcb.jp/_ps01?post_id=2326867&oid=14051..

食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしないの「三ナイ主義」も重要な要素の一つである事を更に強く、意とするのです。

それは人間ドッグ、脳ドッグでの「完璧」なデータ結果が得られている「証」であり、更に

食生活は免疫力の高まる習慣を引き続き行うはもとより、ごく普通の生活から得る、自然流の肉体つくり、
http://smcb.jp/_ps01?post_id=1879181&post_pagi..
http://smcb.jp/_ps01?post_id=1953718&oid=14051..

パワーのある方は世の中に星の数ほど存在し、私はとてもその比ではありません。ただ普通の生活をしその生活の中から無理せず、自然流に持続性のある病にならない肉体を構築する事が私流と思っており、ギリシャ彫刻のようなマッチョな肉体の求めは不要なのです。

ごくごく自然で継続できる形態の取り入れが、次のステップ、80歳代のボーダーラインをクリアできる流儀、手法かなと思うのです。

100歳以上の方々の生活レポを見て、パワーを頂きありがとうございます。と感謝、感謝でした。

免疫力をより高める食生活〜

私もかってはそうであった、のん兵衛・・・・この方々には縁の無い、酒は百薬の長から「酒は百害あって一利なし」にシフトへと・・・・
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酒一滴も呑まないこの効果は大きいと認識し即、数値に表れました。元来、体脂肪は人より低い数値であるが、酒は百害あって一利なし!に1週間シフトし「一滴も飲まない生活」は・・・・

9月21日現在、体脂肪9、体内脂肪5と言う結果である。

骨量も筋肉量もエネルギー消費量の数値は、むしろ少し増えていた。

5月頃は
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感謝いたします 2010年09月21日
昨日の日記「61歳で離婚、63歳で結婚」について

多くの方に見て頂き、改めて感謝をさせて頂きたいと記しました。

私は「日記」と言う概念上、どうしても自分の事だけを書きとどめ、毎日とは行きませんので、その気になった時だけ、記すようにしています。

過去の日記に書きましたが、ある時から日記に「拍手ランキング」があることを知り、それ以降、特に「日記」と言う性格を果たすような書き方に始終し、今に至っています。

自分の考え方や日常的な過ごし方に徹して、淡々とその記録というのでしょうか、またどうでもいい事かもしれませんが、私にとって真剣に向き合っています。

書いている内容はそれは当然、共感して頂いたりその逆だったりと、人それぞれ考えが異なるのですから、それは至極、当然であり自然の姿です。

ただ私の頭の中は「何事も前進のみ」と、すべてがその前進する事に物事は解決する!と信じて疑いません。

後ろを振り返るのは「大嫌い」で、ネガティブな過去は全て頭の中から削除と、これに徹しており、人によっては受け入れられない事もあるようです。

時間は戻せない!後戻りできない!

この戻せない時間のあれこれを考える事が「嫌」なのです。こんな戻せない事を考え、そしてその事にくよくよしてどうするの?と・・・・

そんな事を考える時間があったら、もっともっと夢があり希望がある「前」を見て、その事に時間を費やしたのが、ずっと精神衛生上、体に有効な成分発生で、健康的といつも思いながら実践しています。

健康を自己管理する上でも、病気にならずいかに「医者の世話」にならないか、自己管理できない方から「貴方は意思が固い」から普通はなかなか管理が出来ない!と言われたりします。

これはまったくナンセンスな話で、病気になって家族や仕事で回りに迷惑をかけたくない、と思えば「意思」の問題などと甘ったれるのではなく、「責任の問題」と常に考えをシフトすれば対応できると思っています。

所詮、人生楽しく!が基本で、その楽しい人生を過ごすにはまず「健康体」である事が一番の条件です。

その健康体を作り上げる「礎」は何か、それは己の思考が全てが左右すると、現実にポジティブな考えであれば、全てが良き方向に進み、その逆、ネガティブであれば、その悪しき流れに飲み込まれて行くのです。

酒は百薬の長!から一転し、今は「酒は百害あって一利なし」と大きく方向転換し、1週間、一滴も酒と称するものを摂取しなかったら驚きの数値が・・・・

体脂肪が「9」の数値に、また「体内脂肪」は「5」となっていました。勿論、骨量も筋肉量も増えていたには私自身、≪目を疑う≫結果でした。

体に良い!と思った食生活は即実行、これが健康体をつくりだす「源」と思って、さぁ、今日も元気にいきようっと。
37年間連れ添った前妻と離婚、そして大きく世代の異なる女性と結婚。同時に行ったようなものですが、結果から両方の責任を取って、共に納得のいく形態で現在に至ったのです。

この様相を見て、多くの友人、知人は「そんなパワー、どこにあるんだよ、すこし俺にもお裾分けしてくれよ」と、本気とも冗談ともつかぬ言葉を聞きますが確かに両方を成し遂げるには大変なエネルギーを要し、リスクも伴います。

片方には「生活に途方に暮れることの無いような処置」を施す。片や、そんな事の緒を見せないよう気を配る心遣いを、と何分、アッチコッチと気にしにながらの対応でした。

離婚の条件は今の住宅を除いて、全ての財産を破棄し、前妻に渡す事を条件で「協議離婚」でした。本来なら「悠々自適の余裕ある生活」が約束されていましたが、無から出直す覚悟の決断、で新しい生活にシフトする事でした

それは何を意味するか、
ずっと一途に私を思い続けていた、娘の様な年代の女性を受け入れる事でした。
まだ結果が決まらない時に前妻は「そんなに思われているのなら相手の夢を適えて上げて」とそして私にはOOの条件を呑んでくれれば良いと言うものでした。

両方ともうまくしようとする事は無理であり、どちらかに決めねばお互いに「不幸」の2文字が目に見えており、苦渋の決断を迫られたのです。

片や新しく生活をしようとする相手は、私の場合、不倫と言う世俗的な言葉で片付けるほど単純なものでなく、それは「男女の関係は一切無し」と、その上での事であり、他人様はどう思うか!そんな邪推や低俗的推察は私の頭からは全て排除していたので、彼女の純粋さに責任を取ったと、決して言い過ぎではないものでした。

前妻に対しても特別に「不満」があった訳でなく、前妻は若い頃、某映画会社から女優にとスカウトが何度も来るほどの美貌の持ち主で、女優の道よりも私を選んだのです。若かりし頃は、一緒に歩いていると多くの方が振り返るほどの美形でした。

美しい人はこころが醜い!と世の中ではその様な事が言われますが、それは間違いと彼女を知って、美しいものはこころも美しい、と言う事を教えられたのです。

主婦として全てに於いて「完璧なほどの女性」でした。しかし、人は無いものねだりだと言ったりしますが、もしかしたら私もそうであったのかなぁ〜と、今更ながら思うことがしばしばですが、それはどうでも良いこと、何分「責任」と言う言葉が重くのしかかり、それを果たすにはどうすれば良いかだけを考えての結果でした。

あちらを取ればこちらは立たず、で「前妻の条件」を全て呑んでの決断でしたが、多分、前妻も相当悩んでの決断であっただろうと思うのです。

条件の一つ、住まいの新築が完成!と同時に離婚し、息子も母と一緒に生活すると言う事で前妻と別れ、そして2年後、純粋さに責任を取り、新らしい「妻」と新生活に入ったのでした。

この一連の人生の中の大きな転機は、私にはより活力が生まれ、人はそんなエネルギー何処にあるの?と不思議にそして、とても真似は出来ないと言いますが、それは当然でしょう。

熟年夫婦の多くは「愛情も、生活も単に損得」でくっついていると、私のような行動は「馬鹿げている」と、思うのが一般的です。
レストランやカフェで一言も話の無い夫婦を見て「愛情無し」と思うのが私の基準です。また夫婦単位で行動を共にしない夫婦も同様です。

多くはお互いの行動を尊重する、等とは言うが、現実はお互いに「ヘキヘキで嫌」なのであるが、離婚するとお互いに「損」が見えて、その行動に踏み込みたいがそんな勇気も度胸も無い、意気地なし、と見るのが自然なのです。

良い例が「年金は2人で分割」と言う制度改正された時、多くのメデイアは熟年離婚が増えると報道したが、しかし、現実はその様な結果にならず、一気に「熟年離婚」の流れはしぼんでしまうのです。

女性の多くはがっかりし、せっかくの希望の道が閉ざされたと思った事でしょう。

社会から退いた男性の多くは疲れ果て、しかし、主婦として鋭気を養った世の奥様は、養っていたパワーを一気に爆発させ、離婚も出来ず、だからと言ってそのご主人に「若かりし頃に注いだ愛情」など、何処吹く風です。

ただただ自分のパワーを撒き散らして、夫婦はそれそれの行動を尊重!などと訳の分からない論理を振りかざし、旦那はさておき、そんな女性が今、社会を闊歩しているのです。

悲しいかな、離婚したくても出来ず、だからといって愛情などと言うたわごとは遠い昔に捨て去り、ただ利害で結ばれているのが熟年夫婦と言っても決して言い過ぎでは無いと思うのです。
何でレストランやカフェなどと言う公の場所に於いて「無言」なの?愛があればどちらかが「話をする努力」をすると思うのですが・・・・・
すがすがしい朝! 2010年09月19日
1ヶ月ぶりの「競歩的散歩」です。

8月17日のバイク転倒事故?
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以来、そのウォーキングやストレッチを控えていたが、今日からまた稼動始めました。

足の損傷も思ったより早く回復し、基本的に「骨の異常なし」でしたので、当時の腫れ具合を考えたら良好な進展です。

ただくるぶし周辺の「腱の炎症」は大きいようでしたが、これの腫れもかなり引いてきて痛みも無くなって来ましたので「再開」です。

1ヶ月ぶりに見るウォーキングコースの道端の草花、住宅の庭木も大きく様変わり、しっかりと秋の気配が漂い、この時間差は「浦島太郎状態?」でした。

今年は異常な暑さによりその変わりようが、より顕著なのかも知れません。

8月半ばでは、青々と生い茂っていた森の木々は、今は「疲れた〜」と悲鳴を上げているように見えるのです。

中には葉が落ち、また風前のともし火の如く、何とか枝にしがみつく木の葉は枯れかかり、痛々しい素振りを見せているように伺えるのです。

秋の気配は「落ち葉のシーズン」その落ち葉にならないよう、なんとかしがみついているようでした。

どこかもの悲しさの風情を感じ取れる森の木々、そしてそれぞれの「葉」です。

夏に盛りの花も全てが入れ替わり、コスモスのような「秋」一色と変化でした。

1ヶ月も空白をつくり、突然の再会は、ウォーキング周辺の環境観察に≪目をパチクリ≫させる新鮮さを得られ、これは当分の間、夏とは異なる「花の美しさに感動」しながら楽しめると思うのでした。

私の競歩的散歩は他にも同時進行で目的があり、その事も行いながらのウォーキング、バイクの転倒事故も「コレがあったからこそ大事に至らなかった」と自負するのです。

こんなケアも同時進行でウォーキングです
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驚きました。

先日の「田嶋陽子の歌とおしゃべりコンサート」に出かけ、その際にアンケート用紙に記入し、住所を書きましたがその住所に基づいて「返礼」が届きました。

軽井沢で初めて遭遇し、その時にお話をさせて頂いた印象は「大変気さくな方」と、気取らず、知的なおば様という感じ強く、その時にコンサートの案内も頂いたのでした。

その際、私の信条は「一期一会」と、それを大切にすると申して、必ずコンサートには行きます、と約束したのです。

その「一期一会」は信条であり、コンサートにはしっかり出かけたのですが、その約束した事がよほど嬉しかったと見えて、当日のコンサート終了時、少し話した時に、田嶋先生は言ってました。

「行くよと言いながら、多くは来ない」のがごく普通と、まさか来るとは思わず、感激してます、とおっしゃっていました。

私はその言葉を伺い、そんなもんなんかよと、私自身が驚きました。

約束をしたことを破るとは、とてもそんな事が出来ないのが、当たり前で、ごく自然と思うのです。

私の周辺ではその様なことに巡り合わないが為に、それを果たさない事そのものが奇異に映るのです。

出来ない約束、するなよと、最も今までの人生の中でそんな環境下で生きていた事が無いために「奇異」に映るのかも知れないのです。

田嶋陽子先生はその感激した心情を読み取れる文面で、私とかみさん宛てへ、別々に内容も異にした「返礼」を書いてくれたのです。

ご多忙の中、個々に書かれた「返礼」を見たかみさんはあのコンサートからすっかり≪田嶋陽子ファン≫になり、更にその気持ちが強くなりました。

私もたけしのTVタックルで激論する姿とは別の一面を知り、すっかり「田嶋陽子ファン」に傾斜しそうです。

とても70歳になるとは思えない「肌年齢」は、驚愕!と身近に見てその若さには本当に「ビックリ」でした。

先日のコンサート日記
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老いは楽しい!ものなり 2010年09月17日
誰でも公平にやって来る「老い」

それは命ある生命体として必然性ですが、60歳代、70歳代、80歳代と、多くは80歳代がそれ以上、生き延びる事が出来るか否かのボーダーラインと個人的に思うのです。

その80歳代まで如何に健康ではつらつと活きていくかが、この60歳代、特に重要な年代と位置づけしています。

勿論、60歳代でも元気に過ごしていられるのは、それ以前、どの様な生活をして過ごして来たか、その積み重ねの上に成り立っているのが現実と思っています。

ただ80歳代まで健康で元気に活き、更にそれよりも先に行くには、そのボーダーラインをクリアする事に今の健康さが求められると考えるのです。

いかに「今の生活が重要」であるか、誰でも年とともにガタが出てくる事は、生物である以上、一つの宿命で致しかた無く、その「ガタ」はなかなか避けられません。

しかし、そのガタを少しでも最小に留めるには、60歳代の生活をしっかりと考えて、絵にかいたような理想とする健全性が求められると信じるのです。

60歳代で病に伏している方と、病気せず健康に気を遣い、病気防止に努力して≪健康体を維持≫し続けている方と何処が違うか!

それはおのずと生活習慣、それは食生活習慣が根本的に異なると言っても良いと考えている一人です。

80歳代迎えるに当たり、この60歳代が如何に重要か、それはその60歳代に今まで歩んで来た生活が、どこか健康を損なう姿勢が見受けられるならば、それを変換する、その時の為に備えるチャンスだからです。

日記には「病気になっちゃお終いよ!」と、何度か記していますが、その病を発症せず、健康体を構築するには、生活改善しか道は無し!と常々考えそして実践しています。

世の中には「食への誘惑」が大きな口を広げて待ち受けており、なかなかその誘惑から逃れられない現代の飽食社会、その誘惑に打ち勝たねば悲惨な≪病気と言う現実≫が待ち受けないとも限りません。しかし、強い意志で臨めばそれは打破できるのです。

医者はその病が発症して、初めて世の役に立ち、患者にも頼られる。
それ以前は自己の生活が全てです。その全てに知性を投入し、長生きのボーダーラインは80歳代、その80歳代をクリアできるか否かは全てが60歳代の「生活習慣が左右する」と信じています。

還暦5年生はその重要な年代60歳代の半ばに入り、その年代の重みを、また健康長生きの為の方策を更に加速し、認識をあらたにするのです。

その方策は「老いは楽しく」の楽天思考、そして絶対的食生活習慣改善、これは免疫力を高める食生活改善!これに尽きると・・・・

極力、医者とは縁の無い生活を過ごせるように「努力」する事が、80歳代をクリアしそれ以上の健康で命を保てると、その土台、礎となる60歳代の生活観全てがそこにあるのです。

健康であれば「老いは楽しい」に尽きるのです。時間があり好きな事が出来、また経験の積み重ねで、色々な楽しみの選択肢が数限りなく存在するからです。

この日記を読んで鼻で「フン!」とせせら笑いをする方、納得する方、それはそれでその人の許容度の問題。

また60歳代以前にでたらめな生活習慣を過ごされた方は、耳の痛い話でしょうが、しかし考え方とその考えを速やかに生活に取り入れる事により、不健康体は解消され、ボーダーラインもクリアできるチャンスの礎を築く時期となるのです。

老いの楽しみはまず己の健康体!をしっかりと構築せねば始まりません。不健康は精神衛生上、どうしても悪循環となり、病はさらに病を生む。

それには食生活がどうであるか、洗い直すすチャンスと捕らえ、発想の転換が求められます。

免疫力を高める食生活
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まだ大学を出て間もない頃の20数年前に知り合い、それ以来一途に私を思いつめてた日々、そしてその結果やっとゴールインした暁には、それ相応の年齢を重ねてしまった我が妻。

色々な事情があり、前妻との解決に時間がかかってしまい、女性としてベストな時期の「出産」を逃し、女性の一番の幸せを満たして上げれなかった申し訳なさと、妻の無念の心情は察するところがあります。

男と大きく異なり、女性の最大の喜び!その幸せは「子供を生む」事と、そして結婚の目的は「二人の子孫を残す」これが結婚の大きな目標であり目的でもあると信じて疑わないかみさん、そして私自信の考えでもあるのす。

その一番のベストなタイミングに、そして女性人生の一大事業に協力出来なかった事への自責と良心の呵責、言葉に表現できない「情けなさ」には、いくら謝罪しても済むものではありません。

かみさんのこころは計り知れない「空しさ」があると察するのです。

我が妻と同年代の多くの女性は、子供の一人や二人、生んで「子育ての経験」を積み、しっかりと女の幸せ!を得ているのが世間では一般的と言われます。

それが出来ていない事に女性としての後ろめたさや悔しさは、私の想像以上の「こころの葛藤」があるものと推察するのです。
いや推察等と人ごとのような言い方は、はなはだ不謹慎ですが、出産が女性として最上の幸せ!と思っている一途な妻にとって、大変なジレンマなのです。

大変仲が良い反面、近所でも喧嘩が始まると「耳を立てて聞き入る」ほどの、激しい罵り合いや取っ組み合いは、想像を絶するほど「過激」で、私自身、子供ほどの年代のかみさんにムキになる自分を、何で我を忘れるほどその次元に落ちるの?と我を疑う事しばしばです。

かみさんの立場を考えると、20年以上も私と結婚を待ち続けた自分のこころ、と待っていた熟たる切ない心情が、この喧嘩の際に一気に噴出すものと分析し、冷静に対応しているのだが、その冷静さがまた「癪の種」のようである。

その際に出る言葉は、もっと早く結婚する気なら、出来たはずだ!とその追求は私にとって最大のウィークポイントであり、弁解のしようが無いのです。

一途な女性のひたむきさは、その追及も決して手綱を緩めず、私も弁が立つほうであるが、我がかみさん、私以上に議論好きで、ディベートはいつも窮地に追い込まれると言う惨状です。

記憶力も並みの能力ではなく、特に私の事に関しては、過去の会話の多くは記憶している事実、あの時、こんな話をしたと、しっかり覚えており、うっかりその当時に発した言葉と違っていたなら、アレ、話が違う!と突っ込みが入るのです。

私自信、少しいい加減な部分もあり、過去の会話などとは殆ど、宇宙のかなたで、突然、その当時を思い出せ、と言われても忘れており覚えていないことが多く、うろたえる始末。
とても急には「その当時と同じ言葉」が発せず、思い出せないのが凡人と言うものです。

生真面目で記憶力の良い方とは・・・・
それはそれは大変な能力の持ち主と認めますが、こと、かみさんとなると結構、プレッシャーで勘弁してよと、ギブアップです。

女性の幸せの真髄、それは大好きな人と結婚し、その人の子供を生む事、これ一点が「絶対的幸せ」と信じて疑わない、我がかみさん、これからもこの戦い?に挑まれて対応せねばならないと思うと、偏頭痛持ちには更に拍車がかかり、その痛みは更に増してくるのです。

なかなか子供が授からない夫婦には、奥の手として

@向井亜紀スタイル
A野田聖子スタイル
B最後は里子スタイル

と要約すると上記の3タイプに、妥協の道が開けているが、これは経済性と言うクリアしなければならない大きな壁がはだかり、また戸籍上の壁も存在し、「その壁」打破は私には絶望的かもしれない。

一途に人を愛する事は何とスバラシイ事でしょう!とその人を愛する精神には敬服いたします。
しかし、それは時にはこころに重く圧し掛かり、苦しみのるつぼとなるほど悩み、重圧に耐える精神、これを人は「贅沢」と言うが本当に「贅沢」と言うものでしょうか・・・・

ある方に言われました。お前は贅沢すぎると、それは悩みでなく単なる「おのろけだ」と、それはそうでしょう。他人様は当事者でなく、本質を理解せず上辺だけを捕らえている、単なる傍観者だからです。

梃子でも動かす事の出来ない「これだ!」と思いつめたらそれ一点に集中してしまう思考。

その思考分散にはこれからもどれほどのエネルギーを注がねばならないか、気の遠くなるようなあの手この手に奔走せねばならない宿命を背負い、これからも歩ねばならないと思うと気が重い。

一連のプロセスです。パート@
http://smcb.jp/_ps01?post_id=1571331&oid=14051..
パートA
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人は健康!と自信があっても油断大敵です。健康に自信があり、ありとあらゆる検査が、科学的に完璧なデータを示し、医者からベストのお墨付きを頂いても、ても何処かに「伏兵」が潜み、一気にその自信を潰すのです。

http://smcb.jp/_ps01?post_id=2330180&oid=14051..

心臓、脳、肺、大腸、肝臓、とあらゆるパーツを検査して何処も異常なし。血液検査は全てが許容範囲内のデータ。

しかし、しかしです。私は睡眠時、呼吸が停止していました。大変なショックです。まさか、まさかの仰天結果・・・・

そんな検査の結果、半月が過ぎようとしていますが、私の場合、まだ症状が中程度で「マウスピースの着用」で済むと、それで明日、そのマウスピースが出来上がります。

私は健康体ですが、体の構造上の問題で「気道が塞がれる」ようで、このため昼間でも朝でも「眠くなる症状」はもう15年以上、前から出ていました。

長いこと営業の仕事をしていましたが時にはお客さんと商談中「コクリ」と寝込む寸前、等と言う事がたびたびあり、ヤバイと思いつつ、また時には居眠り運転で、対向車線にはみ出し、対向車が停止して、クラクションを激しく鳴らして目が覚める!などと言う「芸当」もありまた。

診察したお医者さん曰く、今まで良く死ななかったね!と・・・本当かよとその言葉、疑ってしまいました。

しかし、寝つきが良いので「完璧睡眠」と思っていましたので、とても無呼吸と想像もした事がありませんでした。

床に入ったら一瞬に気絶状態、失神です。

これは無呼吸症候群の大きな特徴だったようで、私は寝つきの良さを「自慢」していたのが、結局、これが無呼吸の決め手でもあったのです。

世の中、知らぬが仏!と言いますが、本当にその通りと思います。

無呼吸を知ってからは夜、寝ていて気になり、すぐ目が覚めてしまい、これも頭痛の原因で、知らなかったときはどうかと言うと、体は寝ていたが「脳は寝ていない状態」の様でした。

一泊検査のデータグラフがその裏ずけとして、数値を表し、その説明の詳細を聞いて、ただうなづくだけでした。

今は脳も体も一体で夜中に時々、起きてしまうと言う状況です。眠れないのもつらいですが、明日、マウスピース装着が出来、そのマウスピースで≪寝られる≫と思うと、こころが弾む思いです。

マウスピースは下あごを出し、「志村けん」のゴリラ状態にして寝床に就き、気道を広げるように「強制的にあごをずらす」状態をつくる様で、時にはそれが体に合わない場合があり、何度か作り直す場合もあるようです。

某医大の咽喉科で何度もあご周辺の精密検査をして、型取りをしましたので、体に合うものが出来上がればと願うのみです。

体型が細身であっても、空気の通る「気道」が塞がれてしまう構造ですと、無呼吸は起きるようです。気になる方はぜひ呼吸専門医で「1泊検査」を受ける事をお勧めします。

睡眠時無呼吸症候群の発症されている方の死亡率16%、これは100人の内に16人が死亡と言う「怖〜いデータ」です。侮れません。
昨日11日、かみさんと東京四谷にあるシャンソンライブハウスで「田嶋陽子とおしゃべりコンサート」に出かけました。

田嶋陽子と言えばたけしのTVタックルでおなじみの・・・と形容するくらい独特のしゃべりと自己論理を展開し、三宅さんや桝添さんとやりあう場面をたびたび目に致します。

多くの男性は「あの女、大嫌い」と思われるのではないかと想像するほど、男性コメンターを追い詰める豪快さのある女性のイメージですが、私もTV画面で見る限り、日本人としてレアな女性の一人としてカウントしていました。

そんな田嶋先生と知り合うきっかけは、8月29日にある軽井沢のブテックで遭遇し、その時にかみさんと一緒にお話をしたのがTV画面ではなく「生の姿」を知る最初でした。

その時は年齢を知らず、外観を見る限りまだ50歳代かなと思っていましたが、調べるともう「70歳直前」だと言うことを知りビックリ!TV画面は勿論の事、生でもとてもそんな年齢を感じさせず、軽薄なジョークを飛ばしてチョット反省と思った次第です。

その時に「私、歌を唄うの」と、その時にシャンソンを歌うことを始めて知ったのです。軽井沢はもう終わってしまったが9月11日に東京でコンサートを行うと言われ、よろしかったらどうぞと誘われたので、つい「行きます」と言ってしまったのが昨日のライブハウスで田嶋陽子先生の「歌声」を聞く、きっかけでした。

しかし、驚きました。もうすぐ70歳と言う田嶋先生の挑戦。
本格的に声楽の先生に師事し、それから5年、その歌声はスバラシイ!と感嘆符でした。

1916年生まれは美空ひばりの「歌声」と共に育った世代、やはり美空ひばりの歌に何処かに影響を受け、やはりプログラムの一つに入っていました。しかし、伸びのある声、はっきりとした発声、澄んだ歌声は持って生まれたものを備えていたのかなと思わざるをえませんでした。

TVタックルで見せる闊達な議論のイメージには程遠いと言うか、別の人物と思えるようなシャイな部分を覗かせ、あまりの緊張さで「歌詞を飛ばす」場面もありましたが、それはご愛嬌として「感動」でした。

素質を持ち合わせていたとしても、65歳から本格的に声楽の基礎から始め、しっかり歌手としお金を取るほど、そして舞台に立つまでの努力は人並みでは真似の出来ない血のにじむ思いをした成果と、感動と感心にこころが揺ぶらされました。

かみさんは歌声とその感情こもる唄に感動し、涙するほど胸を打たれたコンサートのようで、すっかり田嶋陽子ファンに感化された日となったようでした。

私も同様、TVタックルとは別次元の人物と、このおしゃべりトークの中から人間性を垣間見たような気がしました。
私は70歳!と田嶋先生が自ら発していましたので、その領域からは想像できない鋭気を頂き、またスバラシイ歌声に「感謝」した1日でした。

明日のたけしのTVタックル、出演するようですので「歌手の田嶋陽子」とは別の視点でしっかり楽しませて頂こうと思うのです。

昨日のプログラムは

1部   1、人の気も知らないで
      2、水色のワルツ
      3、津軽のふるさと(美空ひばりの持ち歌)
      4、悲しい酒(美空ひばりの持ち歌)
      5、時代
      6、愛のままで
休憩
2部   7、サンフランシスコの6枚の枯葉
      8、鶴
      9、ひまわり
     10、今夜は帰れない
     11、パダンパダン
     12、愛の賛歌

2時30分に始まり、終了は5時30分と休憩を挟んで3時間、途中、歌の解説、その歌に寄せる自分の思いなどを語り、お尻が痛くなるほどでしたが、3時間はアッと言う間でした。

65歳前後から始めた声楽の勉強、そして現在70歳近い年齢で歌手デビュー、このパワーに敬意を表すると同時にありがとうございますと田嶋陽子先生に感謝!

その帰路途中、西武池袋店では「北海道うまいもの展」が開催されており、6月から7月に北海道を楽しんできた事を思い起こし、その時食した「美味しいもの」を頂ける再チャンスを、しっかり堪能して来ました。

2010年8月29日軽井沢
2010年9月11日田嶋陽子コンサート
無呼吸!死んじゃう。2010年09月09日
健康には気を使い、生活も「病気にならないための免疫力強化の食生活」を更に進めるよう努力している者にとって、無呼吸症候群とはビックリ!でした。
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これは身体の構造上の問題で、もって生まれながらに備えていたようでした。食生活や普段の不摂生で生じたことではなく「気道が狭い」事が大きな原因で、仰向けに寝ているとその「気道」が塞がれ、酸素の吸入が妨げられるとの事です。

これにはある部分「ホッ」としました。それは絶対的に健康は誰よりも「病気にならない」と言う部分に重きを置いて、生活し、また人にも常に病気にならない為の食生活はどうあるべきかを説いているからです。

身体の構造上の欠陥から生じる「無呼吸症候群」が原因はホットしましたが、しかしその対策はまだ軽度でありマウスピースの着用で済む事が判明しました。

先日、その型取りを某医大病院で行う。



癌や糖尿病とは無縁の生活とは・・・・

と常に考え、その様な病になってからでは遅いと、日本の医療は「病気になってしまったからの対応」が中心で、私にとってその病になってからのウンヌンはナンセンスと思うのです。

多くの方は病の発症で、自分の今までの生活が如何であったかを振り返ると、誰もがその要因べき事に思い当たる節は自覚するのです。しかし、時、すでに遅し!となり「しまった」と後悔するのです。

病気は遺伝子要因意外は全てが自己責任で、誰の責任でもなく、己の生活習慣の軌跡と私自身、思っており、その病にならないためには「自己管理」以外ないと言うのが常々の考えです。

病にならない為の生活、それは「免疫力を高める食生活」を普段とおりに実践する事、それが防止の一役になると信じているのです。

最近の私の健康検査結果は病気にならないためにどうすべきかを常に年頭に於いての生活の結果と自負しています。

脳ドック結果〜30歳代同様で脳内血管に何処も不都合無し、また循環器系統も同様です。(この中にはMRI、CT、エコー検査も含めて)

血液検査結果〜全ての数値が許容範囲内

常日頃の適度な運動も怠りなく、筋力、視力、反射神経も還暦5年生として、見劣りはしないと思うのです。近視であるが為に、夜の2輪、4輪の運転の際には眼がねの着用であるが、それ以外は一切、めがね不要。どんな小さな文字でも普通に新聞を読むように30pくらい眼を離して判読できるのです。

反射神経も先日の走行中に於けるバイク転倒事故、これも常日頃の筋力が衰退しない為の、軽度のストレッチを毎日行っている賜物と、そして反射神経は常に脳の「前頭前野」に刺激を与えているのです。

それはバイク生活50数年で、常に最悪の事態に備え、バイクに乗る時は、あらゆる部分に神経を注ぐ。これを怠ったり、油断したりすると先日の事態のような「転倒事故」にすぐ直結するのです。

たとえ筋力強化し、反射神経が養われていると言っても、転倒し捻挫だけで済みましたが「痛い」思いは免れません。

この転倒事故のように「事が生じて」では、いくらご立派の弁を述べても、その後の対処等とごもっともな事「説」を記してもそれはナンセンス、それ以前の問題で、その問題を常日頃、生活の中に取り入れてそれを「生活習慣」として身に浸けるかが、病にならない全てと思うのです。

結論からは「免疫力を高める食生活習慣」以外は無しと、私の口癖は「病気になっちゃぁお終いよ!」と・・・・

現実に病を発症し、そんな方は世の中ゴマンといますが、しかしその現実に直面している方であっても、病気になっちゃお終いよ!と思っている事でしょう。

これは「私の病気にならないには」のつぶやきでした。
先日、8月30日の事、久しぶりに「血液検査」を行いました。結果を昨日、知る事になりましたが、全ての数値が許容範囲に収まり、医者から「ベスト」で、指摘するような案件無しと健康面で「太鼓判」を押されました。

かっては「酒は百薬の長」などのたわごとを言って、一晩にサントリーりザーブのボトル1本や日本酒一升、平気で空けてしまった事がありましたが、今は「酒は百害あって一利なし」に考え方を変え、飲む回数も量も「極少」と、そしてまず毎日は飲まない生活に変えたのです。

酒は百薬の長!等と理由をつけて飲んでいた時は、血液検査が恐ろしいくらいに数値に問題があり、気をつけねば、気をつけねば、と自分に言い聞かせながら飲む生活が続いていました。飲んだ翌日は必ず体に変調を来たし、フットワークが重い状態でした。

遺伝子的に「酒豪の家系」で、オヤジも兄弟もいくら飲んでも平気の顔をしていました。しかし、私の場合、すぐ顔が真っ赤になり、赤い顔をする割には平気でその時は飲めたのです。

しかし、飲んだ2〜3日経つと、必ずニキビ状に「顔に吹き出物」が出来て我ながら、これは肝機能が良くないと自覚するようになり、それから飲む量も少しづつ減らし、現在に至ったのです。

それから7年くらい経過したでしょうか、

今は完全に「酒は百害あって一利なし」のモードの生活です。幸いな事にかみさんの家系は「飲めない家系」で、チョットでも飲んだら救急車を呼ぶ羽目に陥り、大変な事になるのです。

時々、かみさんの実家でその家族と夕食を共にする事があるが、それは酒など無くても和気あい合いとジョークも飛び出し、和やかな時間が過ごせる事を知り、これも酒が無くても会話がなせる業を学んだのです。

私よりも一回り、歳を積み重ねている義父であるが、なかなか勉強家でトンチも回り、いつも冗談を言ってその場を和ませるオヤジさんですが、健康も人一倍、気を遣い、気力、体力、エネルギーも年齢にはどうみても見えません。

この環境は私をより向上させて頂いた事に感謝しています。

今まで以上、20歳以上離れたかみさんの為「病気を排除する生活」に励めねばならないと思うと共に努力せねばと考えるのです。

日記に何度も書いていますが、病気になってからの相談や解決の方法を見出す!事はナンセンスと常日頃、思っておりそれでは遅いと、そんな事にならない為の知的生活、その実践が「病気にならない秘訣」と、そしてそんな体験生活を続けた結果が、ベストな血液検査の数値であると自負しています。

食生活は数日前に「免疫力アップの食生活」を記しましたが、

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これに「限る」と、その生活の中で「酒は百害あって一利なし」で徹底したいが、まだ断酒に完全に至っていない。

1週間に1〜2度は軽く飲んでいますが、しかし以前のような、でたらめ生活が顕著に血液検査にも現れた数値は取り除けました。

病気になってからでは「遅い」と、いくら発症してから医者や相談と、それは気休めに過ぎず、それ以前の生活がどうであるか、見つめ直して「徹底すべき」と思うのです。

それには美味的食生活の誘惑を受けても続けない、これが一番の妙薬と、私の実践的生活が物語っています。

お酒が大好き!とお酒を止められない方には、耳の痛い話ですが、しかし、私もお酒が嫌いではありません。その好きなお酒の壁を乗り越えて、悟ったのです。

その悟りはお酒を習慣として飲んでいた時の「最悪の血液検査数値」と「現在の数値」を比較すると、それは一目瞭然!科学が「証明」するのです。

酒は百害あって一利なしと・・・・・・そして免疫力向上には決して結び付かないと。
無言の夫婦&携帯電話に夢中のカップル2010年09月06日
相変わらず「暑い」です。この暑さはいつになったら収まるのでしょうか?
そんな疑念を抱きながら毎日を過ごす、この秋の入り口です。

我が家から車で5分ほどの場所にそんな暑さから逃れて、癒されるカフェがあります。過去の日記にも紹介した事がありますが、昨日もそんな場所で暑さをしのぎ、京都「竜安寺の庭」の如くの庭園で雰囲気を楽しんで来ました。

ここは席が空く事無く、次から次へとすぐ席が埋まってしまい時には待つ事もしばしばあります。開店以来のリピーター客として、1〜2週間に1度はかみさんと、あまりお店に迷惑にならない時間を見計らってお邪魔しているお気に入りのカフェです。

かみさんと2人でいつも話題になる事は「無言の熟年夫婦とメールで夢中のカップル」です。これはレストランに行っても、蕎麦屋さん行ってもおなじみの光景ですが、実に多いのです。

私たち夫婦の場合「言葉の応酬」が途切れたら、お終いね!と常日頃、話し合っており、話題を見つけて会話しています。また努力しなければならないと私自身、常々、思っていますので「夫婦のコミニケーションは会話」と、それを2人の信条としています。

確かに人は時間の経過とともに感動は薄れ、出会った頃の「こころのときめき」は失ってしまうのもです。私もご多分に漏れず、その傾向は凡人並みで、かみさんとの生活には慣れが生じ、新鮮さは薄れてつい人並みの感動の鈍さにになり勝ちですが、しかし、ここは気持ち次第で維持できると、また維持する事がどれほど、私たち夫婦には大切かと思うのです。

どんな夫婦でも、初々しい2人が出会った頃の「こころ」はいかがであったでしょうか?

1時間でも2時間でも無言で向き合う夫婦の姿を見ていると、最初からそうではなかったでしょう、とつい訴えかけたくなってしまいます。

大きなお世話「私たち夫婦の勝手でしょう」と、当然、その通りですが、しかし、出会いの頃を思い出し、その頃はどうであったか、その頃も「無言で2時間も過ごした」であっただろうか・・・・・・

夫婦の形態は様々ですが、

常に夫婦で何事も行動!が基準の我が夫婦。

何処に行くにも2人で、勿論スーパーも2人で!医者に行くにも2人で!と。
その基準から外れたりすると、かみさんの指摘を受け「軌道修正」です。

ただバイクはかみさんが嫌いで、これは一緒に行動出来ない!と言う事もあり、早くバイクは止めて!と要請されています。

しかし、こればっかりは止められない。
いい旅夢気分のTV放映を見て・・・・2010年09月04日
昨日9月3日の事、今週の放送で山梨市役所そば、「宴」に物見遊山よろしく、出かけて来ました。

いつもの事ですが、午前10時に関越道花園インターそば在住ですので、そこから一般道を利用し、雁坂トンネル経由で12時に山梨市に到着。

家から2時間、インターネットで場所を調べてその「宴」を探せど見つからず、とうとう店に電話をかけ、やっと場所の存在が把握したどり着きました。

しかし、驚いた!TV放送の影響で、それはまづ駐車場は一杯、しかし、近くにスーパーがあり、そこに車を置いてその店に!

時刻は12時50分、店内は満席、そして入り口には並んで人の列、順番待ちの用紙に名前を書いてその後ろにつきました。

駐車場のナンバーは大半が山梨県以外、これは私もそうですが番組を見て来たのだと・・・そんな事を思っているうちに常連の地元の方が私の後ろに付きましたが、つくなり「何、コレ、ウィークディに並ぶなどと言う事はないのに」と言いながらブツブツ言ってました。

私は心の中で「すみません」と、地元の方にとって意外な人だかりにビックリと困惑がありありと伺えました。しかし、地元の方のリピーターの多い店で、内心、シメシメと味に保証されている店なんだ、と期待を込めながら待ちました。

それでも1時間弱は待つことになったでしょうか、やっと店内に通され12人かけくらいの大きなテーブルで、他のお客さんと相席で座る事ができました。

私よりも先に座り、もう1時間近く待っていると言われていましたので、もう開き直って「いつでもいいや」と言う気持ちになっていると、その大きなテーブルでは、色々と他のお客さんと会話が弾み、もうフレンドリーで仲良し懇談会的に盛り上がりました。

そんな事で時間を費やしているうちに、時間の経過も忘れ、一気にぞのテール全体に料理が運ばれてきました。
別なメニューも存在しましたが、もう食材が品切れと言う事で、ワンメニューでしたので、しっかりとその料理を舌つづみです。

自然栽培で育てられた野菜中心の料理がメーンですので、もっともこの本質が魅了で訪れた事で当然ですが、その内にオーナシェフが変わった食材を使用していましたので、その説明を行い、美味しい料理を更に楽しく頂ける結果となりました。

たまたまそのテーブルには、食材の生産者の一人もランチに訪れ、更に詳細をその生産者が説明して頂いたので、料理の楽しさ、そしてそのルーツにまで踏み込むことが出来ました。

これを読んだ方はその点、お店言った際に楽しみの一つとして、しかし、肝心な料理の内容は・・・・・勿論、「お勧め」です。

ランチ1080円は大変リーズナブルで、勿論、デザート、コーヒーも付いてのお値段、それはこのご時世、選ばれた食材、そして料理の手間、チーズケーキにアイスクリームのデザートのボリュウム、なかなか得られない「体験」として、大変満足で、山梨市まで訪れた意味合いは大きかったです。

殆どがこの「宴」に費やされ、宴を出たのは3時頃で、そのアトは周辺のワイン工場やワインガラス館、そしてぶどうと桃の直売所に寄り、それらを購入し、家路に着きました。

ワインガラス館は店内、小樽の北一ガラスかと思うほどの雰囲気で、特筆するのはおしゃれなトイレが印象的で10年前に出来た施設と、お店の方が言ってましたが、オシャレとこれも良き場所と私の頭にはインプットされました。
ビックリ、中国人!草津、白根山にも大勢が。2010年09月01日
数日前だが、平地が余りにも暑いので、日本一暑い熊谷地方に在住する者とし、逃げ出して来た。

それは標高2160メートルの草津白根山へ!

家を10時頃出て、国道145号線と分岐し、草津温泉へ登るルートに差し掛かる頃にはお昼時となり、どこか蕎麦屋でも、いつもの「「茅葺屋根の蕎麦屋へ」と、思っているとその蕎麦屋手前左手に「新規の蕎麦屋」がオープンしていました。茶寮です。

よし、今日はここで蕎麦をと、昼食を取りました。店構えも店内も蕎麦屋そのものの雰囲気で「なかなかいいじゃん」とかみさんと会話しながら、定番のざる蕎麦でしたが、まだ真新しいと言う事もあり、気持ちよく過ごせ、また味もすばらしいものでした。草津温泉へ行かれた場合、一押しです。

標高2160メートルは「寒い」と・・・・

白根山のお釜まで軽装でも簡単に登れて、この清涼感は何と言ったら良いのでしょうか?しかし、このレストハウスからお釜まで道のりはしっかり整備された「道」でしたが、以前は駐車場正面から、緩いスロープで簡単でしたが、今回は、お釜に向って正面より左手の勾配もきつく、時間を要するルートでした。

正面からの一番良く見える「お釜」のルートは崩落で閉鎖され、この左手一本になってしまったようでした。

そんなルートになったとは知らず、かみさんもハイヒールではないがかかとが少し高い、ヒールのものでしたので少し登り難そうでしたが、ゆっくりと時間をかけてお釜が見える「眺望の良い地」に到着でしたが、ここで驚きました。中国人の観光客が沢山、訪れていました。

6月から7月にかけて訪れた北海道は、それは中国人が溢れかえっており、日本人観光客のが少ないくらいで、これビックリでした。
まさか、まさか、の驚き!です。このような場所にも中国人が大勢観光にやって来ていました。

顔を見ただけでは、服装も同じようで日本人か中国人が判別不能、話している言葉を聞いて、やっと「あっあ〜中国人なんだ」と分る程度です。
7月から中国人の年収80万円以上と言う方々の観光ビザ発給制限となり、更に多くの中国人観光客がドット押し寄せてくると想像しますが、しかし、彼らをマンウオッチングしていますと、それは大陸的で大らかだなと感心いたします。

遅れびれる事無く、それは大声で会話をし、静かに会話する日本人とは大きく異なると、彼らに遭遇する度に思うのです。

彼らに負けじと?お釜が良く見える場所を背景にして、写真に収めて来ました。お釜周辺は木立が無く、日陰も期待出来ないので、道路を挟んだ沼の周辺に場所を移して、時間が過ぎるのを楽しんで来ました。

この沼と言うか「池」には、観光客が餌を与えるので、かもが「餌欲しい、餌欲しい」と要求するように、人を見たらまとわりつき、その行動が可愛いので、つい餌を与えてしまうのでしょう。私たち夫婦にも小がもを引き連れた「鴨一家」がぞろぞろと側にやって来たのでした。

あいにく鴨が食べられるような物を持ち合わせていなかったので、与えられませんでしたが、また仮に持っていたとしても与えるつもりもありませんでした。

ただのんびりと、その池の木陰で時を過ごしているには、その鴨のしぐさは微笑ましく、癒される心に日常的に味わえないものを得られたと思ったのです。

そして下界も気温が下がった4時ごろ、降りて草津温泉の周辺を散策し、暑い夏のひと時をしのいで楽しみました。
睡眠時無呼吸症候群とは!2010年08月31日
予約がやっと取れ、呼吸専門医へ一晩の検査入院、それは8月26日の事でした。そしてその結果が昨日30日に判明し、驚きの数値を見せられて「ヘッ、本当かよ」と自分を疑うばかりでした。

睡眠中、以前からかみさんが「途中で呼吸していない!」と言われ、早く検査して!とせがまれていたので、仕方なく検査入院であったが、その検査はおぞましい姿の自分に情けなかった。

一夜の検査は体中のあらゆる場所に「電極を30箇所以上」付け、生きている証のデータを全て採取するようで、まるでSFX映画の「改造人間を作り上げる途中の姿」そのものであった。

顔、頭、鼻、あご、まぶたと電極は容赦なくつけられおり、その電極がズレないよう、スッポリと首から上はネットで覆われ、鏡に映し出された我が姿、まるでゾンビの如くである。

電極の先には長いコードがあり、その上に「腰と胸」に、これもデータ採取のバンドで締め付けられ、寝るに寝られず・・・・また部屋には監視カメラで「寝ている状態の映像採取」とは、まさしくモルモット状態。

別部屋ではモニター室で監視され、なかなか寝付けず、体を起こすと同時に、モニター室の看護師が飛んでくると言う有様。

しかし、これも仕方ないと思いながらうとうととするが、それでも睡眠の入り口に到達する事できず、とうとう睡眠導入剤のお世話となる始末。

時間は零時ちょっと過ぎ、本来なら9時消灯でそのデータは8時から採取しているので、この時間にはしっかりと睡眠に入らねばならないのに、体にしっかり付いている電極が気になり、また締め付けられている胸のバンドが違和感があり、なかなか寝られずアセリが出てくるばかり。

さすがモニターで監視している看護師さんから、寝付けない我が姿を気の毒と思ったのでしょう。睡眠導入剤の小さい錠剤の半分を頂き、それを飲んでやっと寝付く事が出来たのでした。

さんざんな検査入院の一夜でしたが、その結果が昨日、分厚いファイルにしっかりと記され、その一冊を渡され、医師から説明を受けた。

何を隠そう、データは正確に我が生き様を記録し、嘘の付き様が無くギブアップである。
かみさんと一緒に説明を受けたがそれは驚愕の数値であった。1分間も呼吸していない事が一晩に何回もあり、その他の心当たりある現象もすっかりと数値で表し、指摘されたのである。

睡眠時無呼吸症候群などと言う現象は、太目の方の専売特許とばかり思っていたら、加齢すると筋肉の緩みで多くの方が「一夜の入院検査」で、本人が感じていた事と大きくかけ離れた「データが証明」すると医師は語っていた。

寝つきが良い!と自慢のタネであった、俗な考えが、間違いの元である事にショックは隠し切れない。

俺は私は絶対大丈夫!と思っている方ほど、示されたデータが物語ると同時に考え方の修正を余儀なくされる根拠は反論の仕様が無いのである。
免疫力!病気にならない秘訣2010年08月26日
母は偉大なり!
偉大な母に「ありがとう」と感謝です。私は生まれながらにして免疫力の高まる食生活を受けて来ました。

当時として母が科学的根拠を基にしての食材を活用していた、とは考えられないですが、しかし、今、考えるとその根拠は明確であった。主食は平べったい楕円形をし、その中心に線が引かれた形状をした「大麦」が半分も混ざっていただろうと思われたご飯。

調味に使う砂糖は「中白」と呼ばれていた、あめ色した粗目砂糖、そして「黒糖」であった。この黒糖は交ぜものが無い純粋なもので、時にはおやつとし、飴代わりによくなめたものです。

みそ、醤油も同様、混ぜ物が無い為に、すぐカビが生えて来てしまうほど純粋に大豆を原料としてつくられたものでした。また大豆が原料の納豆も必ず食卓には欠かせず載っていて、漬物も「乳酸醗酵や酵母醗酵」のものが多かったのです。

野菜は僅かな敷地に「菜園」を造り、そこで栽培された有機野菜、農薬等というシロモノは一切使わず、季節にしか栽培されない「旬もの」と、そして父の仕事を手伝ったいた関係で「山菜」が全てであった。

きのこ、うど、ワラビ、ぜんまいと数え切れない程の自然の中で育ったミネラル豊かなものばかりで、これぞ、その地域にしか採れない地産地消そのものの食材でした。。

動物性蛋白質に於いては、丸ごと食べられるイワシ、サンマ、ニシン、タラと魚が中心で、この当時は冷蔵庫が無く、生魚はサンマくらいで数も少なく、多くは保存食と言われたいた干物であった。豚や牛と言う「4肢行動動物」の肉は皆無で、たまに口にする動物と言うと、父が山に仕掛けた罠で獲った野うさぎや鹿、そしてヤマドリくらいであった。

しかし魚類は海辺が遠いと言う事もあり、鮮度は期待できませんでしたが、とにかく沢山食べさせられ、子供ながらに「生臭い魚」は余り好きではありませんでした。

その代わりに植物性たんぱく質は、欠かすこと無く、毎日、何らかの豆類が食卓を飾っていました。特に大豆とコンブの煮豆、そしてうずら豆の煮物、黄な粉、これは今でも大好きで、いつでも食べられるように常備しています。

母の偉大さ!はこれらの食卓調理が現在「免疫力を養う食材、調理の筆頭」の様に取り扱われ、病気防止にならない思想を重んじる方々、健康を気遣う方々、食生活習慣病にならない為に努力している方々に注目を浴びてもいるのです。

高校を卒業するまでこの様な食生活で育ち、野菜は旬もの、地もの、そして地産地消と言う自然環境の恩恵を受け、その基で身体が造られ頑強な骨格も形成されたと自負しています。

スズメ蜂の大群に刺されて生死をさ迷った1週間、死に至らなかったのも、何度も死に掛けたアクシデントにも耐えられたのは、偉大な母から受けた食生活が大きく影響をしていたと今更ながら、感じるのです。

その様な食生活環境で育ちそれから50年、今はどうか、現在はと・・・・

子供の頃に授かった食生活は遺伝子の如く、忘れ去る事無く良き食生活は受け継がれ、現在も同様な「免疫力を高める食生活」は変る事無く実践しています。

主食は玄米、動物性たんぱく質の摂取は魚か鳥肉の「脂身の無い」むね肉、ササミ、勿論「大豆を中心とした煮豆、黄な粉そして納豆」は欠かさず、四肢行動動物の肉は極力避け、野菜と動物性たんぱく質との比率「85対15」の構図で食卓を飾っています。

若きかみさんもその食生活習慣に関して、深く理解し母が私の身体つくりに影響を与えた食生活を実践してくれている事には「大感謝」です。

怪我はしても病気にならない秘訣は、こんなところに隠された起因があると思っています。またこのような身体つくりを、そして維持し続けているのす。

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NHKで放送した「ガッツリ飯」を常用している方には無縁の食生活かとは思いますが、しかし2400万人の糖尿病またはその予備軍が日本人の現況を考えると、健康は自己責任です。

「病気にならない為にどうしたらよいか」と常々考え、気を使いそして今まで「病気」と言う2文字には無縁で、色々な検査結果の数値も良い効果が生まれているのは「免疫力成果」のおかげかなと思うのです。
8月15〜17日の2泊3日、青森県青荷温泉「ランプの宿」そして秋田県乳頭温泉郷「黒湯温泉」を仲間とバイクでツーリングとしゃれ込んだ。

15日は佐野サービスエリを朝5時に出発し、東北道、盛岡インター周辺の約2時間、土砂降りの集中豪雨の中を走破し、カッパは役立たず「ずぶぬれ」と相成ったが、無事、黒石インターを午後2時に下りた。家から650`走行。

そこから約40分で青荷温泉「ランプの宿」到着。
ここは従業員、宿の経営者、味も素っ気もなく、廊下ですれ違っても挨拶も出来ない「最低宿」で、2度と行きたくない宿として私の頭にインプットで、しかしそんな人間模様は別に、ロケーションと風呂は特筆ものがあり、宿泊棟の「幻渓楼」も良かった。

幻渓楼は10名が貸切り、他の客を気兼ねする事無く楽しめた。その顛末記は以下のサイトでじっくりとご覧頂いて
http://azusin1.fc2web.com/hdj1/2010/0815/0815.html

問題は翌日の16日、秋田県乳頭温泉郷「黒湯温泉」間近に起きた出来事である。
その黒湯温泉到着3時、その手前100メートルで起きた私のバイク転倒事件である。

メーン道路から、わき道道路は簡易舗装され、バイクでも決して不都合さを感じさせない快適道路であったが、道幅が狭い!きついコーナーが多い!という理由で、同行した4輪を先頭に、その後に付いたのが私であったが、ブラインドと言われる見通しの効かない対向車線から突然、軽四輪が飛び込んで、前の4輪と衝突しそうなり、その四輪が急ブレーキ、当然、その後に続く私のバイクも、その四輪に追突しないよう「急ブレーキ」であったが、悲しいかな、ABSが付いていないと言う現実にいフロントがロックし、転倒してしまいました。

前の四輪は余談ですが2500万円もする特別仕立てのベンツこれに追突は絶対避けねば!と言う意識の元、思いっきりフロントブレーキを握ったのが転倒の大きな理由である。

転倒しても本来なら380キロもある重量のバイクに道路と挟まれる事は無いが、しかし私のバイクは余分なパーツを装着し、そのパーツは固定されているが為に、しっかりと足が挟まってしまい、しかし転倒する時間の中にも防御反応でダメージにならないようにと、瞬時に身体は動き、足はすぐ抜けたが、抜けた足は激痛と一緒に見る見るうちに腫上がり、救急車を呼ぶ事態となったのです。

しかし救急車で運ばれた「角館総合病院」ではレントゲンを撮り、骨の状態をチエックしたが、打撲と捻挫で全治半年の診断であった。

これでバイクに乗って帰れる!と大喜びした次第です。
しかし、65歳になって「焼きが回った」とでも言うのでしょうか、ただ骨折を免れたのも常日頃のトレーニングの賜物と、感じるこの頃です。


16日に怪我し、23日の経過は・・・・

腫れも随分とひいてきて、歩くのもそれほどひどい体勢でなく、楽に歩行できるようになりました。

バイクも転倒時に「足を保護」するバンパーに傷程度で済み、それ以外はどこも損傷をしていません。

本来なら足を挟む事はなかったのですが、遊び心で取り付けたパーツがいけなかった。このパーツに足が引っかかり、即座に足を離す事が出来なかった大き要因です。

また前を走行するベンツとの車間距離不足も災いしました。今後の「妙薬」となり、良い教訓となりました。

死んでしまったり、怪我をしてしまったりでは「洒落」にもなりません。不幸中の幸い!としてこれからのバイクライフに生かしたいと思っています。
ご無沙汰しています。
この2ヶ月ほど、必要≪最小限≫しかパソコンに触れず、久しぶりの「日記」です。

北海道の富良野で6月26日、初日舞台に立ち会った「帰国」がTVドラマ化され、15日の今日、夜9時に特別番組として流される。

たけし主演でオールキャスティング、なかなか見ごたえがありそうでお勧めです。

舞台の初日にその演劇を見ることが出来たが、この舞台上演も東京公演は昨日から初まったようですが、再度、観たい演劇です。

倉本聡が主催する「富良野塾」の俳優さんが演じており、厳しい演出の効果で、舞台は感動もので、多くの方が涙し、観客席ではあっちこっちでススリ泣く声が聞こえました。

6月26日は舞台の最前列で鑑賞でき、そのお陰?で、その劇場「富良野塾演劇工場」から出て行くのが「最後」となり、初日の打ち上げに参加が出来、少しだけ倉本聡と会話が出来た関係で、TVドラマもどの様な内容か興味があるところです。

打ち上げではビールなどの飲料が振舞われ、関係者に混じって雰囲気を楽しんできたのですが、舞台も勿論、感動!でした。

そんな感動の内容をぜひ味わって頂きたいとこの場に記しました。
本日、9時よりTBS系列でぜひ!

明日からはバイクで青森、青荷温泉「ランプの宿」そして「乳頭温泉郷」で2泊の旅です。

頭痛が治らず、8月26日の一泊精密検査である程度の結果が出るものと思い、極力、モニターとは縁を切っていました。

その結果次第で、再度この趣味人倶楽部活動を再開です。

ただ「帰国」の舞台劇に感動したので、TVドラマも脚本は倉本聡が担当しており、同じ感動が得られると想い、その感動をこの日記を見た方に知って頂こうとPRしました。

6月26日の富良野での初日打ち上げに「ビール」を頂き、そして会話もできましたので、TVドラマも大いに気になっていたのです。

涙するほどの感動!は期待できます。
涼を求めてと、暑い暑い「熊谷」から脱出と、日光、明治の館、そして同じ経営の霧降高原半ばに位置する、山のレストランへ定番の食事とチーズケーキを食べに行って来ました。

道路の渋滞は日常的な日光市内、特に東照宮周辺は処置なしで、ただノロノロと時間に任せて待つ以外は無い。しかし、それも時間が解決と開き直りの気持ちで・・・・

そんな渋滞を通過して明治の館は大変な人、人であふれ、これはいつになるか計り知れないと思いつつ、順番待ちのノートに名前を記すと、テラスであれば2名空いてます、と嬉しいウェーイトレスのお姉さんのお言葉、即、その言葉に甘えてテラスで食事と相成り候。

食事はいつもの定番、オムライスとハヤシライス。
これは値段も安く味も良いのが理由ですが、明治の館でもこの2点は目玉として色々な雑誌の取材に応じ、掲載されており、それ以外のコース料理は、お昼にはチョット遠慮したいハイなお値段です。

食後のコーヒーは「山のレストラン」と、この2点のみでこの場は済まし、その後は霧降高原へと・・・・
食事を済ませて霧降高原を向かいますが、対向面の道路は渋滞で車列の波、殆ど動いていない状態ですが、しかし、その逆は東照宮と逆である為に、スムーズに車を走らせ山のレストランと。

ところがこれまた驚き、山のレストランに到着するとここも大変な人、人と車を駐車するにも一苦労でした。何とか駐車スペースを確保して止める事が出来ましたが、今度はレストランの順番待ちは尋常ではありません。

ノートに名前を書いたが「40分待ち」とか、私たちは東照宮近くの「明治の館」の方で昼食を済ませての事でしたので、良かったですが、2時00分頃でしたが、まあ40分待ちならいいかと我慢の範囲で「霧降の滝」を見たりして散策して時間の経過を待ちました。

40分が経過したのでレストランの中で待っていましたがいつになっても、お呼びが掛かりません。私たちより前から待っている方も多くいて、まだ先だと思いつつ、少し痺れを切らしましたが、そんな事を思いつつやっと順番が来ました。

何と驚く事なかれ、40分が1時間20分待ちでやっとテーブルに着席でした。笑っちゃいましたが、昼食を目的の方が大半でそんな方は3時過ぎにやっと有り付けたと、随分と空腹を我慢しての事と、人の事ながら「お気の毒様」と心の中で呟いてしまいました。

やはりチーズケーキは値段もいいですが美味しいと、先日、北海道の函館で食し、美味しかったチーズケーキと比べて、う〜ん、やっぱりこのチーズケーキかなと評するのです。

明治の館も山のレストランも数年前とは比べないほどの「人の訪れ」で、もう休日は避けなければと思った感想でした。

しかし渋滞はまだ解消されず、霧降高原から降りると、途中より車はノロノロと、東照宮周辺道路は回避し、有料道路、日光インターチエンジから入り、足尾方面に車を走らせて、我がふるさと、足尾銅山、精錬所跡地の煙突を背景にした写真を撮って帰って来ました。
日記もこのところ、暑くてとてもその気になりません。しかし、この暑さを何とか乗り切ろうと「涼しい場所」を求めて車を走らせ、その涼を楽しんでいますが、昨日は野外ではなく、映画館と言う屋内で「涼」を楽しみました。

23日より全国の映画館で封切上映が始まった「インセプション」です。渡辺謙とデカプリオの競演が話題を呼んでいる作品ですが、内容は観ていただいてのお楽しみです。

最近の映画と大きく異なるのは「オープンセット」で、CGは殆ど使わず監督が、演技者のよりリアル感を引き出すためにセット上で演じさせている事が大きな特徴の映画です。

昨年の日本映画「剣岳」もCG無しで、全てがロケ撮影だった映画でしたが、このインセプションもオールロケーションで、パリ市内の「爆破シーン」も高圧窒素で物が吹き飛ぶシーンの撮影、そしてアルプスのような場所の要塞も、壮大なセットを造っての撮影で、リアル感が体感できました。

ただ、最近の映画の特徴ですが「画面の変化のスピード」は、やはり今風で、ゲーム感覚で鑑賞することになるでしょうと言うか、そのような感覚でした。

インセプション!のことば通り、現実とは異なる「夢」の中の出来事がストーリーで、少し観て時間が経過しませんと「難解」な場合もありますが、中盤より「なんるほど」とうなずきながら楽しめます。

インセプションの監督は渡辺謙が多く露出できるシーンと、この渡辺謙の為に制作したような映画で、だからといって彼が主役ではありませんが、ストリーの上では最重要な役割でした。

ラストサムライでハリッウッド進出からもう何年経過したでしょうか?

2010年7月23日の封切りインセプション、この映画で彼は更に飛躍し、ハリウッドの中でも存在感をより高めて、われわれ日本人に大きな夢を提供してくれる事に「感謝」です。

日本にも沢山の演技者が存在しますが、どうしても「語学力」で劣り、なかなかその領域に到達できず、その夢を満たしてくれた方はほんの僅かですが、渡辺謙もそのうちの一人で、今後、活躍の場はハリウッドが中心となる事を予想された作品でした。

ありがとう、渡辺謙と・・・
この日記をアップするようになり久しいですが、拍手によるランキングがある事を知ったのはごく最近で、そんな事は一向に気にしないで記していました。

その記しには多くの方からコメントを頂き、そのコメントに励まされ、嬉しい感情を抱いて、つい書きたくなってしまうこの性は止みそうにありません。

昨日の日記は「還暦5年生の肉体」に触れ、忍び寄る加齢を如実に表した現象の一つを記してものでした。

今まで精神や肉体の強い部分を生き様を通して回想し、それを列記した事が多く、弱い部分は皆無でしたのでそれを読んだ多くの方が「鉄人の如く」のイメージで映し出され自分に、昨日の日記では意外性と言う言い方でしたが、本来の私自信の真の姿を見出して頂き「ホッ」としています。

鉄人のような頑強さはなく、ごくごく普通のだら〜とした還暦5年生オヤジであることを述べたくて日記として今日はアップしました。

北海道は道内4500`、そして自宅から青森まで高速道路利用で片道650`、トータル5800`の走行を15日間、ただ走るだけでなく、観光で多くの見所に時間を割き、写真点数1000枚以上の思い出を残しての「5800`走行」は、結果として肉体に疲れの蓄積を!これは紛れも無い現実を残しました。

15日間の宿泊のうち、ホテル利用は3日間、それ以外は「車中泊」で、やはり長期車中泊の場合、それ対応の車が良いと思う次第です。

今回の車もしっかりと「2人が足を伸ばして睡眠」が出来るようにベット対応に改造して臨んでの旅でしたが、次回の良い反省点でした。

その疲れがドッと出て、現在北海道病?現象により色々と体調不調状態です。しかし、私と比較してもかみさんはごく平常で元気はつらつ、旅の運転も交代で行い5800`走行の3分の一以上に「運転」を任せましたが、その疲れは何処吹く風です。

悔しい!!!と地団駄踏んでもその年の差は、おのずと「疲れの蓄積」と言う現象がしっかり証明です。

あっあ〜、これが加齢と言うものかと、元気なかみさんの顔を見て、認識するのです。

私の場合、普段はなかなか「疲労の現象」が見えにくいのですが、本当にその疲れが蓄積した場合、必ず肉体に異常点が露出し、分かり易いので、そんな時にはすぐ医者のお世話と割り切り、病院に直行です。

昨日の頭痛もそのうちの一つと、そして更にひどい場合は必ず「帯状疱疹」と言う症状で、この帯状疱疹も処置が手遅れとなると、後遺症として死ぬまで神経痛に悩まされると言う見過ごす事の出来ない症状が現れるのが特徴です。

過去に何度かその帯状疱疹が発症し、その対応に慣れて早期治療で事なきを得ていますが、今回もその症状かなと思う節が感じられます。

若き頃には考えられない現象が出て、これが「加齢か」と、そして決して特別な肉体ではなく、ごく普通の65歳オヤジです。

多くの方のコメントは心温まるやさしいコメント、本当に嬉しく、元気を頂ける、そして「感謝」の二文字に尽きると、日記を書きそのコメントをスレッドして頂くたびに思うのです。

さぁ今日も元気に「旅の疲れ」を忘れるようにと、今日の目標に向いフッワークも軽く、プラス思考でエンジョイです。

写真は函館「金森レンガ倉庫ベイア」の印象の深いチーズケーキ&コーヒーで、このチーズケーキは日光の明治の館に匹敵する美味しさと感じたのでした。
北海道から帰り、日常的なごく普通の生活に戻り、かみさんと時にはトラブルを起こしながらエンジョイライフですが、最近、パソコンのモニターと接すると「頭痛」がし、1時間もそのモニターと睨めっこが出来なくなってしまいました。

これにはさすがに「どこか脳に異常を来たしたか?」と思い、昨日脳神経外科へ赴いてMRIのお世話になりましたが、どこも脳に異常は見当たらず「ホッ」としています。しかし、それでも今、この時点に於いて「頭痛」は止まず、ズキズキと痛むのです。

この所の気圧の変化かなと、これも例年、この時期になると「首が痛い」とまた「頭痛」と、どこか体に変調が生じ、年中行事?の一つかとあきらめ気味です。

この日記も「毎日のようにアップ」していたが、今はとても頭痛が起きてはその気になれない心境です。しかし、天気になれば「すぐ行動」で、ついお出かけ、この梅雨の合間の晴れを逃してなるものかとばかりに車を走らせては、蕎麦だ!スィーツだ!と遠乗りをしてしまいます。

これは「お出かけ病」と困ったものだと自責の念です。
しかし、そうは言っても、このじめじめとした梅雨空、太陽が雲間から覗いた際には、気持ちの良いもので「こころスッキリ」と、本当に嬉しく、その青空下で風を切り、高速道路を疾走したくなるのです。

先日も1日だけ「晴れ間」があり、これはチャンスとばかりに450`ほどその晴れ間を活用し、疾走!して来ました。
そんな時には「頭痛」は何処吹く風の如く、痛みをすっかり忘れてしまい、その僅かな晴れ間をむさぼるかの様にエンジョイするのです。

人間の肉体は如何に「こころ最優先」で成り立っているか、それを証明したようなものです。

梅雨は嫌だ!とその思考がどこか頭の隅にへばりついている時にはその「頭痛」は鳴り止まず、ところが一瞬の晴れ間ですが、その晴れ間に乗じて、好きな車を走らせる!と言う行動の際には、その頭痛は何処かに行ってしまいます。

苦しんでいるこの痛みが取れてしまうと言うこの現象、人はこころ次第と、そして己の思考で体に生じる変調も「コントロール出来る」と改めて再認識次第です。

私の頭痛も梅雨のジメジメ感が頭から離れない限り、当分、お付き合いしなければならないかなと、その梅雨も関東地方では20日頃には「梅雨明け」となる予報ですので、もう少しの辛抱と自分に言い聞かせ自己コントロールです。

アト僅かで梅雨明けだよと・・・・・

写真はその晴れ間の「浅間山」を背景と、長野県湯の丸高原を群馬県側に少し下りたところの「蕎麦屋」さんです
でっかい道、北海道!はせっかちに2週間で4500`を走った「急ぎの旅」でした。

もっと巡る予定でしたが、かみさんの生理的現象で6月20日に出発し、昨日7月5日に埼玉へ戻りました。15日の間、ホテル泊は3日間、それ以外は「車中泊」で、気まま旅ではありましたがそれは、昨日、その走行距離を調べると道内4500`も走行していたとは驚き!で、こんなに走った旅とはビックリでした。

後日、詳細のページを作成してネットに掲載しますが、北海道を車で走行し沢山の方と知り合いに、そしてリタイアした方が「車中泊の旅」を続けている方が、いかに多いかを実感しました。

知り合った中での一番の高齢者は「81歳のご夫婦」で、岡山県から毎年この時期になると北海道を訪れて今年で5回目との事、車も日産のキュービックと言う車種でしたが、上には上が居るもんだと関心した次第です。

勿論、キャンピングカーでそしてトヨタのハイエース級の大きいワンボックス型での「車中泊用に改造」をされた車が大半で、旅を楽しんでいる70歳以上と思われるご夫婦が非常に多かったのには、頷ける現象でした。

かみさん曰く、生理が上がれば気楽に「旅」が楽しめるわよ!と言われ、それも高齢ご夫婦が多いのも納得させられました。
そんな車中泊の方は日に日に増えて入る様な状況でした。これから「私も」と計画を練っている方、道内に行けば勇気を頂けます。60歳代は若い方で、ずっ〜と先輩がその旅を楽しみ、ノンビリと道内を過している事が把握できます。

私の場合、どうしてもかみさんの≪都合≫もあり、それを中心にした行動をとる必要があり、せっかちで巡る前提で行きましたので、結果僅かな期間に「4500`」と言う道のりになってしまいました。

西側海沿いと襟裳岬を中心とした下の方の海沿いを除いた道内の主たる見所は大半をクリアしての旅で、道内の道路状況を上手く活用し、スピード取締りの「網」を潜り抜けてのスピード散策でした。

富良野では「倉本聡」との会話やサインを頂けるおまけもありましたが、函館、札幌、小樽の都市部もしっかりと、そして稚内や宗谷岬、知床と、ただ残念な事は、ニセコや知床峠、摩周湖や屈斜路瑚周辺を訪れた時は深い「霧」で眺望最悪でしたが、それ以外は良い天気で北海道独特の「広~い大地」は心に深く、深く、刻まれた旅でした。

今度は生理的現象が解消され、気兼ねが無い「ノンビリ」と過せる旅は何時になるだろうか?その時は3シーズン、北海道で過ごす「旅」をしたいという希望を抱いた、今回の「旅」でもありました。

立ち寄り先が沢山あり、撮った写真が1000枚以上になりその整理がまた大変です。時間が入っていますので日記やレポートを書く場合には都合が良いですが、さて何処から整理し、レポートをまとめるか、迷っています。
北海道へ車中泊の旅!はいよいよ出発2010年06月19日
サッカーが気になり、オランダ戦を見てから北海道、車中泊の旅!へ


楽しみにしている車中泊、色々と下調べをして出かけるのですが、どんな結果になるか・・・・・

かみさんといつも行動が一緒で、何をするにもそして行動の前提である「「考え」も一緒と、過去には考えられない生活パターン化してしまった昨今、余りにもくっつき過ぎで、喧嘩が生じて「帰る」と言う事にならなければ良いがと思う。

唯一の心配は「喧嘩」である。しかし、本州で喧嘩なら1日で帰れるが、北海道ではそうは行かない。この事が一番の心配ごとで、お互い、言い出したら止まらない2人、「大人の心」で少し私が我慢の2の字かなと、そんな危惧を覚えながら出発と。

何日間過ごすか、アテのない旅は意外に生活用品が多く、荷物が一杯になってしまった。考えてみるとそれもそのはず、家で生活していた事が、それを寝る以外全てが「外」であり、毎日何気なく行っている事が家以外で生活は、歯磨き、シャンンプー、下着、と沢山、必要になりそれらを持って行かねばならない。

幸いに消費電力の少ない充電を必要とするものは車に備え付けの100V電源で可能であり、12V用の湯沸かし器もと、最低必要なものを、しかしかみさんは着替えが沢山で衣装箱、私も衣装箱をと、そんなこんなで「大荷物」となった次第です。

残された家で一番の心配は8坪程の「家庭菜園」が、これから実のろうとしているトマト、きゅうり、ナスとこの行方である。まだまだ実が付くまではもう少しの時間がかかるが、気になるところである。

北海道のこの先1週間の天気は「曇り」が続くようであるが、曇りノチ晴れに期待し、過去に味わった事の無い体験に「胸ワクワク感」一杯である。

還暦5年生は、今、童心モードに突入、あと数時間後の出発に胸がときめき、大荷物を目の前にしてあれこれと考えるのです。

当分の間、このサイトに踏み込めず、日記もアップ出来ませんが、しか「毎日の日記」は欠かさず記しますので、同じような「旅」を目論んでいる方の為に、色々と情報満載のレポートは北海道から帰った後にアップいたします。

それでも今日のサッカーは気がかりと一人ブツブツ言いながら、準備に取り掛かる。
17日の朝刊の折り込み広告を見ると群馬サファリパークのチラシが入っていました。

本来なら入園料が大人一人が2600円、ところがそのチラシを見ると「500円」と言うサービス価格、これを使う手は無いと、急遽、その群馬サファリパークにかみさんと出かけることにしました。

まだ開園して間もない頃、一度、行った事がありそれ以来の訪れでした。

開園当初と大きく違っていたのは猛獣の展示が今、どこの動物園でも取り入れられている「目の前で下から歩く姿や寝ている様子」が観察できる新アングル!と言う部分が取り入れていたことです。

そして世界の動物園でも有数の「ホワイトタイガー」が数頭、このサファリパークに飼育されていた事でした。

しかし、昨日は夏のようなうだる暑さにどの動物も、グッタリとし多くは木陰で寝ていましたが、唯一、滅多に見る事が出来ない「ライオンの交尾の決定的な瞬間」を見る事が出来、カメラに収めました。

サファリパークは自分の車両で巡って動物を観察でき、1メートルくらい車を近づけて見ることが出来、この施設は出口ゲートから表に出ない限り、何度でも車で巡る事が出来、2回ほど「じっくり」と観察して次の富岡製糸工場へ向かいました。

明治初期の製糸場、紡績業の女工といえば、大竹しのぶが主演した映画『あゝ野麦峠』(1979、東宝)で描かれていたように「悲惨」というイメージがありますが、この富岡製糸場で働いていたのは旧藩士や華族の子女たちのエリートであり、設備や環境も整っていたと知って、大変驚きました。

ここで働く女工さんの生活は悲惨という感じは無く『あゝ野麦峠』の哀れな女工たちと、富岡製糸場の近代工場は、あまりに違いすぎて、随分と今までに抱いていたイメージと異なり認識をあらたにしました。

工場は明治5年(1872年)に建設され今、国、群馬県では「世界遺産登録運動」を行っていますが、それより私的にもっと驚いたのは、この製糸場の周辺が、当時の建物が沢山存在し、その建物で生活している事でした。

製糸場正面の道路を挟んで営業をしていた「カフェ」もその内の一軒で、明治6年に建てられて一部を直しているが殆ど、当時のままと、それが右の写真で、その時代のまんまのカフェです。

尚この富岡製糸場は昭和62年(1987年)に操業停止し、ただ機械はビニールで保護されそのままの状態を見学できます。

製糸工場見学は時間を掛け、しっかり説明をするガイドさんに感謝し、そしてそのカフェでコーヒー豆を挽いた「美味しいコーヒー」を楽しんで帰路に着きました。
北海道行きはサッカーのオランダ戦を見てから出発と・・・・

当初、もっと早く出発予定でしたが、サッカーが気になり、オランダ戦を見ずして北海道へは行けません。

健康とはといつも思うのですが、自分の健康は自己責任と、

いくら健康に良い事を述べても述べた本人が「あんた本当に健康?」といいたくなる具象は沢山、その辺にも転がっています。

人の健康ウンヌン言う前に「己の健康状態」を良く自覚して発言したまえ!と言いたい場合に直面いたします。

現実主義を貫き通し、今まで歩んできた自分を見つめると、机上でウンヌンと言ってもそれは単に「机上」で、あんたその机上通り、実行しているの?

それを実行していれば、そんな不健康そうな体型にはならないでしょう!とつい言ってしまいたくなる事があります。

人の振り見て我が振り直せ!と言う格言がありますが、我が振り見て、人のことウンヌン言うな!と述べたい。

己を省みず、人の事が気になりその人にアドバイスなどと世話をしたがる「おせっかいさん」は世の中にゴマンと存在します。

そんな時「貴方は如何でしょうか?」といつも問いかけます。

医者でもそうですが、医者以外の、健康相談を引き受けてくれる医学的な知識をお持ちの方も沢山、存在します。

しかし、どう見ても生活習慣病の真っ只中といわざるを得ないような体付きのそんな方が、ごもっともな事を述べても「信用出来ない」のが私の考えです。

そんな時、もうその医者には診てもらわない事に徹しています。いくら医学の知識に卓越していたとしても「己は如何ですか」と、疑いたくなる医者は信用できないと常に思っています。

人にそれなりの指導、助言などを行う場合、知識だけでは何の役にもならないと、そして言われることが本当に役に立っていると言う証明は、それを述べる本人がどうであるかを見定める事が必要と思うのです。

人に健康ウンヌン言う前に、自分の健康はと、そして日常的な「生活習慣病の兆し」が見えるような体付きになっていないか、その点検からまず始めて、それから人の世話を!と言いたいのです。

藁にでもすがる思いで健康について助けを求めている方は、肩書きや、知識だけの頭でっかちの輩に、つい騙されてしまいます。

そんな時、騙されない方法は、
一番分かりやすい事、その相談で健康指導する方の体付きを見る事が一番と思うのです。

その方の言われる知識通りに生活を行っていればその方も理想の体型で健全健康!といえるからです。真実は正直なりで、一気に化けの皮が剥がれます。

これ私が≪人を見極める一番の方法≫と・・・・

この思考運用は色々な局面で活用できます。
うれしいです!

それはこの日記に於いて多くの方に優しい心あるコメントを頂けるからです。

元々、人を信じて疑わない事を信条として生きてきたが、この趣味人倶楽部に於いて、しっかりと証明されているに等しいと考えています。

北海道貧乏旅行「車中泊を実現」の日記に於いて、顕著にその優しさを感じ取っています。

http://smcb.jp/_ps01?post_id=2068821&oid=14051..

その日記掲示板に書き込まれているコメントの数や内容は勿論の事、始めての方でも「ミニメール」にて、北海道にいらっしゃったらぜひ連絡ください、と携帯や自宅の電話番号を明記して頂ける方、このような方が数名いらっしゃるこの「嬉しさ」

心より「ありがとうございます」と感謝と感激と、それ以外の言葉が見つかりません。

つくづく、人は信じるためにこの地球上に存在すると、信じる心で人と人との営みがあり地球上の人類は成り立っていると思うのです。

過去の日記で何度もある「死の淵をさまよう」現実を歩んで!と記しているが、その中にはもっともっと他の方から見たら「悲惨」と、思われる事も沢山経験しているが、しかし、人にはある面で頼り、人を信じて疑わない、とそれを糧に生きてきた事は間違っては居なかったと考えるのです。

過去に、人に裏切られた事で「億に近いウン千万円」と言う負債を背負った事がありましたが、しかし、今でもその方に「裏切られた」とは思っていません。

現実にその負債を背負った時点では、精神的に「まいった!」と思いましたが、その裏切られたと言う気持は起きず

人は信じるものとそしてその結果「凶」であっても、それは勉強と、この辺がノーテンキ所以で「楽天的な思想」の根幹と思うのです。

その負債の返却には「睡眠3時間の生活」がフル活動?で難無く、僅かな時間で負債解消をするのですが、この辺もノーテンキがゆえに心の負担もそれ程、影響せずクリア出来たと、それは人を信じて疑わず!恨んだりしない所に、意外に短期間でクリア出来たと「自己分析」するのです。

多くの方は「裏切られた」とそのド壺に嵌まり、ただ恨みだけが心の中でウエイトが置かれてしまい、発想の転換が出来ないジレンマに悩まされるものと思うのです。

私の場合、元来、人は信じるもの!と自分でしっかり脳に刷り込んでいるが為に、そんな過ぎ去ってしまった事、考えても意味が無い、また人を恨む前に、わが身の未熟さをそして勉強させて頂いたと、ここでも「感謝の精神」と、そしてすぐ気持を切り替えてしまうのです。

マイナス思考がすぐ削除され、次の展開方法のプラス思考にすぐシフトされてしまうのが、私の取り得と、我ながら「不可思議」と思わざるを得ません。

今、記した事は、一般的に「人に裏切られた」とその結果の負債であった実体験事例ですが、万事、このような生きざまノーテンキ人生が我を救うと信じています。

我を信じるは当然ですが、その前に「人を信じて疑わない」と、決して悪い人は存在しないと、この趣味人倶楽部の方々も、優しい心あるコメントや親切なメールを頂き、人を信じる精神を再認識するのです。

このような日記は所詮、私の経験に基いて記しておりご理解頂けない方もいらっしゃいますが、それはその方の捕らえ方、人は今まで歩んだ経験で「己の思考」が成り立ち、仕方のない事と思っています。

しかし、過去の日記の「掲示板書き込み」でも、必ず0.5%はご理解していただけない方の存在はあり、それは思考の違いで世の必然性、と知るところです。
いよいよと週末には北海道へ出発と準備が整った。

かみさんの体調も良くなり、20日は埼玉を出て、宛の無い旅へと・・

悲壮感が漂う言い方だが、これは謙遜しての事、ただ「全てを車の中で寝る」と言う事で、宿のリザーブは無し、行き当たりばったり。

車の燃費があまりよい方ではないので、北海道にある安売りガソリンスタンドのチエーン店はしっかり、調べて地図に記しを入れたりと、こんな情報収集に時間が掛かり、一寸、パソコンを長時間、見過ぎていたため「頭痛がする」というおまけがある。

本州の最北端「大間崎」からフエリーに乗るか、青森港にするか迷うところであるが、薬研温泉宿で一泊し、それからとも考えている。

大間崎にはバイクで訪れているが、かみさんは一度も行っていないので「恐山」と「薬研温泉」を行きに訪れそれからと思っている。

あとは北海道気ままな旅で、車中泊の危険度も色々とネットで調べ、後は出発を待つばかりと、今は「ワクワク」気分、最高潮と・・・・

青森まで高速道路1000円で行けるこの楽しさ、また28日より北海道内の高速道路が無料となり、財布にとって大助かりです。

ハイラックスサーフにシュラフを敷き、これが寝床で、こんな感じになります。
近の己は何をやっても楽しい!この言葉以外に適切な表現が見当たらない。

何を言われても「ハィハィ」と素直な気持ちになれ、反発する事も無く、変に屁理屈をこね回し、本末転倒、意味不明な論理で相手を翻弄させる事も無く、そして己自身、腹が立たない。

それでいて己の考え、ポリシーは、深く静かに潜行し心の中では決して譲らない。

表面上では調子を合わせているがそれは調子を合わすだけであり、決して折れる事は無いのである。

ただ、無益な紛争?は絶対にしない術を得たのかと、過去の己を振り返ると、何だろうこの現象。

元来、頑固で自己主張は強く、決して議論しても折れる事はせず、延々と己の説を解き、その説は絶対曲げないと言う、相手にとって「嫌な奴」の部類であると自覚していたが・・・・

喧嘩してもその相手からパワーが頂けると信じ、そして逆恨みされればされるほどそのパワーは大きく、より一層のエネルギーが私の体内に蓄積されるていくと、あり難い事ですが、これは今でもその考えは変わらない。

現在の己の元気さは今まで戦って来た?相手から頂いたエネルギーと常日頃、思っており感謝しているのです。

相手に恨まれたこともあったかも知れないが、一般的に私が恨んでも不思議でない具象的現象も、相手を恨んだことは一度も無く、いつも心の中で「ありがとう」と感謝していた。

いじめも、誹謗や嘲笑、中傷も全てをパワーが頂けると、またパワーとして取り込めると、誹謗中傷が大きくなればなるほど、その方からエネルギーが頂けると感謝している。

お前はアホか!の所以はここに存在する。

「悪口」を言われても、心の中で「しめしめ、やったり!」と喜んでいるところに己の不気味さがあり

表面的には怒る素振りを見せるが、内心、これで貴方のエネルギーがそっくり頂ける、ありがとう」と喜んでいたのである。

このような気持ちで対応出来るようになったのはいつ頃かは定かで無いが、遥か小学生の頃から、もう備わっていたのではないかと、今振り返るとそう考えられる。

その当時は心の中と表面上は一体で、分離した己などと言う、大人の芸当は出来なかった。

その頃より、いつもニコニコと何を言われても「嬉しそう」に振るまっていた己があり、それは、悪口も褒められ口もどんな事を言われようが「ありがとう」と感謝し、
それが顔に表れ、常に嬉しそうに「ニコニコ笑顔」となっていたのである。

いじめられてもその姿勢がいじめても効果なし、と相手に思わせてしまう「強さ」がその当時から持ち合わせ、他の人と大きな差が生じるところである。

ただ大人になってから、馬鹿にされても、悪口を言われようが「ニコニコ」と、それは感謝と思っての表現であったが、相手はそうは取らない。

お前、俺を馬鹿にしているのか!
と言われた憶えがあり、それ以来、誹謗中傷的なことばを投げかけられた場合、チョットだけ、表情が悩んだような素振りを見せるよう繕うようになったと記憶している。

しかし、本当はその誹謗中傷した方の「エネルギーが根こそぎ頂ける」と、感謝し、ありがとうと心の中で叫んでいたのである。
ここも他の人には出来ない芸当の一つと心得る。

今までの人生の中で、この思考がうまく機能していた為に恐れるものが無いと言う活き方をして来たのが、全てが楽しい!と言うノーテンキ度であろうか。

強い精神に勝るもの無し!と言えるこの生き様は、我ながら「何でだろう」と、思うこと度々ある。

しかしそんな事を考えてもあまり意味が無く、ただ己のポリシーは普遍で、行き着くところはその「考え」と「感謝」の姿勢を忘れる事無く貫き通すと。

一般的に「嫌な事」と思われること全てが、それはエネルギーが頂ける、とそう信じ、それから逃げる事無く対面し、良い悪いの結果であっても、それが己の身体に良きエネルギーとして取り込めたら、これは有難い、またそうなるような姿勢で今まで臨んで来た。

現実には、そのエネルギーのお陰で、人一倍の今の健全健康で元気な自分がそこにあると思っている。

世の中、己が敵と思っていなくても、相手に敵視しされ、いやおう無しにその敵は存在するが、その敵からエネルギーが頂戴できる、そう思ったら、それは「汝敵を愛せよ」と、心底、その敵を愛せる。

その敵からエネルギーが頂ける!それは私自身のエネルギーの根源であり、絶対的精神力の礎えの一つであり、ありがとうと言う感謝の言葉そのものに尽きる!と思うである。

いつもの着地点であるが、それは考え方一つで、全ての生き方を左右してしまうと言う現実を、己の生き方を吐露し、延べたのである。世の全ては「考え方でバラ色人生」が・・・・

過去の日記でも、七転び八起きは己の心を強く、更に楽天思想は楽天人生を創造、思考に委ねるのみである。
ミシュランの三つ星観光地・・・・
都心から交通の便が良い上、大都市近郊に豊かな自然が溢れているという点が、決め手として選ばれたようで、フランス人も認める三つ星観光地「高尾山」

しかし家から意外に近いと言う事もあり、それ程に関心も行きたいと言う気も起きなかった高尾山。

車で約1時間ほどを要してケーブル駅に到着してしまうのですが、その場所に始めて、かみさんと出かけその場に立ったのです

天気は薄曇りで強い日差しを受ける事無く、湿度も低く、過し易い陽気であった6月11日、家を8時30分に出発し、10時15分の「日本で一番、急坂を登るケーブルカー」に乗る事が出来ました。

平日は人が少なく、ケーブルカーも適度の混み具合で、丁度良いとは思いつつ、ケーブルカーの最後尾に座りその急坂ぶりをじっくりと味わったが、確かに恐怖心を感じるほど「急」でした。

スタート時はそれ程の坂では無いが山頂駅に近づくほどにその勾配度は増し、山頂駅に近づいた頃は「最後尾」と言う事もあり、恐怖心が沸くのでした。

このケーブルカーを引張っている仕組みにトラブルが生じ、このまま逆走したら、等と余計な考えとそんな事をかみさんと話している内に恐怖心は増幅され、これはヤバイ!と頭の中でパニックっている途端、山頂駅に到着です。

若干の恐怖心を味わった「6分間」の日本で一番、急坂を登るケーブルカー体験でした。しかし返りはリフトで倍の時間を要する「12分間」の、ノンビリと下山とする事にしました。

山頂駅からさらに高尾山山頂へ行くにはいくつかのコースがあり、私たちは一番メジャーな「一号路」を選び、そのコースをたどる事にしたのですが、そのコースには階段が沢山あり、とてもバリアフリーと言う訳にはいきません。

しかし、ハイヒールは論外ですが、中ヒールでも充分に徒歩が可能なほどそのコースは整備され、サンダル履きで行けるコースで、こんなところが人気の秘密かなと思ったのです。

勿論、トレッキングシューズや重装備の登山靴着用の方が大半で、その様な方はメジャーな「一号路」を歩んで頂きを目指すのではなく、その方々向きのコースも幾つかあるようで、そちらを選んでの高尾山山頂のようでした。

こんなサンダルでも充分に可能なコースですが、一号路と言え、沢山の階段があり、その階段クリアも常日頃の「競歩的ウォーキング」が効果を発揮、2段ごとの階段登りも息を切らす事無くクリアでした。

しかし我がかみさん、20歳以上年下ではあるが何と情けない、その階段も心臓が破裂するかの如くの「ハァハァ振り」と、これで体力の違いを思い知ったに違いないと、我が心、密かに「ニンマリ」とするのでした。

これからは時々の私とのウォーキングではダメと、毎日、そのウォーキングの必要性を感じとったであろうと思うのでした。
途中では写真を撮ったり、茶店で団子を食べたりして、約1時間ほど時間を費やし、山頂に着く訳ですが山頂の広場には意外にその山頂を目指して来た方々で溢れかえっていました。
丁度、お昼どきと言う事もあり、その方々は座るに程よい場所を見つけて、弁当をと、私とかみさんも途中のコンビニで買い求めて来た「おむすびとパン」を、皆さんと同じ様に昼食とするのでした。

時間は12時ジャスト、昼食にタップリと時間をとり、それでも30分ほどノンビリとマンウォチングをしていましたが、流石に飽きてきて下山となったのです。

山頂は「ビジターセンターと食べ物屋さん数軒」があり、食べたり飲んだりと「不自由」はしませんが、それほど長く留まるほどではありませんでしたので、山頂を後にしたのは1時ごろでした。

しかしそれでも山頂を目指す方ヶと沢山、すれ違い、私たちが目指していた時間帯より人の数はズッと多かったようでした。

冒頭に触れていた帰りの手段は「リフトで下山」で、やはりリフトは前面に見える眺望を目にし、そして開放感から、行かれる方には、行きはケーブルカー、帰りはリフトをと・・・・おススメです。

下山し高尾駅近くにある老舗の和菓子屋さんで「あんみつ」を、そして帰路途中に東松山、高坂地区で有名な「スィーツの店」で、そのスィーツを、昼食時と途中の茶店でも甘い団子をと、今日11日は甘味摂取警報が発令され、夕飯はこれらの摂取された糖分やカロリーを良く頭に入れてのメニューと、その件でかみさんと話すのでした。

高尾山は首都圏からの自然体験として散歩には本当に良い場所とは思いましたが、しかし同じ様な場所は他にも同様なところ、沢山あり、ミシュラン三ツ星はその評価を算定する方が、他の場所を見ていないのかなぁ、と思った次第です。

同じ首都圏池袋より1時間一寸のアクセス、高尾山同様感動できる処沢山点在する埼玉秩父地方、良く似た環境、お勧め出来ると思いました。
日記って何?2010年06月10日
趣味人倶楽部に足を踏み入れたのは昨年の2月頃と思いますが、以前は政治的話題を中心に首を突っ込み≪熱≫を上げていましたが、今年の3月5日をもってそのジャンルは封印してしまいました。

それ以降、自分の生き様を述べる日記に変え、特に健康生活面にウエイトを記す事をメーンとするようになりました。これは「つぶやき的日記」とし、誰も見ては頂けないだろうと、見て頂く事に期待はしていませんでした。

ところが、先日、タスクバーに「みんなの日記」と言う項目があり、これを見て驚きました。ここは日記のランクが表示されているんだ!と初めて気づいたのです。

過去に「みんなの日記」を開いた事がありましたが、そのランクが示されているとは一向に気づく事無く、何気なく開いただけで、素通りしてしまい分らなかったのだと思います。

ごく最近の事で、自分の日記がランク上位に位置して更に驚き!でした。エッ、これ何と・・・・
私の場合、全てが「実体験に基づいた日記」を掲載しており、一瞬「ヤバイ」と思いましたが、しかし、そのスタイルを続けて時間が経過し、いくら「ヤバイ」と思ってもこれこそ「後の祭り」で、知らない間に多くの方々が見ている現実、これを認識して今に至ることになったのです。

自分の生き方に対して、いつも明るく、ただ前を向く、その事に尽きる人生65年を歩んできたので、万人へ周知の事実となっても、その生き方に共鳴して頂ける方が、一人でもいればいいや、と安易な考えで日記となったのです。
ごく普通の何処にでもゴロゴロしている凡人が、自分の生き様を万人に明らかにしても、取るに足りぬ事で著名な方とは訳が違うと、しかし、色々と活きて来た節目節目に「困難が生じ」てそれを克服してきたその姿が何か役に立てばと言う思いの日記でした。

人生、七転び八起き、と良く言ったものでその格言を見事に実践して来た65年と自負し、公表しただけでも数度の「死の淵」から這い上がり、我ながら振り返ると妙な人生を歩んだと、一笑してしまうのです。
人には無い体験を積んで来ましたが、それは楽しい楽しい、私にとって「感謝」と、そしてありがとうと叫びたい!その一心で記しています。

今は如何にして人生120歳、120歳を生き抜くかと、それもジョークと楽しさを失う事無く、この楽しさのスタンスを貫き通しそして共鳴される方を増やしていくかにウエイトを置いているのです。

先日、「病気んになっちゃぁ、おしまいよ!」のフレーズ日記で

≪あまりカリカリと健康志向での生活も味気ないな・・・

と言うスレッドがありましたが、その通りでカリカリ健康志向などと言う事とはこれも「愚のこっちょ」と、これを楽しい健康志向こそが精神衛生上、身になる事と思っています。

今までグウタラ生活から、急に日常的に楽しくその健康志向を歩む私のスタンスに当てはめたらそれは「苦痛」以外、何ものでもありません。中学生の頃より3〜4時間の睡眠時間と、そして
食べ過ぎない、欲かき過ぎない、ものぐさしない、とこの「三ナイ主義」も、とても急に己の生活観には当てはめる事は不可能なのは当然です。

しかし、これが日常的な習慣として身に付けば、楽しい!この言葉に尽きるのです。
病気になっちゃおしまいよ!と病気になる以前の生活習慣すべてが己の先の健康を決めると常に考え、その生活が大事と、万人が知るところで今更言う事ではありませんが、しかし、それが普通、なかなか出来ないのです。

論理として予防医学がありますが、私の場合、ただ長年の「楽しく、ノーテンキに」に
食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしない、の三ナイ主義を実践し、今の体を作り上げて来たと言うより、私にとってごく自然体の生き様なのです。

日記の件に戻りますが、ここで言う日記とは何?と

その範囲が大変広い事が分り、音楽、映画、本の紹介そして相談事もこの「みんなの日記」と言う事を知りました。本来の日記と言う概念と大きく異なり
アッ、これも日記なんだ?と言う事が分り、認識を新たにした次第です。

食べ過ぎない、欲かき過ぎない、ものぐさしないとこれを貫き通してきた今までの人生、この三ナイ主義と反する生き方をしている方は、なかなか私の日記は馴染めないようですが、それは当然でしょう。

世の中、美々な食が出回り、それもカロリー高く,糖分高く、そして口に入れたら≪美味しい≫と感嘆符!そして歩く事も運動する機会も少なく、ただ体にエネルギーが蓄積、その結果は・・・・
楽しい食事、これが生きがいと言う方もいますがそれはその方の価値観で人生を歩む、その通り、
蓄積されたエネルギーも排出せず,ものぐさの限りを行い健康のバロメーターを示す数値もなんのその、それもその人の価値観、それはそれでその人にとって楽しい人生で、否定もしません。
機械が大好き!集めに集めたハーレー20数台2010年06月09日
中学1年生の時、山から切り出した薪や炭を運ぶ為に、谷を越えてケーブルを渡し、そのケーブルを利用し動力にオートバイそのものを活用していた。その活用していたのが「メグロ500ccのオートバィ」であった。

そのオートバィは山中に破棄され、それを分解した時から始まるのである。もっとも3歳時の頃より乗り物には特別な思いがあり、近所の大工さんに木製の自動車を作って頂き、その自動車をいつも離すことなく持ち続けていた記憶がある。

5〜6歳頃になるとブリキの自動車がおもちゃとして出回り、それを親から買ってもらい、本来の楽しみ方では無く、その構造が知りたくて「分解」するのが面白く、また分解した後に、組み立てる喜びが興味をより一層高め、楽しんで過ごした事が、機械を好きになる原点である。

破棄されていたオートバイはそれは梅雨の時期で、蚊に刺されながらバラバラに分解し、その分解したパーツを自宅に持ち帰って、メグロとは一切関係のない「汎用品のオートバイ構造図」を本屋で購入、その図を手本に組み立てた経験が、機械がそしてオートバイの仕組みを知る好奇心を増す切っ掛けであった。

当時、家にあったオートバイは2サイクルエンジン、構造は4サイクルよりズッと簡単でパーツの量も少なく、エンジン分解は朝飯前と言うほど簡単であった。

その様な事の繰り返し、星の数ほどとチョット大げさであるが、この機械に興味があることが30歳代後半時から40歳代時に人生を救う事になろうとは

1970年代前後の頃、アメリカ生まれのオートバィ「ハーレーダビットソン」はお金持ちの遊びの道具で、1ドル360円時代、当時は今の相場で換算すると1000万円以上の価格であった。しかし、その品質はとても良いと言なかった。しかし、威風堂々とその走りっぷりは地球上、最大の乗り物として、またお金持ちの誇示にはうってつけで、それは羨望の眼差しをまた多くの方の「憧れ」でもあった。

しかし、品質には難点が潜んで少し走らせただけでスグ故障、とても遠くに出かけて行くには勇気が必要で、お金持ちは購入してみたが一度、トラブルに巻き込まれると、一気にその熱は冷め物置の邪魔者扱いとなっていくのである。

そんな邪魔者が10数年も埃まみれに倉庫や物置に放置され、そこに目につけたのが私であった。10数年前にはあそこの家ではハーレーを持っていた!と情報を得てはその家へ伺い、交渉しては埃が2cm近く積もったハーレーを入手しまくったのである。

運良く、邪魔者扱いで何とかしようと言う矢先、スクラップ屋さんが来ては二束三文で引き取るという話が持ち上がっていた。

私が購入するに当たって決して高額ではないが、スクラップ屋より条件が良い、と言う理由でどの家も、容易に売却に応じて頂けた。

これは有難かった。ただ売却を決めて頂いた家には≪即ハーレーを引き取る≫と言う行動を取らないと必ず、横槍が入り、まづ購入が出来ないと言う事も何度か起きて、その経験を生かし、その日または交渉成立で即金支払いしその場でバイクを即引取る事がポイントであった。

購入時の金額はスクラップ屋の引き取り金額とは大きな差であった。しかしスクラップ屋の条件は「数千円」と言う、馬鹿にするのか!と言いたくなるほどひどい、ただ同然の提示であったことが交渉を進める上で、提示した条件は決して高額ではないが、ただ同然より益し!であったことが功を奏し、条件に少し上乗せで、全てが決まったのである。

これには私自身が驚きで、その背景にその家にとっては、いかに「邪魔もの扱い」で何とか始末してと、家族からブイーイングを受け、それが良かったと解釈した。

不思議な事にどの家もそれは「一律の条件」で交渉成立し購入できた事が嬉しく喜びに浸っていた。これは一挙に20数台集めたのではなく徐々にであつた。

その台数は累計で20数台もなってしまったが、この20数台が後に「山を張った商品取引」で私の人生を救ってくれたと同時に右手の「じん帯切断」と言う大怪我が待ち受けていた。

集めた20数台のハーレーはトラブルがありそれは分解してそのトラブルを解消しない限り、ただの鉄くず、路上に乗り出せる「代物」ではなかった。

過去のエンジンを分解、組み立ての遊びが、大いに役に立ち、そのハーレーもエンジン分解、故障部分はすべて直しノントラブル車に仕立てたのであった。

睡眠時間が3時間の日常生活はこの時にも如何なく発揮され、フルコミッション報酬の営業仕事も順調、そして家に戻ってはハーレーの修理、他にも数件の印刷屋の下請けレイアウト、雑誌社からの「レイアウト」の仕事と、時には一睡もしない事も度々、このパワーが他の人には無い要素、こんな事を何年も続けていたので家を数軒建てられた背景である。

人生の悲哀、まだまだ続く
いつも思うのだが、人間は愚かな動物と!

病気になってその深刻さに驚き、そして嘆き、今まで歩んできた自己の生活に反省し悔やむ。

これは愚かなことである。その前になぜ気づかないのだろうか?

自己の健康数値の目安となるデータが簡単に見出せる体重計が市販され、それを毎日チェックすれば一目瞭然と、またそれらを点検できるように機能が備わっている。

医学は確かに進歩しているが特に日本の医学は「病気になってからの事後処理」で、その前は自分で生活習慣を作り上げ、そのような事にならよう健全な慣わしに務める、これが唯一の防御と思うのだがそれがなかなか出来ない事も人間の愚かさである。

病気んなっちゃぁお終いよ!と寅さん風フレーズでいつも心の中で叫んで、そんな事には絶対ならないよう、心がけている。
私の日記は健康に関して書く場合が多いが、それは自分の今まで歩んできた実体験、そして反省を含め述べている。

悪しき食生活の習慣から脱却し「生活習慣見直し改善」を怠ったばかりに10年間に7名の友人が若き命を落としたことを踏まえて、健康を語るとき必ずその例を出す。
http://azusin1.fc2web.com/hdj1/kennkou-0001.html

またその対極に位置する現役で健全健康な103歳の「厚地三郎さん」を例に引き合いに出して語るのである。
それは当然の事で、103歳に於いて健全で活動している姿は、病気にならないキーワードが、ヒントが、沢山ある。

これほどの有益な事例は他に見当たらない。もっとも113歳の木村次郎右衛門さん、この方もしかりで「人生120歳」の裏付けとなる方でもある。

人は科学的に120歳まで生きられる事は証明され、ただその生きる過程で、活きる為に良くない生活を続け、一引き二引きとその年齢が引かれて行く。

この一引き、二引きの部分を「絶対数、少なく減らす」事が寿命を延ばし、健康に健全にそして現役生活を続けられる手段である。

今、貴方の生活習慣は如何でしょうか?と問われたら、病気にならない自信がある、と即答できる方が果たして何人いるであろうか。
「馬耳東風」「馬の耳に念仏」と、そんなことどこ風吹くと気にせず生きて行くのも貴方の人生。

しかし、チョット待てよと立ち止まり、少しでも体重計からはじき出されるデータを見て、これはいけないと気づいたらチャンス到来。
これから生活スタンスを変えればよい事、健全生活を享受できる情報は溢れかえっている。

自分に合った部分を取り入れれば、簡単な事と、思うのだがこれが出来ないのが人間の愚かさ、分って居るけど止められない・・・・・
それは仕方ない、出来ない、出来ないと後はお決まりコース、その終焉は「病気んなっちゃぁお終いよ!」と言ってもそのその病気が待っている。

病気になってあわてふためいてもアトの祭りで、これは『愚のこっちょ』と言いたい。

日本人が4人1人の割合で糖尿病かその予備軍と言う厚生省のデータ、そして3人に1人が何らかの癌で死亡と「驚愕の数値」が出ている。
その病気にならないようにするにはと、それは自己抑制に基づいた悪しき食生活の断絶と、この事に精力を注ぐことが健康的ポジティブとそれは常日頃の思考であり、健全に活きて行く為のポリシーである。

あえてここでは述べないが過去に日記には常に「健康健全に活きて行く為のポリーシー」を前面にまたは密かに忍ばせた事を記している。

人生120歳、食べ過ぎない、欲をかき過ぎない、ものぐさしない!の三ナイ主義

このフレーズに尽きるとまたこのフレーズに基づいて活きている。

この2週間ほど、色々な行事で夜が外食、または招待でご馳走をありつける環境となり、どうしても「食べすぎ」と言う、三ナイ主義違反である。

しかし翌日の朝食はリンゴと人参ジュース200ccか無調整豆乳200ccだけ、そして昼食は「そばかうどん」の麺類を軽くと、食べ過ぎの夜は、翌日、絶食または前出のジュース類と、この調整は必ず行い、食べすぎの抑制である。

この自己抑制がキーワードと、この『自制』は全てに通じ、運動不足にならない為の日常習慣ウォーキングやストレッチ、そして如何にしてパワーを取り込む生活を習慣として行うかである。

そのヒントは過去の日記でしるし、そして有言実行である。

ただ私にとって「病気んなっちゃぁお終いよ!」と、病気になってしまってからの対処は常に「愚のこっちょ」と、一切、意味の無いものと、この人生65年を振り返り、思うのである。

ごろ寝!などと言うものぐさの権化!これなどは典型的に大嫌いな生活慣習、こんな事の一つ一つの生活パターンが疲れを知らない体つくりに貢献と、そして睡眠3〜4時間がベストコンデション。

中学生からの良き習慣、そしてエネルギーの源の活き方で、誰よりも誇れる部分でもある。
ピアノ連弾と交響曲2010年06月07日
会場はシーンと静まりかえりただピアノの音だけが力強く鳴り響く・・・

1台のピアノ、そしてそのピアノに2名の演奏者、横には譜面のページをめくる黒子、白い鍵盤に魔法を掛け鍵盤以上に「白い手指」は無駄がない動き、まるでオートメーションの機械が細かい作業に強弱をつけ、リズムカルに動くようにそして正確にその「白い手指」20本は鍵盤を這うように叩くのである。

1500人が収容する会場を破壊でもするかのような力強いピアノの旋律、そして時には耳をその一点に集中しないと聞き取れ無いほどのかすかで繊細な旋律、大胆にそしてナイーブに、まるで人生の縮図を一瞬の如く、わすか40分ほどの交響曲がその2人のピアノ連弾による見事な演奏で表しているように捉えられる事ができた。

これは昨日のピアノコンサートにかみさんとその家族3人と出かけたひとコマである。
休憩を挟んで2時間15分の最後の演目
『ドボルザーク:交響曲 第9番 ホ短調  作品95≪新世界≫より』

演奏中、彼らの顔の表情そして鍵盤上の手の動きが一目瞭然と把握できるその位置、前列2列目の特等席を確保しての観賞であった。

かみさんとその母親はこの奏者のピアノコンサートは2年前にも聞いており、これで2度目である。私は始めてであったがなかなか今までには経験したことの無いユニークなアーティストであった。

経歴を見ると1981年生まれの若手で芸大音楽部器楽科を首席で卒業、アニメの「のだめカンタービレ」演奏指導や、のだめオーケストラコンサートに出演、多数のピアノコンクールにて演奏優秀者に選ばれている経歴である。

日本に於いてのマニアック的なピアノ演奏法は若手のピアニストとしてこれから更に頭角を現し、まだ知名度として低いが有望視されている奏者の一人である。

あまり他のピアニストが手がけない部類の曲を演奏する事を得意とすると感じられる、その演奏する演目が現していた。

ラフマニノフ:前奏曲集より 作品3の2≪鐘≫ 他
この「鐘」はオリンピックの際に浅田真央ちゃんがフリー演技で使用され周知のとおりである。

ラフマニノフ:楽興の詩 作品16より  第3番 第4番

ショパン:3つのマズルカ 作品63

リスト:ハンガリー狂詩曲  第13番 イ短調    第2番 嬰ハ短調
(カデンツア:アムラン)

そして前出の「ピアノ連弾で演奏」のドヴォルザーク交響曲であった。

演目を見て、知るひとぞ知ると言う、ピアノの演奏としては高度なテクニックを要する曲目を選んでのコンサート、それは見ごとであった。

手の動き、脚の動き、そして顔の表情は最前列より2番目、それは手に取るように見え、鍵盤を時には叩き、時には腫れものにでも触れるかのな演奏でも、決してピアノから発する音は濁ったり、歪んだりすること無く「鮮明で、澄んだ音色」を心地よく鳴かせ聴衆を魅了させていた。

額から零れ落ちる汗は、留める事無くしずくの如く彼の足元に落ち、その力演にはただただ「感動」の2文字であった。

このような力演かと思うと曲の合間には、わすかな軽口ジョークを挟み、聴衆を爆笑の渦に陥れる。

今まで見て、聴いてきた多くのピアノコンサート、数々のアーティストをどれだけコンサートで体験して来ただろうか。

彼はこれまでにないピアニスト、ユニークなパーソナルティで魅力を感じずにはいられない今風のアーティストと・・・

テクニシャンでマニアックな演奏と、それでいて対極な軽口ジョークを叩く、このギャップは、私を一気に彼のフアンと化した瞬間でした。

彼の名は「大田佳弘」

大田佳弘トークとピアノコンサートでした。

6日の演奏会場はバブル期絶頂の頃、埼玉県で最高の音響設備を誇り、現在でも多くの有名アーティストがレコーディングで「収録」に使用する業界でも有名な場所が会場でした。
100万本のポピー!6月4日のこと2010年06月05日
マイナーなポピー畑と思っていたら、今年は様変わり。

4日の昨日、この季節になると100万本のポピーが美しい花を、色を放ち、必ずそのポピーの鮮やかさに酔いしれたくて訪れる場所がある。

埼玉北部の高原牧場で、五年ほど前から毎年、この季節、訪れているが、今年は例年にない人だかりであった。

知るひとぞ知る!のマイナーな場所と密かに楽しんでいたが、昨日の訪れる人の数を思うと、マイナーからメジャーに昇格だと感じるのである。

何でだろ?何でだろ?と一寸古いギャグをかみさんとつぶやきながら、写真に収めていると、訪れている観光客の一人が、私のそばを通る際に言葉を発していた。

ここ昨日NHK総合TVでレポート放送していたんだよね!と、これで納得でした。
細い道路に駐車したり、牧場側で設けた駐車場は収容切れず、車で溢れかえっていた。

ここも多くの方に知れ渡り、もう今までの訳には行かないと・・・・とそう思いつつ、NHKの放送で私自身、その季節の花を教えていただく事しばしば、やはりありがとうと感謝ですが、しかし密かな場所がメジャーに昇格は、人気者の宿命と。

ここを後にして埼玉県秩父地方は町おこしで「そば」を大々的に売り込んでおり、そのそばの花が一面に今、その畑を埋め尽くし、また可憐で清楚な花が見頃と言う事で、ここにも訪れて来た。

今日、5日と明日6日は「そば祭り」のイベントが行なわれると言う事で準備が進められていた。

しかし昨日は誰もおらず写真に収めるには最高のポジションで好き勝手に撮れることが出来た。

今日5日はそばを無料で食べさせてくれると言うイベントが行なわれ、相当の人々が訪れ、ゴッタガエスと想像するのである。

しかし、ポピーの花の鮮やかと、花の性格が「対極」の質素な花、そば、この季節の花はいつも心を和ませ、また癒しの効果、そして感性を肌で感じる効果は、「感激」の二文字、この言葉そのものと思うのである。

5日、6日は、お近くの方、お勧めです。

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